Tiny garden

それもまたよくある話(1)

「うーん……さすがにこういうのはちょっと……」
 朝、営業課に出勤した私を迎えたのは、霧島さんの唸り声だった。
「だよなあ。参ったな、安井にでも声かけるか」
 次いで石田主任の溜息が聞こえ、私は、何の話だろうと首を捻りつつドアを開ける。
「おはようございます!」
 すると課内にいた二人はほぼ同時に振り返った。二人とも営業課の真ん中で立ち話をしていたようで、漏れ聞こえていた少し深刻そうな会話内容とは裏腹に、こちらにはいい笑顔を向けてくれた。
「あ、おはよう小坂。今日も早いな」
「おはようございます、小坂さん」
 それから霧島さんは眼鏡の奥の目を瞬かせて、
「そうだ、先輩。小坂さんを誘って行ったらどうです?」
 と言った。
 やぶからぼうに、誘う、って何のことだろう。
 疑問に思いつつふと視線をやれば、霧島さんは薄い長方形の紙切れを二枚――ぱっと見、お芝居か何かのチケットみたいなものを手にしていた。
 それはどうやら石田主任の持ち物だったようで、霧島さんの手から主任へと渡され、主任は困り顔で紙切れをひらひらさせている。
「いや、小坂はもっと駄目だろ。退屈させても悪いし」
 一度はそう答えた主任は、だけど眉根を寄せてしばらく考え込んだ後、私の方を振り返った。
「なあ小坂、お前、演歌と日本酒には興味ないよな?」
「演歌と日本酒ですか? ええっと、どっちもそれほどは……」
 どちらも興味が全くないと言うほどではないけど、確かに演歌を日常的に聴く趣味はない。せいぜい取引先とのカラオケ用に往年の名曲を練習しているのと、あとは年末の紅白で聴くくらいだった。演歌って歌詞が物寂しいって言うか、明るくない感じがして、普段聴くのにはちょっと向いていない。
 日本酒の方もあんまり飲んだことがない。水割り程度で音を上げる私に、ビール以外の甘くないお酒は未だハードルが高かった。お正月にお神酒として口をつける程度だ。
 私のぱっとしない答えを聞き、主任も予想通りという顔をした。
「そうだろうと思ったよ。じゃあやっぱり、お前誘うっていうのもなあ」
「何か、困り事なんですか?」
 こちらから尋ねてみると、主任は手にしていた薄い紙切れを私に差し出してくる。
「これ」
 受け取ってよく眺めてみる。素材はつるつるしたコート紙で、表面には名前も知らない、でもきれいな女性歌手の顔と、酒瓶に枡を並べたイメージ画像とが写されている。タイトルは『地酒と旬の味覚を味わう夕べ』で、女性歌手の方はゲストとして招かれ、歌を披露する旨が記されていた。
 私の読みは当たりで、この紙は間違いなくチケットだった。
 ただ催すのはお芝居ではないようだし、コンサートという分類でいいんだろうか。会場は市内にある老舗ホテルの大宴会場だそうで、開催日は今週の金曜日。開場は午後六時、開演は午後六時半となっている。
「つまるところ、ディナーショーってやつだ」
 主任はそう言うと、ぽかんとする私に苦笑を向けてくる。
「お前もこういうのは専門外だろ。行ったことないよな、ディナーショーなんて」
「ありません」
 ご縁はなかったけど、テレビの特集で取り上げられているのは見たことがある。
 ホテルのレストランみたいなところで皆でご飯を食べながら、歌やトークを聴いたりする催しだ。そういうところって普通のライブなんかよりもぐっとフォーマルで、大人向けって印象があった――私も一応大人だけど、もっと上の、うちの両親世代くらいの人向けかなって。
「付き合いでチケット買わされちゃってな。取引先が協賛やってんだ」
 石田主任はぼやくように続けた。
「こういうのって金だけ出せばいいわけじゃなくて、空席作っちゃいけないだろ」
「会場が会場なだけに、空席あると目立ちそうですね」
「ああ。だからチケット買っておしまいじゃなくて、どうしても出向かなきゃいけないわけだ。まあ俺は日本酒も飲むからいいが、連れが見つかんなくて」
 そこまで言うと、主任は傍らに立つ霧島さんを見る。
 霧島さんは少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません、俺は日本酒はちょっと……。次の日確実に引きずりますから」
「……ってことで、霧島には振られてる」
 主任も笑って肩を竦める。
「しかも買わされたのが昨日の話だ。今週末の予定だってのに今更話持ってくるんだもんな。こっちだって、声かけてすぐ捕まるような奴もそうそういない。その上こんな、地味目なイベントじゃ一層だ」
 そうしてチケットを睨むように見つめて、
「演歌に日本酒じゃ若者は誘えないよな。あとは人事課長にでも頼むしかないか」
 と言っていた。
