Tiny garden

みんな大人になる

 取引先の一社から、異動の為に担当が替わります、と連絡があった。
 年度途中の人事異動なんて珍しいけど、前任者の方が時期を前倒しして寿退社することになったとの話を聞いて納得する。引き継ぎは万全に済ませておきますと言っていただいたので、私としては特に不安もなかった。おめでとうございますと告げて、後から石田主任に祝電の相談を持ちかけた。主任も快く相談に乗ってくれて、的確なアドバイスをいただけた。
 私が主張すると手前味噌と言うか、何と言うかだけど、石田主任は相談相手としてとても頼りになる人だ。主任の言うことに間違いはないと私はいつも思っている。

 それから少し経ったある日のこと、私は新しい担当の方と初めて顔を合わせた。
 事前情報はその人の名字と所属、あとは男性であることくらいで、朝尾さんという名字自体も日本ではさほど珍しくもないものだったから、聞いた直後は何も思わなかった。
「急な異動で申し訳ありません。これからどうぞよろしくお願いいたします」
 応接室に通され、挨拶をするその人の顔を初めて見た時、何となく変な気分になった。
 何て言うんだろう。既視感?
 懐かしいような、誰かに似ているような。以前、どこかで会ったのかもしれない。でもこの人の顔そのものに見覚えがあるかと言ったらそうでもなかった。
 社会人らしいさっぱりとした髪型、目元は涼しげで、眉は真っ直ぐだった。笑った顔こそいい人そうだったけど、笑っていなかったら少しクールな印象を受けたかもしれない。年齢は多分、私よりも上だろう。でも石田主任よりは年下だと思った。霧島さんと同じくらい、かなあ。
 誰かに似ている、という感じではなかった。少なくとも私の周囲にこの人にそっくりな人はいない。芸能人似というわけでもないし、多分、初対面のはずだ。声も聞き覚えがあるような、ないような気がするけど、そもそも私の記憶力なんていざって時には当てにならないものだから何とも言えない。
「私、朝尾と申します」
 スーツがよく似合うその人は私に名刺を差し出してくる。
 私も既視感はひとまず脇へ置いといて、すかさず名刺を取り出して、
「小坂と申します。今後とも変わらずお引き立てのほどを――」
 挨拶をする途中で、朝尾さんがふと眉を顰めたのを見た。
 訝しげなその顔に私が言葉を止めると、すかさず笑って手を振られた。
「あ、いえ。すみません。名刺、いただきますね」
「どうぞ」
 何だ。
 何と言うか、変な感じだ。
 私はこの人を知っているような気がする。朝尾さんも気のせいか、ちょっと態度がおかしい。いや、おかしいと言えるほどではないけど、何かあるような気がする。
 って言うか朝尾さんって名前も、そういえば昔どこかで――。
「小坂、藍子さん」
 埋もれている記憶を掘り出そうとする私の思索に、朝尾さんの声が割り込んできた。
「はい」
 返事をして顔を上げると、朝尾さんはさっき以上に深く眉間に皺を寄せて私の名刺を見つめている。我が社の写真入り名刺には石田主任が年度初めに撮ってくれた写真が貼られていて、その写真と私の顔を見比べるようにしげしげと見て、それからもう一度口を開いた。
「小坂さん?」
「そうです」
 私が頷くと、朝尾さんはにわかに表情を崩した。それまでのビジネス向きな微笑から一転、くだけた笑みをこちらへ向けてきた。
「俺のこと、覚えてない?」
 更にそう尋ねられ、私は慌てた。
 やっぱり知っている人みたいだ。でもとっさには浮かんでこなくて、確信に至らないぼんやりした記憶の欠片が喉に引っかかったみたいになっている。どこかで見たことあるかもしれない顔、聞いた覚えがありそうな声、朝尾さんという名前。
「忘れるなよ。高校、一緒だっただろ」
 朝尾さんは駄目押しのように言い、今度は呆れたように笑った。
「一緒に遊園地にも行ったのに、薄情だな、小坂は」
