Tiny garden

意識と無意識(7)

 結婚祝いの品はいつ渡すのかなと思っていたら、これが帰り際だった。
 なぜそうしたのかはすぐに察した。
「大した物じゃないがな、これでも高かったんだぞ」
 主任が明らかに照れているとわかる口ぶりで言ったから、密かになるほどなと思う。実は切り出すタイミングをずっとうかがっていたのかもしれない。普段からすごく仲良しだと、改まってこういうことをするのは照れるものなんだろうな。ちょっとわかる気もする。
 受け取った霧島さんの方も、やっぱり面映そうにしていた。
「ありがとうございます。先輩から何かいただけるとは思いませんでした」
 そう言って、受け取ったばかりの包装された箱をしげしげと眺め入っていた。デパートの包装紙はなかなか剥がされず、主任がいいからとっとと開けろと促して、ようやく中身が取り出された。
 つるりと滑らかな漆塗りの麺鉢を見て、長谷さんがわあと歓声を上げていた。表情がぱっと輝いたのがわかって、何だか私までうれしくなる。
「とっても素敵な品をいただきまして」
「そうだろ? 小坂に見立ててもらったんだ」
 麺鉢だけに、いきなりお鉢が回ってきたような感じ。見立てると言うほどのことは全然してないのに。名前を出されてうろたえる私を、主任はもちろん霧島さんも長谷さんも、安井課長までもが見る。
「小坂さんのセンスなんですね、どうりで素敵だと思いました」
 素直じゃない調子で霧島さんが言い、
「石田さんも小坂さんも、ありがとうございます」
 うれしそうに幸せそうに長谷さんが言い、
「俺も誰かと一緒に選びたかったよ。ああ羨ましい」
 盛大な溜息と同時に安井課長が言ったから、私は恥じ入りつつ、どうにか応えた。
「見立てたと言うか、お買い物にお邪魔しただけなんですけど、でもあの、喜んでいただけたなら私もうれしいです」
 そんな私の肩を、主任が黙ってぽんと叩く。大きな手の温かみを一瞬だけでも感じ取る。
 幸せな気分に背を押されて、もう一言、告げてみた。
「あの、結婚式、すごく楽しみにしてます」
 着飾ったお二人を見るのも楽しみだし、お二人をお祝いするのだって本当に楽しみ。結婚式と言えばまさに門出の日。一緒にお仕事をしていて、日頃からお世話になっていて、その上お人柄も好きだなと感じている方々の、そういう場面に居合わせることができるのが幸せだと思う。
「ありがとうございます」
 霧島さんが少し赤い顔で言って、ぎくしゃくと微笑む。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いします、小坂さん」
 今年も、ではなかった。
 これからも、と言われた。
 僅かなニュアンスの違いがうれしい。倣うようにはにかみたくなる。
 そこに長谷さんも口を開いて、
「私も是非、これからよろしくお願いします。次は一緒にお酒が飲めたらいいですね」
「わあ、すごくいいですね、それ!」
 素敵な提案についつい歓声を上げてしまって、皆に笑われた。
 でも実際、すごくいいなと思った。酔っ払わないように気を付けなくてはいけないけど、お酒の入った主任が今日以上にとんでもないことを言い出さないかはらはらもするけど、またお呼ばれしたい。この人たちと一緒にいたい。一緒の時間を、今日みたいに楽しく、幸せに、どきどきしながら過ごしてみたい。
 その為にももう一歩、踏み出してみたいとも思う。

 霧島さんのお部屋にいたのは二時間半ほどだった。
 帰りは、また主任に送っていただくことになった。主任は『一応』と前置いた上で安井課長にも送っていくと声を掛けていたけど、課長は苦笑いでそれを断った。
「お前らの邪魔はしないよ」
 次いで、また盛大に息をついていた。
「と言うより、見てるこっちの目の毒だ。付き合う前からそんなに仲良いんじゃ、この先が思いやられるな」
 言い残された台詞について、主任は私にどう思うかと尋ねてきたけど、私が答えられるはずもなかった。
 仲が良いと思われている点については、ちっとも不満なかったものの。

