Tiny garden

代打、小坂(2)

 結局、安井課長はその脅迫めいたメールを送信してしまった。
 石田ならきっとすぐに返事を寄越すだろ、そう言って課長は笑っていたけど、直後に鳴ったのは私の携帯電話だった。
「あっ、ちょっと失礼します」
 一言断ってから確認すれば、受信メールが一通――送り主は予想通りと言うか何と言うか、石田主任だ。
『どうせ貰うならお前からの励ましメールがいい』
 メールの本文は簡潔にその一行だけだった。それだけでも私はなぜだかにやけてしまって、そして私の様子に気づいた安井課長がこちらを覗き込んでくる。
「石田の奴、俺からの激励じゃ不満だって言うのか」
 激励、にしてはさっきのメールは物騒な文面だったような気もするけど、でもそう話す安井課長の方がまるで不満げだったのはおかしかった。私と目が合えば悔しそうに、
「しかも俺には返信なしだぞ。不公平じゃないか、なあ小坂さん」
 と同意を求めてくる。
 私は笑いながら応じた。
「きっと主任も、どう返事をしようか迷っちゃったんですよ」
「それはないな。あいつはこっちが一つ言えば三つ返してくるような男だよ」
「じゃあ後ででもお返事来るといいですね」
「……いや、そこまで返事欲しいってわけでもないんだ」
 課長は軽く苦笑しつつ、照れてもいるようだった。
「そういう素直な言い方されると困るな。俺は君ほど石田を待ち焦がれてるわけじゃないから」
 そんな風に釘を刺すってことは、何だかんだで安井課長も、なるべく早く主任に来て欲しいって思ってるんだろう。素直じゃないなあ。
 よし、私からも主任へエールを送っておこう。何て書こうかな。
「どこが激励ですか。普通に脅迫でしたよ」
 遅れてツッコミを入れてきた霧島さんも携帯電話を手にしていた。画面をこちらへ向けて腕を伸ばし、私と安井課長へ見せてくる。画面上には一通の受信メールが開かれていて、そこには石田主任からのメッセージが記されていた。
『安井が小坂に不届きな行動を取ったら、その時はお前が安井を切り捨てろ!』
 先程の脅迫メールに負けず劣らず物騒な返信だった。
「あの人、俺を鉄砲玉にする気ですよ」
 呆れる霧島さんに、安井課長が声を立てて笑う。
「そんなこと言ってる暇あったら仕事片せって送ってやれ」
「先に煽ったの誰でしたっけ……? まあ、送りますけど」
「ついでに『俺と小坂さんがちょっといい雰囲気』って書いといて」
「嫌ですよ。次に何を指示されるかわかったもんじゃないですし」
 霧島さんはどうやらものすごく簡潔なメールを送ったらしい。ものの数秒で送信まで全部終えてしまって、すぐに携帯を置くと、大根サラダをばりばりと食べ始めた。合間にビールを一口飲むと、途端に微妙な顔をする。
「生の大根とビールって相性凄まじいですね。この辛味と苦味のハーモニー」
「奥さんのありがたみがわかったろ、霧島」
「そうですね、本当に……」
 安井課長にからかわれて真面目に答えた霧島さんは、私たちに向かって発破をかけてくる。
「ほら、早いとこサラダのノルマクリアしましょう。石田先輩が来たらもうちょっとビールに合うものを注文したいです」
 ノルマ扱いなのは笑ったけど、ビールに合うものを食べたいのは私も同じだ。ここは是非とも消費に貢献しよう――と、その前に主任にメールを送ってしまおう。
 お二人の前でいつものような文面を考える余裕はなかったので、私も簡潔に用件だけ書いて送った。霧島さんも安井課長も、もちろん私も待ってますから、もし来れたら来てください。お仕事頑張ってください……ここまで打って、ちょっと無難と言うか、寂しい文章のような気もしてきたので、もう一言付け足しておく。
 ――私たち、気づいたら隆宏さんのお話ばかりしています。

 それから一時間ほど経つと、さしものサラダ軍勢も大方片づいてきた。追加注文では各々、サラダよりはビールに合うメニューをオーダーして、お酒も少しずつだけど進んできた。
 そうなっても私たちの話題の中心は、ほぼずっと石田主任についてだった。