 呼び捨てにされたことと、口にされたその思い出で、パズルピースが全て填まるには十分だった。
「あ、朝尾さんって……朝尾さんですか!」
 私は用意してきた営業用資料を取り落としそうになるほど驚いた。
 目の前にいた取引先の新しい担当者がまさか、私にとって人生初めてのデートの相手だったなんて、誰が想像できただろうか。

 朝尾さんは私の、高校時代の先輩だ。
 私より一学年上で、当時は確か生徒会の副会長だった。下級生からはもちろん、先生方からの評価も高い真面目な優等生で、当時からクールな容貌の人だった。
 女子高生だった頃の私はこの先輩を好きになってしまい、廊下ですれ違えば友達ときゃーきゃー声を上げ、体育祭では敵チームだというのに必死になって応援し、文化祭では用もないのに生徒会室付近をうろうろしたりと、十代らしく思い込みの激しい、でもあの頃なりに一生懸命な恋をしていた。
 それでいて告白する勇気は持てずにいて、日々煩悶していた私に、友達が手を貸してくれた。その子も生徒会に所属していた為、私を放課後に生徒会室へ招いて、朝尾さんと話すきっかけを作ってくれたのだ。私は当時から好きな人の前では落ち着きがなく、上がり症で、朝尾さんの前でも例によってはしゃぎまくりだったけど、それでもどうにか挨拶をするくらいの仲にはなれていた。
 そんなある日、私は意を決して、友達の協力も得て、彼を近場の遊園地に誘った。
 私にとっては人生初のデートだった。それはもうめちゃくちゃ意気込んでいた。きっとデートに誘った時点で私の気持ちはばればれだっただろうけど、それなら告白まで漕ぎつけようと勇ましく決意もしていた。
 ――その後の顛末については以前、石田主任にも話した通りだ。
 舞い上がりすぎた私はいつもの三倍くらいひっきりなしに朝尾さんに話しかけた。それはもう、今振り返れば我ながら痛々しいくらいのはしゃぎっぷりだった。最初のうちは返事をしてくれていた朝尾さんも次第に口数が減り、最後の方はほとんど無言で、もちろん次の機会はなかった。それどころか、友達がせっかく作ってくれた縁もそこで断ち切られて、私が挨拶をしても返事はなく、目すら合わせてくれなくなった。

「何か見たことある顔だと思ったよ。結構面影あるな」
 全てを思い出した私を見て、朝尾さんは大人っぽく笑っている。
 いや、もう大人なんだから大人っぽいのは当然か。私がもう二十四なんだから、朝尾さんもそのくらいになっているはずだ。どうりで、顔を見てもまるでわからなかった。
 面影と言うなら、朝尾さんもごくわずかにだけ高校時代の名残りがある。生徒会にいた頃の毅然とした、クールな雰囲気が顔立ちに残っている。でも名残りはそのくらいで、清潔感重視で整えた髪と言い、スーツの似合う姿と言い、そして社会人らしい笑い方と言い、学生時代にブレザーを着こなしていた少年の姿とはまるで重ならなかった。
 おかげで私は懐かしさはさほど感じられず、本当にこの人が朝尾さんなのかな、などと往生際の悪い疑問すら抱いていた。男の子ってたった数年でここまで変わっちゃうものなんだなあ。
「こちらにお勤めだったんですね。ちっとも存じませんでした」
 私は落ち着き払って、礼儀正しくそう告げた。
 すると朝尾さんは軽く目を瞠った。私の言葉が予想外だったというように。
「大人になると変わるんだな。小坂からそんな落ち着いた言葉が聞けるなんて」
「えっと、ど、どういう意味でしょう……」
 妙に感心されているような気がして恐る恐る聞き返す。
 すると彼はしみじみと記憶を辿るように言った。
「昔はとにかく落ち着きのない子って印象だったからな。まあ一個違いにしちゃ礼儀正しいとは思ってたけど、それもあの口数の多さで台無しって感じで」
「覚えていらっしゃったんですか!」