 仕事上のお付き合いというのもなかなか大変なもので、私も取引先の商品を自腹で購入してみたり、取引先主催のパーティに招かれたりしたことは過去にもあった。まして客単価の高い主任ともなれば、そういうお付き合いが末永いご愛顧を支えていくことにもなるのだろうし、蔑ろにできるはずがない。
 演歌と日本酒、かあ。私も、飲んだら引きずりそうな予感はあるけど、次の日がお休みならいいかな。
 何より、主任がお困りのようだから。
「もしよかったら、私がご一緒します」
 私は挙手の上で立候補した。
 途端、石田主任は目を丸くして私を見る。
「え、いいのか? お前が行っても退屈かもしんないぞ」
「お供を探していらっしゃるんですよね? だったら私にお任せください!」
 空席を作ったらまずいというなら、そのくらいのお手伝いはできる。私は胸を張って名乗りを上げた。
 だけど主任の表情は曇っている。どうも気遣わしげだった。
「そう言うがお前、演歌だぞ? つまんなくないか?」
「確かに造詣が深いとはちっとも言えないですけど……大丈夫です」
 私は演歌に明るくはないけど、歌の良し悪しくらいはわかるんじゃないかと思うし、楽しめなくはないんじゃないかな。楽観的かなあ。
 正直、ディナーショーってどんなものか、一度見てみたいっていう好奇心もある。
「いいんじゃないですか、先輩。小坂さんがせっかく言ってくれてるんだし」
 霧島さんがほっとしたように語を継いだ。
「それに女の子なら、あんまりお酒飲まなくても咎められたりしないでしょうし」
 あ、そっか。日本酒を楽しむ席でもあるんだっけ。
 その点はちょっと、私だと力量不足かもしれない。主任の判断を仰ぎたいところだ。
「美味いもんが出るらしいから、そこらへんは小坂にぴったりかもな」
 主任は私を見て、軽く苦笑いを浮かべる。
 ただやっぱり、少し迷っていると言うか、私がつまらなくないかをとても気にしているようだ。
「でもなあ……。何か、申し訳なくてな」
 そんなふうに呟きながら困ったように考え込んでいる。
 恐らく主任はこういう集まりに、以前も足を運んだことがあるんだろう。その時、何かつまらない思いをしたりしたんだろうか? そこまでつまらなさそうには聞こえないんだけど、実際のところはどうなんだろう。
 と言うより、そういう反応を取られるとかえって興味が湧いてくるんだけどな。
「むしろ、是非お願いします。行ってみたいです!」
 私は食いつかんばかりの勢いでお願いしてみた。
 美味しいものが出るって言うなら尚のこと、行ってみたい。そういえばイベントタイトルだって日本酒と旬の味覚を味わう夕べ、だ。きっとお酒にぴったりの美味しいものが出てくるに違いない、って食い意地張りすぎかもしれない。
「そこまで言われたら、さすがに連れてかないわけにいかないよな」
 ようやく、主任が表情を綻ばせた。どこか安堵したように私を見て、
「じゃあ、悪いな。金曜の夜、空けといてくれるか」
 と言ってもらったので、すかさず頷く。
「はいっ。よろしくお願いします!」
「こちらこそ。付き合わせて悪い」
「それで、チケット代はおいくらですか? 私、自分の分は払います」
「いいって。俺が買ったもんだし、誰誘っても金は取らないつもりでいたから」
 主任は責任を感じているような、心底申し訳なさそうな口調で言った後、私を見て笑った。やはり気遣わしげな笑い方だった。
「むしろ、ありがとな、小坂。可愛い女の子連れてく場じゃないって思ってたから、お前を誘う気はなかったんだよ」
 こんな朝早くから、しかも職場で、主任は私の心臓に悪いことを言う。
 私は多分わかりやすく真っ赤になっていただろうし、それを裏づけるように頬の辺りが火照るのを感じていた。でも、普段ならそういうところを目ざとく見つけてからかってくるはずの主任は、ただ済まなそうにしている。
「お前が行きたいって言ってくれて、助かった」
 そんなに気を遣ってもらわなくてもいいのに。
 私はもう、主任のお役に立てたというだけでも嬉しいから、そんな感謝の言葉にもついにやにやしてしまった。
「ほら、小坂さんを誘うのが一番手っ取り早かったじゃないですか」
 霧島さんがそう言うと、主任は顔を顰める。
「簡単に言うな。こんなつまんないとこに誘って、なんて俺が振られたら困るだろ」
「そんなことで振られるとしたら、単に先輩の日頃の行いが悪いだけでしょう」
「うわ、感じ悪っ」
 主任は堪らずと言った感じで呻くと、即座に言い返した。
「好きな子は楽しいところにだけ連れてきたいっていう男心がわかんねえのかお前は!」
 私の目の前でそんな会話をされても、何て言うか、反応にすごく困るんですが……。
 さておき、主任がそこまで言うようなディナーショーなるもの。一体どんな催しなんだろう。そこまでつまらないものには思えないんだけど、それは単に私が、『旬の味覚』に釣られてるだけだろうか。
 もちろん、石田主任が一緒なら、どこでも楽しい予感だってするし。