「大体、何であいつだけいい目見てるんだか。こんなに若くて可愛い部下ができたと思ったらそのまま彼女にまでしてしまうなんて、全くもってけしからん。そして羨ましい!」
 アルコールが回ったからなのか、安井課長はそんな言い方をしてくる。私としては反応に困る。
「あの、それほどでもないです……」
「いやそれほどでもあるね。同い年の奴が七つ下の子と付き合ってるってだけで何だか腹が立つ」
「男の嫉妬は醜いですよ、先輩」
 霧島さんは念願の冷やし中華を食べながら冷静に応じた。
 ふん、と安井課長が鼻を鳴らす。
「嫉妬もするだろ。あいつがどんな善行を積んで可愛い彼女を手に入れたっていうんだ」
「善行っていう考え方が既に間違ってると思います」
「じゃあ何だ、運か。運の問題か」
「まあ、ぶっちゃけて言えばそうでしょうけど」
「お前が結婚できたのも運がよかったからか」
「それはどうですかね。俺の場合は日頃の行いのよさかもしれません」
 笑顔の霧島さんを見て、安井課長は面白くなさそうな顔をしていた。
「どうして俺だけ寂しい思いをしてなきゃならないんだ。納得がいかない!」
 むくれたようにビールを呷る姿を見て、確かに不思議だなあと私も思う。安井課長も素敵な人だし、口ではあれこれ言いつつも優しい人だし、歌も上手いから社内には憧れてる女子社員もちらほらいるって小耳に挟んだことがある。だからお付き合いしてる人がいないのは意外だった。
「小坂さんも、石田について不満とかない?」
 その安井課長が私に水を向けてくる。考えがよそに飛んでいたのもあって、私は慌ててかぶりを振った。
「えっ、ないですよそんなの。主任もとっても優しい方ですし」
「そうは言っても、付き合ってたら不満の一つや二つくらい出てくるものだろ? むしろあいつは優しすぎて駄目になるタイプだしな。何ならここで洗いざらい喋っちゃってもいいんだよ」
 優しすぎてよくないことなんてあるのかな。人間、できるだけ他人に優しい方がいいように思うけど、今の言葉には安井課長なりの懸念、あるいは心配みたいなものがそこはかとなく窺えた。
 そして石田主任という人は皆にはもちろん、私に対しても本当に優しくて気配り上手な人だ。一緒にいて辛いことなんてないし、幸せなことばかりだった。
 だから不満なんてちっともないんだけど、現状に百パーセント満足しているかと言えばそうでもないのかもしれない。だって、こうしてお付き合いを始めて数ヶ月経った今でも『慣れた』という実感はまるでないし、未だに二人でいる時はすごくどきどきするし、緊張もする。一緒にいる時間が長くなればなるほど、浮つきがちだった気持ちも落ち着いていくんじゃないかって思っていたのに、落ち着くどころか心臓の休まる時がないくらいだった。
 あ、そういう意味でなら一つだけ、不満と言うか困ったことが。――もうしばらく、一緒にお風呂に入るのは遠慮したい、です。あの時は本当に、すごく、のぼせてしまったから。
「……不満を聞いてるのに、何でそこで赤くなる?」
 どうやら安井課長も非常に目ざといひとらしく、そのご指摘に私はむせた。
「ぜぜ、全然っ、何でもないです! 本当です!」
「ああそう……。聞いた俺が馬鹿だったかな」
「先輩、自分で地雷踏んじゃいましたね」
 まるでやさぐれたように呟く課長に、霧島さんがからかいの言葉をかける。でも私の方がからかわれたような気分になってしまった。ビールもそれほど飲んでいないのに、もう耳たぶが熱くなっている。
「あの、本当に、不満なんてないんですけど」
 まとわりつくような熱を背負いながら、私はぼそぼそ弁解した。
「でもこうしてお二人とお話をしていると、石田主任は優しくて温かい人なんだって改めて感じます。主任がいなかったら、私はこの場に招かれることもなかったですし……」
 私はまだまだ経験不足の未熟な人間だけど、一人きりではできない成長を、二人でだったら遂げられると思っている。
「こうして主任の傍にいることで、人と人の繋がりも、見識も広がっていくのは素晴らしいことだなって……だから今も、すごく幸せです」