 どうやら朝尾さんの記憶にも、はしゃぐあまりべらべら喋りまくった私の印象が根強く残っているらしい。昔の話とは言え、当時好きだった人にいい記憶を残してもらっていないのはなかなか堪える。恥ずかしすぎた。
「その節はすみませんでした。私も何て言うか、相当浮かれてたみたいで」
 私が思わず詫びると、声を上げて笑われた。
「だろうな。そう見えてた」
「うっ……」
「とは言え、そういう子にちゃんと対応できなかった俺も未熟だったって話だ」
 言葉に詰まる私を軽くフォローしてから、朝尾さんは続けた。
「懐かしいな。声を聞いたらいろいろ思い出してきた。小坂がすっかり大人になってるっていうのが意外だったけど、考えてみればあれから六年近く経ってんだし、社会人になってるんだから当然か」
 昔とは打って変わって、明るく爽やかな話し方をしている。高校時代はもっと素っ気ない感じの先輩だったのに――それはまあもしかすると、私みたいのが相手だったからかもしれないけど。
 どちらにしても居た堪れない。あの時の私は取り返しのつかないことをしたと思うし、痛々しい私の一部始終をご存知の方が目の前に、それも取引先の担当さんとして存在している。ドラマとかなら運命の出会いって言えるんだろうけど、現実に起きるとひたすら恥ずかしくてちっともいいものではなかった。
 自業自得だとは重々理解しております。
「あ。仕事中は『小坂さん』の方がいいよな」
 ふと朝尾さんが尋ねてきたので、軌道修正のチャンスとばかりに私は頷いた。
「それでお願いします。あとできれば、昔のことはもう忘れてくださっても……」
「無理だな」
 きっぱりとこちらの懇願を拒むと、朝尾さんは首を竦めた。
「でもそれだと商談が進まないって言うんなら、しばらくは忘れておいてやろうか」
 できればずっと忘れてくれていても構わないのに、というのも都合のいい言い分だろう。どうやったって人間、恥ずかしい過去やら失敗やら黒歴史やらは消せはしない。
 石田主任はよく、私のかつての失敗談を明るく笑い飛ばしてくれる。そういう時は私も恥じ入りつつ、最後には一緒になって笑ったりもするけど、一緒に笑ってくれる人ばかりじゃないこともわかっている。
 今回の場合は特に、随分なご迷惑をおかけしたなという反省しかないから、笑うどころではなかった。
「じゃ、じゃあ、お仕事の話に入ってもよろしいでしょうか?」
 私は恐る恐る尋ねた。
 それで朝尾さんも思いのほかすんなりと頷いてくれたから、大急ぎで恥ずかしい数々の思い出を封印し、仕事モードに入ることにした。
 商談自体は滞りなく進んだ。前任者の方の引き継ぎが完璧だったのもあるし、すっかり大人になってしまった朝尾さんがてきぱきと話を進めてくれたおかげでもある。そういえば生徒会でもこんなふうに頼れる副会長さんだったなあ、と私は思う。その思いには妙な寂しさや複雑な気分が入り混じっていて、かつて好きだった人と会っているという状況を、上手く受け止め切れていない自覚があった。
 今は、他にもっと好きな――好きだけじゃなくてとても大切な人がいるから、かもしれない。あるいは流れた歳月の大きさを、朝尾さんの面影もおぼろげな顔立ちから感じたせいかもしれない。それだけ月日が経ったというのに、私の方はあんまり変わっていないと言うか、さほど落ち着いていないように思えて仕方がないからかもしれない。
「……あの時は、俺も悪かったと思ってるよ」
 仕事の話が一段落して、そろそろお暇しようとしたタイミングで朝尾さんは言った。
 何についての言葉かはわかったから、私は慌ててかぶりを振る。
「いえ、朝尾さんのせいじゃないですよ! 今思えばただのうるさい奴だっただろうなって自分でも思いますし、嫌な思いさせてしまって本当に申し訳ないです」
 深々と頭を下げれば、笑い声とも溜息ともつかない微かな吐息が聞こえた。
「嫌な思いってほどでもなかった」
