Tiny garden

割れ鍋に綴じ蓋

 ドラムバッグを担いでロッカールームを出た時、ちょうど石田に会った。
「お、安井。今帰りか?」
 奴は一度聞いてから、俺の顔と大荷物とを見比べた後で聞き直してきた。
「出張?」
「そう」
 俺はいかにも弱々しく頷く。
「これから電車乗って、向こうで三泊。帰りが土曜なんて実質休日出勤だよな」
 木曜金曜と会議の為、重い荷物を担いで出かけるところだ。金曜の夜にそのまま帰ってこられたらいいのに、あいにく出張先では懇親会と称した飲み会の予定が入っている。親睦を深めるのも仕事のうちで顔を出さないわけにもいかないから、飲み会の後は無理せず向こうでもう一泊してくることにした。主に体力面において、若い頃との違いは自分自身でもよくわかっている。悲しい話だ。
「電車の時間がぎりぎりでさ、タクシー拾って駅行かないと」
 言いながら携帯電話で現時刻を確かめる。今日の仕事が思いのほか手間取ってしまい、既に午後八時を過ぎていた。あまりのんびりもしていられない。外でいつ通りかかるかわからないタクシーを拾うより迎車をお願いした方がいいかもしれない。
「じゃあな、石田。また来週」
 軽く手を挙げつつ、電話帳からタクシー会社の番号を呼び出す。そうして電話をかけようとしながら廊下を歩き始めた俺を、
「駅まで? 送ってってやろうか」
 石田の声が呼び止めた。
 思わず振り向く。先ほどは気づかなかったが、奴もそういえばカバンを持っていて、どう見ても帰り際のようだ。俺は押しかけていた通話ボタンから指を離し、石田の割と機嫌よさそうな顔をまじまじと見た。
「いいのか。遠回りになるんじゃないか」
「別にいい。優しいだろ?」
 そうやって自己申告さえしなければとりあえず、『どうしたんだ、珍しく優しいな』くらいは言ってやったものを。呆れる俺に気づかぬそぶりで、石田は下心を隠しもせずだらしない顔つきを見せる。
「今日はあいつがいるんだ、先に車で待ってる。だから遠回りの方が都合がいいんだよ」
 あいつ、と呼ばれた人物がどこのどなたかかは尋ねるまでもなく。
 どうやら奴の目的は、その人物とできる限り長く一緒にいたいということ、これに尽きるようだ。普段なら退勤後は家まで送り届けてさようなら、なんだろうが、そこに俺を駅まで送るという大義名分が加われば彼女といつもより長く時を過ごせる。お付き合いしている仲なのにそんな小細工が要るのかと不思議にも思うが、当の彼女はなかなかに箱入り娘さんだというのも耳にしていたから、石田も手を変え品を変えと必死なんだろう。そういえば先週飲んだ時にも『もう三週間も部屋に来てもらってない』などと嘆いていた。この分だと四週目も過ぎたのかもしれない。ご愁傷様。
「つまり俺を、お前のドライブデートのダシにしようって魂胆か」
 俺の推察に石田は、むしろ得意げに笑んだ。
「いい読みだな安井。その通りだ」
「……まあ、それでもいいけど」
 たとえ魂胆が見え透いていようと、俺にとっては渡りに船のような条件だ。石田の幸せ一杯なでれでれ顔は腹立たしいが、これからタクシーを呼ぶ手間が省けるのは大変ありがたい。件の彼女が俺にとっても十分見知った顔というのも気兼ねなくていい。
「決まりだな。じゃ、とっとと行くぞ」
 石田は俺にそう告げると、先に立って廊下を歩き出す。今にも鼻歌が聞こえてきそうな軽い足取りを追いながら、こういうところは昔から変わってないなと密かに思う。
 優しいという自己申告も、実際はそれほど的外れではない。

 今から四、五年ほど前のことだ。
 入社してからいくらか経つと仕事にも慣れてきて、いろいろと交友の幅を広げる機会にも恵まれた。例えば一年目の時点で疎遠になっていた他部署の同期なんかと旧交を温めることがあり、当時は同期にも独り身の面子が多かったので、じゃあ先輩後輩にも声かけつつ、飲み会の皮を被った合コンでもしようかという話になった。男側の幹事は俺で、女側の幹事の子には『石田さんも誘ってね』と釘を刺された。恐らくあいつを好いてる女でもいたんだろうが、そんなことは俺にはどうでもいいし、元より石田を誘わないつもりもなかった。むしろ話が持ち上がった時点で真っ先に声をかけようと思っていた。
 しかし、俺の誘いに石田は、ちょうどさっきみたいなでれでれした顔で言ったのだ。
 ――俺、彼女いるから。
 当時の石田にも付き合っている彼女がいた。もちろん今の、七つ年下の彼女ではない。俺はその昔の女とは会ったことがないし、石田は好きな女の写真を持ち歩くタイプでもないらしいので結局一度も顔を拝むことがなかった。
