Tiny garden

意識と無意識(8)

 車のエンジンが切られた。
 途端に深い溜息が聞こえて、私はぎくしゃく隣を見る。まだフロントガラスを見据えたままの主任は何とも言えない横顔でいる。そのまま器用に自分のシートベルトを外した。降りるつもりはないらしく、思案するような間を置く。
 エアコンが保っていた室温がゆっくりと消えてゆく。
 私は倣うべきか迷い、でもとりあえずは話を切り出すべきと思った。
 それで、言った。
「あの、先程の話なんですけど、私――」
「だから待てって」
 目だけをこちらへ向けた主任が、そこで小さく笑う。どことなく引き攣っているように映るのは、多分、気のせいではないと思う。
「とりあえず、頭冷やしたい。コーヒー買ってくる」
 続く言葉にもまだ動揺の色濃く、余程慌てさせてしまったのかなと申し訳ない気持ちになった。私は本当にいつだって間が悪い。
「お前は?」
「は、はい。私もお供します」
 問われて降りる用意をしようとすると、主任はやっと自然に笑った。
「買ってきてやるから待ってろ。何がいいかだけ言え」
「ありがとうございます、じゃあその、ココアでお願いします」
「アイスかホットか」
「ええと、温かいので……」
 わかったと短い言葉の後、車のドアが開き、すぐに閉まる。
 一瞬だけ吹き込んできた冬の風と入れ替わり、車の中は静かになる。
 私は結局シートベルトを締めたまま、フロントガラスとコンビニの壁の間を横切っていく姿を見やる。待てと言われてからまだ数分、待つ人の気持ちが身に染みてわかるようだった。