 曇り空が日光を透かす、冬らしい穏やかな午後だった。
 私を助手席に乗せ、主任は車を走らせる。霧島さんのアパートを離れ、歩いて五分と言う駅を離れてから、そっと聞かれた。
「どうだった」
 何の話かは説明されなくてもわかった。
「楽しかったです、とっても」
 私はシートベルトに阻まれない程度に胸を張る。
 正直にそう答えられるのも幸せなことだと思っている。今日はすごくいい日だった。明日は仕事始めで、お正月休みももう終わってしまうけど、いい気分で勤務に励めそうな気がしている。
「そうか。よかった」
 ハンドルを握る主任もほっとしたそぶりでいた。少しだけ笑んでから続けた。
「長谷さんも言ってたが、次は飲み会がしたいよな。明日が仕事始めでなけりゃ構わなかったんだが」
「次も誘っていただけたらうれしいです」
 私にとっては、次があるだけで本当にうれしい。また誘ってもらえたらいいなと思う。
「お前さえよければいくらでも誘ってやる」
「ありがとうございます。楽しみです!」
「楽しかったか、今日」
「はいっ」
 優しい問いには、大きく頷いておく。
 二時間半が短く感じられるくらいにすごく楽しい一時だった。霧島さんも長谷さんも、安井課長も皆、私に対して優しく接してくれたし、初めてお邪魔したんじゃないみたいな居心地のよさも感じていた。きっと皆さんがあれこれ気を配ってくれたお蔭なんだと思う。
「皆さん、すごくいい人たちです」
 私が言うと、主任は横顔でわざとらしいしかめっつらを作った。
「まあな。断じて、全員がとは言わないが」
「え? そうですか?」
「一部性格の悪い奴や、生意気な奴もいるからな。小坂も慣れたらどんどん突っ込み返してやるといい」
 そんなこと、出来るかなあ。
 と言うよりも、今の言葉が主任の心底からの本音かどうかは怪しいものだ。横顔をじっと見つめていたら、作ったようなしかめっつらがじりじりと笑みに変わっていった。噛み殺そうとした様子だったけど上手くいかなかったみたいで、私までつられて笑ってしまう。
 そしたら目の端で見られた。
「笑うな、小坂」
「す、すみません。ちょっと楽しくって」
 私が言うまでもなく、いい人たちであることは他でもない主任ご自身がよくわかっているんだろう。気安い言葉も照れ隠しもその信頼感あってこそのことだ。きっと。
 今日、私がいい時間を過ごせた一番の理由は、主任が事あるごとに気に掛けてくれたお蔭だから。それだけは誰に言われるまでもなくはっきりと気付いている。
 運転中の横顔をしばらく、見つめる。さっきまで笑いを堪えようとしていた面差しは、いつしか愉快そうなにやにや笑いに変化していた。そういう顔をしていても石田主任は素敵だった。
 つい半年前までは、見つめていることさえままならない顔だった。こっそり観察しているだけの顔だった。
 力強い横顔の向こう、景色が淡々と流れてゆく。
「なあ、小坂」
 視線を受けていることには気付いているはずの、主任がぽつりと言った。
 笑ったままで。
「俺と付き合ったらいいことずくめだぞ。今日みたいな楽しい思いはいくらでもさせてやるし、もっといろんなところに連れて行ってやる」
 声にも笑いを含んでいたけど、冗談の色は皆無だった。
「霧島が長谷さんを大切にする以上に、お前のことを大切にしてやる」
 その分、とてつもなく魅力的な響きに聞こえた。
「ああそれと、ウェディングドレスだってそのうちに着せてやるぞ。長谷さんも似合ってたが、小坂が着たってきれいだろうなー」
「え、そんな、どうでしょうか……」
 さすがにそれは自信がない。長谷さんは本番じゃなくても文句なしにきれいだったけど、私はきれいになれるだろうか。私こそ、いいとこ七五三じゃないかなあ。
 そもそも結婚なんて考えられない。いつかするのかもしれないけど、今はまだ現実味がない。それよりもまず、恋人を持つことを現実として捉えられなくちゃいけない。
 初めての恋人は、石田主任がいい。
 今は思う。気を緩めると煙を上げそうな思考回路で、だけどそれだけは思う。
「ともかく、そろそろ覚悟を決めたっていいんじゃないか」
 信号がなかなか赤にならない。車は停まらず、主任は運転しながらこちらを見ずに、話を続ける。
「年度末までなんて言わず、とっとと俺と付き合えよ」
 いつものようにさらっと告げられた。気負いや緊張の全く見えない、だけど冗談でもない言葉。
 助手席の私は、唇を結ぶ。
 頭の片隅ではまだ迷っている。年度末までの約束は、私にとっては自戒のようなものだった。それまでに立派な営業課の一員になって、社会人らしくなって、初めての恋人を持つのはそれからにすべきだと考えていた。仕事も出来ないうちから恋愛にうつつを抜かすのは、よくないことだと思った。
 だけど今は、別のことも思っている。――その考えは単なる逃げで、私は単に覚悟が決まっていないだけなんじゃないだろうか。好きな人の恋人になること。そうして誰かに認めてもらうことへの覚悟が、ずっと決まらなくて、だらだら結論を先延ばしにしてきただけなんじゃないだろうか。
 私の背を押してくれるのは何だろう。誰の言葉なんだろう。そこは判然としないけど、今日過ごした時間の中で、主任の隣にいるということの意味と居心地はよくわかった。だから。
 まずは、頷いてみようと思った。
「――はい」
 頷いた。