 ともかく、石田には以前にも彼女がいた。それは入社して以来つるんできた俺もうすうす察しがついていて、奴の態度とか、会話の端々からある程度読み取れる範疇の事実であり、直接聞いていなかったにしてもさほど驚くことではなかった。ただ当時の俺は石田をもう少し軽薄な奴だと思っていたから、そういう理由で合コンを断られたことには驚いた。入社直後の石田はちゃらいとしか言いようのない髪型をしていたし、言動は常に冗談と軽口と下ネタだけで八割を占めていたし、上司に叱られた後でも酒さえ入れば、その日のうちにけろりとしてしまうような軽い男だった。そんな奴が、付き合っている彼女がいるという理由だけで誘いを断ってくるとは思いもしなかったのだ。
 あいつは普段の言動に似合わず意外と一途で、そして釣った魚にもどんどん餌をやりまくるタイプだった。その女のことも本気で好きだったんだろう、手を変え品を変えあれこれと尽くしていたようだ。そのくせ肝心なところで判断を誤るんだから始末に負えない。
 合コンの話が出てから半年も経った後で、石田は珍しく萎れて俺に打ち明けてきた。
 ――振られた。
 と一言、それからもう一つ。
 ――こんなに冷たい人だとは思わなかった、って言われた。
 ぽつりと呟いてみせた。
 こいつを指して冷たいと言える女はなかなか、末恐ろしいものだ。ともあれその時俺は半分だけ笑って、餌をやりすぎたんだろう、と返した。そうとしか思えなかった。

 石田と共に駐車場へ下りると、見慣れた車の助手席に人影を見つけた。
 スーツ姿の彼女は熱心に何かの本を読んでいるらしく、俺たちが近づいていってもすぐには気づかなかった。石田が助手席の窓を軽く叩くとようやく、勢いよく顔を上げた。車内の薄暗さを吹き飛ばすような明るくて、嬉しそうな表情。でもそれも、石田の後ろにくっついてきた俺を認めた途端に怪訝な色へと変わる。俺が軽く手を振ると、すぐに会釈してくれた。
「安井を駅まで乗っけてくことになってな」
 車に乗り込んだ石田は、早速彼女に説明を始めた。俺も後部座席にドラムバッグを押し込みつつ言い添えておく。
「同乗させてもらって悪いな。これから出張でさ」
「わ、大変ですね」
 彼女は主に、俺の荷物を見ながら言った。俺たちが来る前からシートベルトを締めていたせいで、こちらを振り向くのが大変そうだった。
「そういうわけだからちょっとだけ遠回りするけど、いいよな?」
 石田の聞き方はお伺いと言うよりただの確認だったが、彼女は二つ返事で応じてくれた。
「構いません」
 迷いもしなければ嫌がるそぶりもない。彼女のことを大抵の人間はいい子だ、と評するが、この点に関しては俺も異論はない。いい子だ。
「ありがとう。小坂さんは優しいな」
 俺が礼を述べると照れたように小坂さんは微笑み、バックミラーにはしかめっつらでエンジンをかける石田の顔が映る。
「小坂には優しいって言うのに、俺には言わないのかよ」
「言う必要あるのか? 目的は他にあるくせに」
「うるさいよ。礼くらい言え」
「感謝してるって。たとえダシに使われたんだとしても」
 石田と俺の応酬を、小坂さんが不思議そうな顔で聞いていた。少ししてから、ぽそっと尋ねてもきた。
「……ダシって、何ですか?」
 彼女の疑問には答えないまま車は動き始めて、駐車場をさっさと抜け出してしまう。

 いちいち言うのも気色悪いので言ってやったことはないが、俺は石田のことを基本的には優しい人間だと思っている。
 特に惚れた女にはとてつもなく優しい。前述の通り、釣った魚には惜しみなく餌をやる男だからとにかく尽くすし、一途だし、愛情表現だってストレートかつ頻繁だ。正直、小坂さんと一緒にいるところを見ているとその夢中ぶりでれでれぶりに胸焼けするほどだが、それでも奴の過去を知る人間としては今の幸せがとにかく長く、できればいつまでも続くことを願わずにいられない。
 優しいから振られるというのは一見奇妙なようで、実は大変ありふれた理屈である。石田の場合、前の彼女にだって十分優しかったはずだが、結局は冷たいとさえ言われて振られた。彼女からの結婚の催促を先延ばしにしようとしたせいらしい。石田はまだ早いんじゃないかと思っていたそうだが、彼女の方はそうではなく、すぐにはしてもらえないとわかった途端に見切りをつけられた。クリスマスケーキなんて言葉が死語となった昨今、彼女がそこまで急いた理由はわからないが、石田はもう少し待ってもらえると思ったらしく、振られたことにいたくショックを受けていた。そもそも彼女との関係もその逆プロポーズ以前から何となくぎくしゃくしていたそうなので、彼女は結婚によって軋轢の解消を図ったのだろうし、石田はひとまず時間を置くことでどうにか落ち着けないかと考えていたとか。ここまでは石田本人から聞いた話だから、彼女の側にはまた違う言い分があるのかもしれないが、どのみち聞いたところで男の俺にはわかるまい。