 ものの三分も経たないうちに、主任は車へと戻ってきた。
 私にココアの缶を差し出し、ご自分ではコーヒーのデミタス缶を、プルトップを開けるなり一息に飲み干した。恐らくコールドだと思われる。
 それから大きく息をつき、
「お前、時々ものすごい不意打ちかますよな」
「――あ、あの、間が悪くてすみませんでした!」
 今度は私が慌ててしまう。空気の読めなさは既に自覚済みだ。そして頭を下げた後でいただいたココア缶に目が留まり、また間の悪いことを尋ねたくなる。
「ところで、代金はおいくらでしたか」
「そんなことはどうでもいい。いいから黙って飲め」
 ぴしゃりと封じられたので、もう一度頭を下げて、ひとまずご馳走になることにした。
「あ、い、いただきます」
 熱いココアの湯気の向こう、苦笑いが見える。
 空になった缶をドリンクホルダーへ収めてから、主任はシートに凭れるようにしてこちらを向く。ふと呟いた。
「こっちが油断してる時に限ってとんでもない反応するよな。本気で迫れば逃げ腰になるくせに、わからない奴だ」
 どうしてなのかなあ、と自分でも疑問だった。でも主任が油断しているところを狙っているつもりはまるでない。不意を打とうと考えた訳でも断じてない。
 ただ、主任が時々見せる『本気』が、ほんの少しだけ怖いと思ったことはある。
 恥ずかしさとは別の理由で逃げたくなったことも、ある。
 いくつかの記憶を顧みつつ、私も小声で応じた。
「あの、先程のことはすみませんでした」
「謝らなくてもいい」
 落ち着きを取り戻した口調の主任。
「だが聞いておきたい。どうして、気が変わった?」
 静かに、だけど強く畳み掛けてくる。
「以前の約束では、年度末を越えてからって話だった。俺はそれをどうにかして前倒しさせてやろうと試みたが、お前はどうしようもなく頑なだったな。それが今になって翻ったのはなぜだ」
 当然、聞かれるだろうと踏んでいた質問だった。
 私はココアを一口飲み、真似るように息をつく。そして運転席の方へ首だけ動かし、おずおずと前置いてみる。
「話すと、長くなりそうなんですけど……」
「……わかった。聞いてやる」
 僅かな間の後、覚悟を決めた面持ちをされた。
 だから、続けた。
「私、主任に喜んでもらえるようなことをしたかったんです。――今まですごくお世話になりましたし、去年はいろいろご馳走になって、香水までいただいちゃいましたし、今日だって楽しかったですし、ほら、こうしてまたココアをご馳走になってます」
 手の中でまだ温かい缶。中身は半分近く残っているはずだ。
 持ち上げて示せば、苦笑いを返される。
「それは大した値段じゃない」
「でも感謝しています。ありがとうございます」
 ぎくしゃく頭を下げ、それからまた言葉を継ぐ。
「だからお礼がしたかったというのもありますし、それ以前に私、主任には笑っていてもらえたらって思うんです。あの、ジンクスのことで」
 数ヶ月前にいただいた名刺は今もパスケースの中にある。仕事が立て込んでいる時、くたびれた時の励みにしている。小さな写真に切り取られた主任は、それはもう言語に絶するほどの素敵さだ。
 けど、当のご本人に言われた通り、写真は動きもしないし喋りもしない。
 写真よりももっと素敵なのは。
「私は、いただいた名刺を大切にしています。でも、本物の、動いていらっしゃる主任の笑顔の方が、何と言うか、いいなあと思うんです、やっぱり……」
 ものすごくぎこちない物言いになって、主任にはそこで非常にうれしそうな顔もされてしまって、俯きたくなる。
 せっかくの笑顔から目を逸らしたくなるとは何事か。そう思ってみても、どうしたってどぎまぎするんだから困る。
「その、主任が喜んでくださることって何かなって、考えてみました。私に出来ることだったらいいなって」
 ココアの缶と主任の顔、と言うかせいぜい顎の辺りまでとを見比べるような感じで、あたふた話を続ける私。不甲斐ない。
 だから、せめて気持だけは伝えられるようにしようと思った。
「私がお傍にいることで、主任に笑顔になっていただけるなら、それが一番いいだろうなって思うんです。私の希望も、主任のご希望も叶う訳ですから……その、変な言い方ですけど」
 視線がまだ上げられない。でも主任の口元が笑んでいるのはちらっとだけ見える。笑われているのか、喜んでもらっているかの判別はつかない。私はどっちだっていい。
「思うんですけど、恋人同士でいるって、二人だけで成立するんじゃないんですよね、きっと」
 自信のない疑問形になったせいか、そこで主任が声を挟んだ。
「どういう意味だ?」
「はい、あの、恋愛をするのは当事者同士ですけど、恋人同士でいるのは他の人の前、誰の見ている前でもそうなんだろうなって。誰かに認めてもらうのも、大切なことなんだって思ったんです」
 例えば、霧島さんや長谷さんや、安井課長。或いは他の営業課の皆。私の家族。範囲を広げるなら歩いている時にすれ違っただけのような人まで、私と主任が一緒にいたら、一つの組み合わせとして捉えるようになる。そういう時に恋人らしく見えたらいいなと思うし、恋人らしい、仲が良さそうだと認めてもらえることで、二人きりだった関係が社会的にも成立するようになるのではないだろうか。
 恋人を持つと言うのは個人的な行為だけど、社会的な行動に発展させることが出来るのだと思う。
「誰かの前でも、誰の前でも、私がお傍にいたら主任には、喜んでもらえるのかなって思ったんです」
 私が言うと、主任の声がこう受けてきた。
「それはぶっちゃけた話、俺たちもう恋人同士っぽいから実際付き合っちゃった方が早いよなって意味か」
「ええと、それもそうなんですけどっ。ちょっと、あの、身も蓋もないような気が」
「今更だろ。どっちの意味でも」
 主任は徹底して身も蓋もなく、だけどもっともなことを言う。
 私と石田主任はもう既に、恋人同士みたいに見えてしまう関係らしい。事実がそうではなくても、そういう風に受け止められているらしいということがようやく理解出来た。無意識のうちに距離を縮め、近づくことにも慣れつつある自分に気付いた。手を繋いだり、ごく親しいご友人の家にお呼ばれしたり、そこで私の知らない惚気話を教えてもらったり、或いは目の前でもとんでもないことを言われたり、当たり前のように頬っぺたがくっつくくらいの近さで一つの携帯電話を覗き込んでいたり――いくら疎い私でもわかる。こういうのって恋人らしい、恋人同士でするべきふるまいだ。
 そして恋人になれば、他でもない好きな人に喜んでもらえる。笑っていてもらえる。
 社会的にも、目的としてもためらう理由はない。好きな人のことだけを思うなら。
 私個人の理由は、まだいくつか残っているけど。
「ただ、私はルーキーですし、どうしたって未熟です。今でも」
 ためらい続けてきた理由の大部分が逃げだとしても、私自身の未熟さは確かに存在している。むしろ未熟だからこそいざという時、怖くなったり、逃げたくなったりするのかもしれない。
「だから、主任にはお願いがあるんです」
 面を上げる。
 なぜかぎょっとした顔の主任が、慎重に聞き返してきた。
「何だ?」
 こっちも慎重になる。
「私のこと、見ていていただけませんか」
 つり目がちな双眸が瞬きをする。その眼差しにお願いをする。
「部下としても、恋人としてもです。未熟な点や至らない点がありましたら今後もご指摘ください。率直に言っていただける方がよりありがたいです。直すようにします、頑張ります!」
 主任はしばらく瞬きを続けてから、崩れた苦笑を浮かべた。
「本当に小坂は、こういう場面では色気がないよな」
「い、色気なんてそもそも、持ってたことないですよ!」
「そうでもないだろ?」
 即座にやんわり否定されたけど、そうでもなくないと思う。本人が言うんだから間違いない。
 さておき、
「お願い、出来ますか」
 私は再度尋ねる。
「やっぱり、ルーキーイヤーはきちんと終わらせたいんです。失敗のないように、ちゃんと成長していられるように。ですからどうか、お力添えをお願いします。その分、私もいい恋人になります。主任にずっと、笑っていてもらえるように」
 公私共に未熟だ、と言い切られた過去がある。
 そして今でもそうだ。自覚もしている。
 未熟だとしてもどちらも、精一杯のことをしたかった。精一杯頑張るのが私らしいと思った。そうすれば主任にも喜んでもらえると思った。
 目の前で、その時、笑ってもらえた。
「俺のすることはそれだけでいいのか」
 笑顔で問われ、頷く。
「はい。それで十分過ぎるくらいです」
「もっと他にないのか。うんと甘やかして欲しいとか、優しくして欲しいとか、会う度に抱いて欲しいとか」
「ないです。むしろ遠慮なくご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!」
「上手い具合にさらっと流したな」
 なぜか喉を鳴らして笑った主任が、身を起こし、こちらへ手を伸ばした。私の肩に手を置いた。大きな手はぽんぽんと二度上下して、励ますようにか、宥めるようにか、もしくは別の理由から肩を叩いてくれた。
 それから言われた。
「何でもしてやるよ。それでお前が手に入るなら、努力すら安いもんだ」
 はっとした私へ、もう一言降ってくる。
「待ち侘びたぞ、小坂」

 直後、車のエンジンが掛かった。
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