 迎えた金曜の夜、私と石田主任はそれぞれに仕事の折り合いをつけ、定時ちょっと過ぎに退勤した。
 お酒を飲む席だから、主任は今日は車を置いてきたと言っていた。だから会場のホテルまではタクシーに乗って出かけた。主任と一緒にタクシーに乗るのは霧島さんの結婚式以来で、その時の記憶が鮮明なせいか、本日もなんだかフォーマルな気分になっている。
「何だか緊張してきました……」
 後部座席に並んで座る主任に、私はこっそり打ち明けた。
「いや、緊張する必要は全く、断じてない」
 主任は笑いを堪えながら答えてくれた。
「ってかどこに緊張する要素があるんだよ」
「だってそれは、私、こういう催し物って初めてですし……」
「行ってみたらこんなもんかって拍子抜けするぞ。そんなに気負う場でもないって」
「そうかなあ……。だってスーツで行くような場所ですよ?」
 服装については事前に、主任から確認を取っていた。特別ドレスコードがあるわけではないものの、やっぱりこういう場だと華やかに着飾ってくる人も割と多いものらしい。前に出席した際はカクテルドレスの人もいれば着物の人もいた、と主任は言っていた。
「でも今回は、どっちかって言うと地元名物のPRショーみたいな感じだからな」
 主任は私の緊張を解そうとしてか、軽い物言いで続ける。
「地酒をアピールするついでに地元出身歌手も宣伝して、更に地元の食材を使った料理出して……っていう郷土愛みっちりなイベントだ。お前がイメージしてそうな、テレビで見るようなディナーショーよりかはくだけた雰囲気になるんじゃないか」
 そういえば今回のイベントの協賛にも地元に本社のある企業がずらりと名を連ねていたし、郷土愛に根ざした催しというのは間違いなさそうだ。
「だからあんまり気負うな。元取るつもりで遠慮せずたらふく食えよ」
 励ますように主任は言い、ぽんと私の肩を叩く。
 私は黙って頷くと、膝に乗せていたスパンコールのパーティバッグに視線を落とした。本日華やかなのはこれだけで、私の服装はいつもの仕事用のスーツだし、靴だってただのパンプスだ。一応スカートにはしてきたけど、その程度の工夫で華やぎが加わるというわけもなく、今の私はどこからどう見ても額面通り、仕事帰りのOLさんでしかない。
 こんな格好で会場では浮いたりしないだろうか。私が懸念を示すと、主任は手をひらひらさせた。
「ないない。皆そんなもんだろ、きっと」
「そうだといいんですけど……。もうちょっと着飾ってもよかったかなって」
「気にすんな。十分可愛い」
 ためらいもなく言い放った主任は、その後で私の反応を窺うように目の端でこちらを見る。
「あ、そういうことか。わざと謙遜して、俺に可愛いって言って欲しかったんだな」
 つり目がちな視線はこういう時、とみに鋭い。心臓が大きく跳ねた。
「そっ……そんなことないですよ!」
 否定したい私の声はいかにも挙動不審に裏返る。
「本当か? 内心ぎくっとしてないか?」
 一方、落ち着き払っている主任はタクシーの運転席の方を向きながらも、実に楽しそうな笑みを浮かべている。
 別に謙遜とかではないんだけど、なかったつもりなんだけど、何かちょっとぎくっとしたのは事実だったりもするから悔しい。私は黙って主任の横顔を眺め、主任はその視線を笑いながら受け止めている。
「ま、可愛いのは事実だから、引け目に感じることはこれっぽっちもないぞ」
「からかわないでください、主任!」
 こういう会話になると弄ばれてる感じがする。私も目を逸らして正面を向くと、真横からは不満げな声が聞こえてきた。
「って、今は退勤後だろ? 何で俺を『主任』呼びなんだよ、よそよそしい」
「だって、仕事で行くみたいなものですし……スーツ着てますし」
 お互い勤務中と同じ格好で、気持ちの切り替えがついていないというのもあるし、そもそもが主任の仕事のお付き合いで行く先だからというのもある。そういう場で『隆宏さん』って呼んじゃうのはどうなんだろう。勤務時間外だからいいのかな。でもなあ。
「そりゃ、デートで出かけるにしちゃ騒がしい場所ではあるけどな」
 主任は言って、パーティバッグの持ち手を握る私の手に、大きな自分の手をそっと重ねてきた。
 思わず顔を上げると、ほんのわずかにだけ首を傾げてこっちを向く。
「これから酒も飲むんだし、取り繕う必要もないだろ。普段通りにしてろよ、藍子」
 こんな時でも主任は大人の余裕たっぷりだ。
 どきどきする反面、その余裕が少し羨ましい。
 私はろくに返事もできず、黙って手を握られていた。ただ視線を動かした時、バックミラー越しにタクシーの運転手さんから興味深げな目を向けられていたのに気づいて、結局慌てふためく羽目になった。
 と言うか、これもデート、だったんだ。そう考えたら一層どきどきしてきた!
▲top