 そして男の俺が推測する、石田が振られた原因はこうだ。――あいつは確かに、惚れた女には優しい。でもそれだけではなく、実際は誰にも優しい。例えばさっき、重い荷物を担いだ俺にためらいもなく声をかけてくれたみたいに。あるいは最近の例を挙げると、霧島の為に引越しの手伝いをしたり、結婚式でビデオ撮影を買って出たりしたように。小坂さんに対しても下心を発揮する以前から既に優しい上司ではあったらしいし、今年の営業課の新人についても何かと気にかけたりしているようだ。そういう奴だからこそ、俺も八年以上飽きずにつるんでいられる。
 そういう優しさが、しかし恋人の立場からすれば面白くなかったのだろう。
 それでなくても営業職なんてのは定時上がりとご縁がなく、接待やら飲み会やら後輩の指導やらと何かにつけ時間を取られる仕事だった。多忙な恋人の帰りを待つうち、彼女の方はだんだんと鋭い女の勘を働かせるようになる。浮気を疑うほどではなくても、思ったのだろう。彼が優しいのは、果たして自分に対してだけだろうか。本当は誰にでも優しいのではないか。
 結果、彼女は結婚という手札を出してあいつの心を確かめようとした。石田は石田で、迂闊にも即決できなかった。餌をやりすぎただけだと俺は思う。日頃から優しくしすぎたせいで、女が得てして求めたがるような特別扱いぶりを、石田は相手にわからせてやれなかったのだろう。誰にも優しい、では駄目なのだ。自分だけに優しくしてくれる男じゃなければ大抵の女は満足しない。普段は『優しい男がタイプ』などと公言する手合いに限ってこうだ、面倒くさいの一言に尽きる。
 閑話休題。
 以上の推測も所詮、俺が石田から話を聞いた上での勝手な分析に過ぎない。そもそも石田の前の彼女については顔も知らないほどだ、その本心を聞く機会は一生ないだろう。
 今が幸せならそれでいい。俺以上に、当の石田が思っているはずだ。

「――春名くん、仕事覚えるの早いですよね」
 物思いに耽る俺の目の前では、小坂さんが運転席の石田に話しかけている。
「何だか去年の自分と比べてしまいます。初心を思い出すと言うか……私もまだまだ頑張らなくちゃって思うんです」
 話の内容は今年の新人について、そして彼を見た上での小坂さんなりの所信表明といったところか。恋人同士にしては色気のない話題だが、小坂さんは石田と二人の時でもよく仕事の話をするらしい。真面目な奴だから、と石田はそれでも惚気ていた。
「お前は誰を見たって、頑張らなくっちゃって思うんだろ」
 石田が指摘すると、助手席からは何とも可愛い笑い声が聞こえた。
「そうかもしれません。来月からはいよいよお盆進行ですし、何かを励みにしたい、自分をひたすら鼓舞したいって気持ちがあるのかもしれません」
 真面目な子だというのもある意味で事実ではあるだろうが、俺は小坂さんのこういう物言いに、むしろプライドの高さを見出してしまう。努力だけで大抵のことを成し遂げられるし、叶えられるとも思っているタイプだ。自分に何かできないことがあったら、何よりもまず一番に自身の努力の足りなさを省みるような――そしてそのプライドがぎりぎり自惚れにならないだけの向上心も持ち合わせているから、一見真面目で謙虚な子に見えるんだろう。俺もこの手のプライドが高くて貪欲な女が好みなので、石田が手を出さないなら……と思ったこともあったが、過ぎた話だ。
 こういう女が石田みたいな男から、餌を与え続けられたらどうなるか。石田は相変わらず惚れた女には一途に尽くしているようだし、小坂さんは七つも年上の恋人に対し、肩を並べたいという野望を持っているように見える。餌を貰ったら貰った分だけ、彼女は努力をしてそれに見合った愛情を返そうとする、そんな気がするのだがどうだろう。
 そうであって欲しい、という願望も多少は含まれているのは否定しない。
「お盆進行に向けてか。だったら俺も何か鼓舞してもらいたいな」
 信号待ちで車が停まると、石田はそんなことを言い出した。
 小坂さんが助手席でしゃきっと背筋を伸ばす。
「お任せください! 私、とうとうお料理のレパートリーが一品増えたんです!」
「何作れるようになった?」