 そう言ってもらえて私も少しほっとした。すぐに顔を上げたら、朝尾さんは少し照れたように視線を逸らす。
「ただ、当時は俺も女の子とデートなんて全然したことなかったから。緊張もしてたし、どう接していいのかも全然わかんなかったんだよ」
 もしかすると朝尾さんも、あれが初デートだったんだろうか。
 ――だとするとより一層申し訳ない。初めてのデートでとんでもない思い出を作ってしまった。
「そういう時に小坂さんにやたら話しかけられたから、返事をするのが追い着かなくて、しまいにはまともに考えられなくなってた。ごめんな、感じ悪かっただろ?」
 朝尾さんが眉尻を下げたので、私はかぶりを振った。
 すると彼の表情もふっと緩む。
「気まずくなってそれ以降話せなくなったのも、酷いことしたって思ってる。あの頃はプライドばかり高くて、まともにデートもこなせなかった自分が悔しかったんだよ」
 その心情はいかにも、当時の朝尾さんの姿にしっくり馴染むような気がした。
 一つ年上で頼れる先輩だったからといって、あの頃はまだ十七、八歳の高校生だったんだから。一緒に歩く相手がうるさくて鬱陶しいとか、気まずくなってそのまま話せなくなったりとか、そんなのちっともおかしなことじゃない。まして初めてのデートだったなら尚更だ。
「お気になさらないでください」
 私はここぞとばかりに力を込めて告げた。
 後から、本音も言い添えた。
「私の方こそ、朝尾さんにトラウマを作ってなければいいんですけど」
「そこまで酷い思い出じゃないな」
 軽く笑った朝尾さんは、応接室の机の上に広げた資料やら書類やらを片づけ始めた。これでお話も終わりかなと、私はゆっくり立ち上がり、お暇を口にしようとして、
「小坂」
 不意に、朝尾さんに呼ばれた。
 彼は瞬きをする私に笑顔を向けて、こう切り出してきた。
「せっかくこうして再会できたんだし、今度、二人で飲みにでも行かないか」
「え……あの」
 二人で、と言われて私は困惑した。
 こちらの表情から内心を察してか、朝尾さんは優しく付け足してくる。
「もちろん、仕事のことでだ。こっちは担当替わったばかりなんだし、いろいろ意思疎通を図っておく必要もあるだろ?」
 その言い分はもっともではある。だけど。
「それにお互い大人になった今なら、ちゃんと話ができるってわかったからな」
 高校時代とはまるで違う、まさしく大人っぽい笑みを浮かべた朝尾さんを、私はやはり寂しいような、複雑なような気分で見ていた。

「――で、何て返事したんだ」
 石田主任は自分の机に肘をつき、吊り上がった目で私を見据えた。
「もちろん、すぐにお断りしました」
 その机のすぐ脇に立った私はきっぱりと答える。私たちの他には誰もいなくなった営業課内に、響くほどの声で答えておく。
 それで主任はいくらか安心してくれたようだけど、憂鬱そうな顔をしていた。
 私としてもこういう話を主任に報告するのは気が重い。でも黙って、秘密にしておくのもどうかと思ったし、主任の判断を仰ぎたいというのもあったから、打ち明けてしまうことにした。
 朝尾さんと再会して、飲みに誘われて、それを断ったその日のうちに、私は主任に『相談があります』と持ちかけた。主任は二つ返事で了承してくれて、こうして他の営業課員が退勤した後の課内で洗いざらい話した、という経緯だった。
「主任、私、間違ってないですよね」
 私が尋ねると、主任はむっとしたような顔になる。
「今更聞くな。ちゃんとわかってて断ったんだろ、お前も」
「もちろん、そうです」
「じゃあいいだろ。それとも何だ、ちょっとは迷ったとか言うんじゃないだろうな」
 その声にどことなく拗ねたような響きに聞こえたから、申し訳ないと思いつつも私はちょっと笑ってしまった。
「迷いはしませんでしたよ。大丈夫です」
「ならいい。今の答え方によっちゃ、お前のぷくぷくした頬っぺたをパン生地のように捏ねて捏ねて捏ねまくってやるとこだった」