 奇妙な間があった。
 私からすれば今の答えが大いなる一歩であって、それはもうむちゃくちゃに緊張もどきどきもしていたのだけど、主任にはそこまでは伝わらなかったらしい。気の抜けた声が返ってくる。
「ん?」
 短過ぎてどう打ち返していいのかわからない声。戸惑う私に、主任は更に尋ねる。
「はい、って、何がだ」
 いきなりものすごく高いハードルを用意されてしまった。飛び越えるどころかよじ登るしかないくらいの。でも覚悟は決めていたから、思い切って説明した。
「あ、あの、その、恋人になるかどうかという話について、です」
「へえ……え?」
「ですからつまり、私を、主任の恋人にしていただけたらなって……」
 そういう意味での『はい』だった。
 今ばかりは隣にある横顔を見る勇気もなく、私はずっと俯いていた。説明だけで気力体力全てを使い果たしてしまった。
 するとまた長めの間があり、やがて。
 声がした。
「何だって?」
 問い返すトーンは意外に鋭く、直に慌てたような台詞が、
「ちょ、ちょっと待て小坂。今の本気か? さすがに冗談じゃないよな? 俺に対してそんな酷な冗談は言わないよな?」
「ももも、もちろんです!」
 こっちまで慌てたくなる。私はいつものことだけど、主任が慌てるのは珍しい。
 視線を上げれば、愕然とする横顔が見えた。
 信号停止の時には思いっきりこっちを向かれた。
「ってことは本気か? 本気にしていいんだな!」
 問われたのでもう一度頷く。
「はい!」
「と言うかお前どうしてそんな大事な話を運転中に!」
 それは至極もっともなツッコミだった。
 嘘をついてもしょうがないと思い、正直に言う。
「え、その、何と言いますか……聞かれたから、です」
「じゃあ俺のせいか!」
「い、いえ、そんなことは全くもってないです! むしろ私の方こそ今日まで大変長らくお待たせしてしまって本当にどうお詫び申し上げたらいいのか――」
「とりあえず待て、ちょっと待て! 車停めるから!」
 懇願するような叫びの後、車はあたふたと、通り沿いにあったコンビニの駐車場に停まった。

 覚悟してはみたものの、まずタイミングを読み誤った――のも、今更かなあ。
 だから、挽回しなければならない。
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