 恋をして手に入るのはときめきだけじゃないんだって知った。もちろんそれもいいものだし、私はそれにすら今日まで打ちのめされ続けてきたけど、いつかはどきどきする時間にもしっかりと慣れてみせたい。戸惑うだけの自分でもいたくない。隆宏さんのおかげで手に入れることができたものの全てを大切にしていきたい。
 私は当然のように本音で打ち明けたつもりだったのに、安井課長は急に酔いが醒めたような顔になり、頬杖をついて溜息を一つ。
「若いお嬢さんの惚気話は、夢に溢れてる分だけ破壊力凄まじいな」
「小坂さんの話聞いてると、石田先輩がまるで聖人君子のように見えてきます……」
 霧島さんまで目を眇めて頷く。
 何かおかしなこと言っちゃったかな。まごつく私をよそに、安井課長はさっとメニュー表に手を伸ばしてそれを広げると、歯軋りしながらこう言った。
「駄目だ霧島、大根サラダとビールを追加だ! 俺にはこの空気は甘すぎる、もっと苦味を寄越せ!」
「先輩、ゴーヤーも行きましょう! ゴーヤーチャンプルーも一つ!」
「よしわかった! 今夜は全身緑に染まるくらい食うぞ!」
 お二人はメニューに載っている野菜料理を片っ端から注文し始める。その様子といったら、特に安井課長は鬼気迫ると表現しても過言ではない様子だった。
 私は今更のように居たたまれない心持ちになりつつ、こんな時、石田主任ならどう答えてただろうと考える。主任も割と、お二人の前で私の話をすると聞いているけど……やっぱりお二人からはこんな反応をされてたんだろうか。

 当の主任がお店に到着したのはそれからまたしばらく経ってからで、私たちのテーブルへ辿り着くなり卓上のグリーングリーンぶりと、大根サラダやゴーヤーチャンプルーを頬張るお二人を見て、いささか困惑していたようだった。
「何だ? 今日は草食動物の集まりか?」
「甘いものはもう十分って意思表示だ」
 安井課長の答えに石田主任は理解ができたのかどうか、首を捻りつつも違うことを言った。
「とりあえず、安井はそこを退け。小坂の隣は俺の席だから」
「何だよ、そこは『どうしてお前が隣座ってんだ』って盛大に妬くとこだろ」
「俺は仕事が無事に片づいて、そして小坂の顔が見れたらそれで十分だ」
 石田主任はからっと笑うと、安井課長が退けた席にすんなり、別に血を見ることもなく座ってみせた。それから私に対して、もう一度柔らかく笑いかけてくれる。
 私もつい嬉しくなって、口元の緩みが抑えきれない。
「お疲れ様です、主任」
「ああ。お前の顔が見たくて、今日は頑張っちゃいました」
 しかもそんなことまで言ってもらった。ちょっとどきっとした。
「やっぱあれだな、可愛い子からの励ましメールに勝るものなし。お前が俺の話ばっかしてるって言うから、そりゃもうどんな顔で話してくれてんのかって見たくなっちゃうだろ。おかげで仕事捗るったらなかった」
 急なお仕事のはずで、結構大変そうだったのに、ちゃんと済ませてくるなんてすごいな。やっぱり主任は立派な人だ。
「残念でした。もうお前の話なんてしてやらないから」
 安井課長はまるで子供みたいに拗ねながら、私の真向かいの席へ移動してくる。その途中でこちらのテーブルの下が見えたんだろう、椅子に腰を下ろしてからうんざりと顔を顰めた。
「しかもこいつら、しれっと手を繋いでやがる……」
 ご指摘の通り、石田主任はテーブルの下で私の手を握っていた。どきどきしたし、見つかった後は恥ずかしくもなったけど、私はそこそこ食べたり飲んだりした後だから、もうしばらくは繋いでてもいいかな、などと思う。
「覗くなよ。勝手に見といて嫌がるってのはないだろ」
 主任は堂々とそう切り返し、安井課長を呆れさせていた。
「こうなったら石田、お前も苦味責めにしてやる! ゴーヤーだけ食え!」
「だから何で野菜ばっかなんだよ。霧島の奥さんに義理立てにするにも程があるだろ」
「苦いものでも食べないとやってられないってことですよ」
 答えた霧島さんが、大根サラダをつつきながらもう一言ぼやく。
「ゆきのさん、早く帰ってこないかな……」
 その言葉がとても寂しげだったので、あとで奥様に報告しておこうかな、と私は思う。
 きっとゆきのさんなら、苦くなくてとっても美味しい野菜メニューを作ってくれるはずだもの。
▲top