 それはさぞかし痛いだろうと私は思う。
 さておき、お付き合いしている人がいるのに、他の男の人と一緒に出かけたり、お酒を飲んだりするのは感心できない。むしろ間違ったことだと思う。それで大切な人を傷つけてしまうのは、もっとよくないことだ。
「でも、仕事の話をするから、とも言われていたんです」
 私は切ない気分でその時の話を続ける。
 それはもしかしたら口実なのかもしれない。今の私にだってその可能性は考えられたし、考えた上でお断りした。自意識過剰かもしれないけど、そうでなくたって優先すべきは今、一番大切に思っている人のことだ。
 朝尾さんは残念そうにしていたけど、私が断った理由を尋ねてはこなかった。また、食い下がってくることもなかった。その後は穏やかに挨拶をして退出することができたし、雰囲気が悪くなったということもなかったと思う。
 だけど次に会う時、多少の気まずさはあるかもしれない。もしかしたら、別に他の意図もなく旧交を温めるつもりでいた朝尾さんが、気を悪くしているかもしれない。
「お断りした以上、今後の商談に多少の影響があるかもしれません。ないかもしれませんけど、あったとしても私が責任を負うつもりではありますけど、一応、主任にもご報告をと思ったんです」
「俺としては、そこまで面倒な野郎じゃないと思いたいがな」
 石田主任は細く、長く息をつく。それからひょいと片眉を上げて、
「もし次に誘われたら『うちの主任も一緒にいいですか?』って答えとけ」
 と言ってくれたから、私は心底安心した。
 やっぱり主任はとても頼りになる人だ。相談してみてよかった。
「わかりました。もし言われたら、そう答えてみます」
「それで難色示されたら絶対駄目だって言うんだぞ」
「はいっ」
 思いっきり深く頷くと、主任もようやっといつも通りの笑顔を見せてくれた。
「大体、小坂に手出そうなんて五年は早い」
 そして自分の机の上を片づけながら、ぶつぶつと、だけどどこか上機嫌の様子で呟いている。
「二十代のガキみたいな男がたやすく扱えるような女じゃないんだよ。弁えろって話だ」
「それだと、何か私がとてつもない難物みたいに聞こえるんですけど……」
「難物だろ。ある意味な」
 主任はさらっと言い切ると、絶句した私の顔を見てげらげら笑った。納得はいかないけど、正直、見とれてしまうくらい豪快ないい笑顔だった。
 でも、そういうことなんだろうな。
 私が難物かどうかはともかくとして――朝尾さんは十代の私にとって、まだ今よりもずっと子供だった私にとって、手の届くような人ではなかったのだろう。
 あの頃、ずっと見てみたいと思っていた優しい笑顔を、今になって向けてもらえたのは複雑だった。あの恋が上手くいく見込みなんて、たとえ遊園地でのデートが成功したところでまるでなかっただろうけど、それでももう一度くらい話をして、高校生のうちにちゃんと謝れたらよかったな。それができなかったのも結局は、私が子供だったということだ。
「さて、用が済んだならそろそろ帰るか」
 片づけを終えて席を立った主任は、私の頬を人差し指で軽く突いてから、私に部屋を出るよう促した。
 私も窓が施錠されているか確かめた後、鞄を提げて営業課を出る。主任も廊下に出てきて、課内の照明を全て落とし、ドアに鍵をかける。
 それから、主任の車に乗せてもらって、家まで送ってもらう。
「しかし、初デートの相手と再会、とかなあ……」
 車にエンジンをかけながら、主任は――隆宏さんは溜息混じりにぼやいている。
「そういう話がごろごろしてんなら危険だな。運命じみた再会とか、いかにも悪い男が託けそうな要素だもんな。それこそ近いうちに、犬みたいに首輪でもつけとかないと。全く不届き者が多くてけしからん」
 その横顔を私は助手席から眺めて、不思議な感慨に浸っていた。