「あっ、それは内緒です。その時のお楽しみです」
 意気軒昂に報告する彼女。石田はよく彼女のことを『犬っぽい』と語っていたが、こういう姿を見ていると納得せざるを得ない。まさにふさふさした尻尾が見えるようだ。
「お楽しみと来たか。期待しちゃうけど、いいんだな?」
「もちろんです! この間作ってみた時はすごく美味しかったですから」
「ってことは食べたのかお前。俺に食べさせるより先に?」
「だって、味見しないわけにはいきませんし……」
「味見とか言って、一人前しっかり食べたんだろ」
 そこで、小坂さんの肩がびくっと跳ねた。図星だったのか。
「そういう時は上手くいったやつを俺のとこまで持ってくるもんだろ」
 石田は相変わらずでれでれと、幸せそうに笑っている。
「食べかけですよ? そんなのお持ちできないです」
 そして小坂さんは真顔でかぶりを振っている。一途さで言えばこの二人はいい勝負のようだ。歳の差こそ離れてはいるが、でもそんなことは関係なく、案外バランスの取れたカップルなのかもしれない。
「全然いい。お前の食べかけなら」
「え!? な、何を言うんですか! 駄目ですそんなの絶対駄目!」
「今更そういうの気にする仲でもないだろ」
「そういう問題じゃないですっ! 隆宏さんに食べていただくなら味はもちろん見た目もちゃんとしてないといけませんし、できれば作りたての温かいのじゃないと!」
 しかしこいつら、俺の存在を忘れてやしないか。後部座席なんざもはや眼中にもないかのようにいちゃいちゃと……それだって今に始まった話ではないが。
 割れ鍋に綴じ蓋とはよく言ったもので、石田にもようやく相応しい相手が見つかったのかもしれない。少なくとも餌をやりまくるのが好きで好きでしょうがないタイプの男に、向上心一杯プライドも一杯の女はなかなか好相性だと思う。そうやってお互いの為にいろいろ尽くしていられるうちは、相手の優しさを疑う暇だってないだろう。
 俺ももう、石田の為に合コンの手配はしてやれない。そんな歳でもない。石田だって小坂さんにも振られたら、いよいよ潰れてしまうかもしれない。それでもこいつならしぶとく立ち直りそうな気もするが、だとしても立ち直るまでの間の萎れた顔なんて、俺は見たくない。三十過ぎのおっさんがしていい顔でもあるまい。こいつはいかにも軽そうな態度で、この先もずっとへらへら生きてるくらいがちょうどいい。そういう生き方には若くて明るくて犬っぽい女の方が、何となくしっくり来るじゃないか。
 だから、この二人が上手くいけばいいと、割と本心から願っている。
「これでようやく、いただいた合鍵が使えそうです」
 うきうきと張り切る小坂さんを、石田は苦笑いの表情で見やる。
「そうだったよな。一体いつになったら使ってくれるんだ?」
「隆宏さんのお誕生日なんてどうですか? ちょうど、平日ですし」
「そんなに先!? ふざけんな、そんな悠長に待てるか!」
「もう来月の話ですよ?」
 歳の差ゆえに時間の感覚がずれてるらしいのはご愛嬌か。
 付き合って半年で合鍵を渡す、なんてのはいかにも石田のやりそうなことだし、しかしそれをどうやら使ってないらしいのも小坂さんらしいと思う。ともあれ上手くいってるならいいことだ。そのままさっさと、結婚まで突き進めばよろしい。
「誕生日とか言ってないでもっと早目に来いよ。最近全然来てくれてないだろ」
「そ、そうですか? じゃあ今週末は空けておきます」
「今日は? これから寄ってくってのは駄目か?」
「えっ、駄目って言うか……その、ちょっと、お答えできないです」
「何でだよ」
 ここでようやく、小坂さんが気まずげに俺の方を振り返ってくれた。
「だ、だって、安井課長がいらっしゃるのに……」
 本当だよ。いますよここに。後部座席の俺をどうぞお忘れなく。
 俺がこれから憂鬱極まりない出張に赴こうとしてる時にこの男は、彼女を家に攫って帰ろうって魂胆か。羨ましすぎるだろこの野郎――さすがにむかむかしてきたところに石田が、バックミラー越しに言ってきた。
「ちょっと大事な話するから、安井、お前耳塞げ」
「俺が降りてからすればいいだろ!」
 別に、幸せになるなとは思っていない。石田は沈んでいるより浮かれている方がよほど似合っている。小坂さんみたいないい子とめぐりあえてよかったって、他人事ながらも思っている。
 でも、今は言っていいはずだ。
 こんなことなら素直にタクシーを呼んでおくんだった!
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