 高校時代の私には、こんなふうに七歳年上で、格好よくて、頼りがいもあって笑顔も素敵な彼氏ができるなんて想像もつかなかったはずだ。ましてその人の車の助手席に、いつの間にか自然に座れるようになっていたことも、公私共に気軽に相談できて、いつも支えてもらっている自分の姿も、考えつきさえしていないだろう。
 でもそういう夢みたいな未来が、大人になった私にとっては現実だった。
「……ん?」
 隆宏さんが私の目に気づいたようで、怪訝そうな顔をする。
「どうした小坂、俺の横顔に熱い視線を注いじゃって」
 熱い視線、というのはあながち冗談でもないかなと思いつつ、私は照れ隠しみたいに口を開く。
「思うんですけど、隆宏さんは高校時代も、きっと格好よかったですよね」
 どんな感じだったんだろうなあ。会ってみたかったな。
 同じ学校にいたら、それこそ手の届かない憧れの先輩になっていそうな気もするけど――。
「まあな。仮に俺の高校時代にお前と出会ってたって、惚れてもらう自信があるぜ」
 こちらが照れてしまうほど自信たっぷりに断言した隆宏さんは、だけどその後でふと眉を顰める。
「でも、俺が高校生ってことはお前いくつだっけ。ランドセル背負ってないか?」
「あっ、そういえば……」
 仮に隆宏さんが十八歳でも、その時私は十一歳。どう考えても小学生だ。
「小学生じゃ、高校生の男の子には見向きもされないですね」
 私が言うと、隆宏さんは苦笑いを浮かべる。
「それ以前の問題だろ。もはや犯罪の匂いしかしない……下手すれば俺が捕まっちゃうぞ」
 そう思うとつくづく七歳差って大きい。出会うタイミングが悪ければ、そもそも恋愛対象にすらなれてなかったんだろうな、と思う。
「大人になってたからよかったんだよ」
 隆宏さんも、つり目がちな目元を微笑ませながら言う。
「俺だって高校生くらいの年頃じゃ、お前をちゃんと手懐けられてたかどうか」
「やっぱり、私のこと難物だって思ってます?」
 改めて尋ねたら、隆宏さんは全く遠慮もせずに頷いた。
「七つ年上を、こうも散々振り回す女のどこが難物じゃないって言うんだよ」
 それはお互い様じゃないかなと思うんだけど、またしても絶句した私を見て、隆宏さんは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「とりあえず、その場で断ってくれてありがとな。ほっとした」
 私も、隆宏さんの言葉に安心した。相談してよかった、ともう一度思った。

 それからまた少ししてから、私は取引先の応接室で朝尾さんと再び顔を合わせた。
 朝尾さんからは前回お誘いを断った件については一切触れられなかったし、そういうことならと私もこれ以上詫びることはしないでおいた。当初懸念していたような気まずさもなく、商談も滞りなく進んだ。
 ただ、話が一段落した時、ふと思い出したように朝尾さんから言われた。
「小坂さん、今、彼氏いるだろ?」
「えっ」
 唐突な質問に私が息を呑むと、朝尾さんは軽く肩を竦めてみせる。
「ごめん。何となく、そう思っただけ」
 言い当てられて私はうろたえたし、頬が赤くなるのも自分でわかった。
 でもこういうことを誤魔化すのも、それもかつて好きな人に対して適当な返事をするのもよくないと思って、胸を張って答えた。
「はい」
「……はっきり答えたな。やっぱり昔とは全然違うよ、小坂さん」
 朝尾さんはしみじみと、少しだけ寂しそうに言った。
 とは言え私もちょっと前までならこんなにはっきり言えたかどうか怪しいものだし、こうして胸を張っていられるようになったのはまさしく石田主任の、あるいは隆宏さんのおかげだ。
 そう考えるとやっぱり、手前味噌かもしれないけど、ものすごく頼れる彼氏だと思います。
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