Tiny garden

食欲と睡眠欲(9)

 次に気が付いた時、辺りは静かだった。
 寝てたな、と自分で思った。随分長いこと寝ていたような気がする。そろそろ起きなくちゃいけないはずだと、ゆっくり目を開けてみる。
 途端、一息に気だるさが吹き飛んだ。
「……え、あ、わあっ」
 目の前に主任がいた。
 上から見下ろすようにして、私の顔を覗き込んでいた。ものすごく近かった。私が訳もわからず喚いてしまうと、すかさずにやっとされた。
「ようやく起きたか。どうだ、調子は?」
「え、え?」
 調子。
 って何だっけ。
 起きたばかりのごちゃごちゃした頭で考える。私はさっきまで寝ていた、それはわかる。ここは車の中だ、それもわかる。目の前で楽しげに笑う顔を見ているうち、だんだんと思い出してくる。確か納会の後に主任の車の鍵を預かって、車内で主任が来るのを待っていたんだ。そのうちに眠くなって寝てしまって、やってきた主任に、着くまで寝てていいと言われて――そこまで思い出した時、辺りに目をやる気になった。

 車のエンジンは切れている。
 窓は全てが曇っていて、外の様子はまるでうかがえない。ただ青みがかった暗さだけはわかった。近くで明かりも点いていた。既に暮れているようだ。
 主任は運転席から身を乗り出すようにして、助手席にいる私の顔を見ている。助手席の背凭れに片腕を置き、斜めに寄り掛かるような姿勢でいる。シートベルトは外していたし、コートも着ていなかった。ついでに言うと私のシートベルトもいつの間にか外れていた。
「あの……」
 何から言うべきか。まだごちゃごちゃしている。頭が重い。
 だけどはっきりわかっていることがあったから、まず、謝った。
「寝てしまってすみません」
 せっかくの、久し振りのデートだったのに、私はすっかり寝入ってしまった。眠っている間はすごくいい気分だったけど、目覚めてみれば罪悪感を覚えた。
 主任はすぐ間近で、小さくかぶりを振る。
「気にするな。それだけ疲れてたんだろ」
 そうなのかなあ。自分ではそんなつもりもなかったから、奇妙にさえ思う。ビールをちょっと飲んだだけなのに酔っ払って、睡魔にしてやられてしまった。いつもなら考えられないことだ。
 確かに最近はずっと忙しかったけど、今日だって仕事も大掃除もあったけど、疲れているとは思わなかった。
「納得いかないって顔してるな」
 鋭く、主任は私の内心を読む。
「若いからっていくらでも無理が利く訳じゃない。特にお前みたいな奴は気持ちだけで頑張ろうとするから、緩んだ時にどっと来る。仕事納めも無事終わったし、安心したら気が抜けたんだろ。違うか?」
 違わなかった。
 未熟さまで言い当てられたようで、私はぎくしゃく俯く。それで初めて、自分の上に掛けられた紳士物のコートを発見した。
 慌てた。
「あ、あのすみません、寒くないですか?」
 エンジンを切られた車内はまだほのかに暖かい。だけどそれは私がコートを、結果的に二人分も使っているからに他ならない。スーツ姿の主任はきっと寒いだろうと思って、それで尋ねた。
「寒くない。小坂は?」
「私は平気です、でも主任が――」
「寒くないって言ったばかりだ」
 少しおかしそうに笑われる。
 私がコートを返そうとすると、片手でそっと制してきた。
「着いてから、大体十五分くらいだな。何度か起こそうとしたんだがぐっすり寝てて起こしようがなかった。声を掛けただけならともかく、揺すっても起きないなんてよっぽどだぞ」
 本当によっぽどだ。恥ずかしい。
「すみません」
 もう一度謝っても、また首を横に振られた。
「謝ることはないな。いい機会だし、こっちも堪能した」
 堪能?
「本気で何しても起きないんだもんな。待ってる間も楽しかったぞ、寝顔もじっくり拝めたし」
「拝めたって……み、見たんですか、私の寝顔を!」
 思わず声を上げた。冗談か何かであって欲しいという気持ちを込めて。
 果たして、主任は満足げに答える。
「じっくり見た。いいだろ、そのくらいの役得は」
「だ、駄目ですよ! 恥ずかしいです!」
 張り上げた叫びが頭の中にがんがん響く。
 冗談ではなかったらしい。さっきの比じゃない恥ずかしさが込み上げてくる。居た堪れなさに潰れそうになる。油断している時の顔を、好きな人に見られて喜ぶ人間がいるだろうか。
 そう思うのに、
「大丈夫だ、可愛かった」
 いやにあっさりした口調で、主任は太鼓判を押してきた。にっこりもされた。あまりにいい笑顔なので心臓が高鳴った。
 でも、寝顔を見られたという事実は変わらない。今度は慎重な声量で切り出す。
「まさかそんな、だって、変な顔とかしてませんでしたか」
「変ではなかったな。ただ時々、口がもぐもぐ動いてた。夢の中でも卵焼き食ってたんじゃないか?」
 それは違う。そんないい夢は見ていなかった。
 ともあれ寝顔プラス口をもぐもぐさせていたところを見られたのは確実で、何かもう全然駄目だと思った。お嫁に行けないってきっとこういうこと。せめてもぐもぐしていない寝顔ならよかったのに。
「主任、お願いですから忘れてください!」
「嫌だ」
 私の懇願を軽くあしらった主任が、その後で聞いてきた。
「で、どうする? 今日はもう帰るか?」
「え?」
「一応、着いた。今はうちのマンションの駐車場。本当ならお前を連れ込もうと思ってたが、さすがに無理強いはしない。帰るならちゃんと送ってく」
 そう言われて、窓の外へと目を凝らす。

 曇った窓では外の景色なんてまるで見えなかったけど、屋外に停まっているらしいのは知っていた。外はもう真っ暗だ。近くの建物の明かりが滲んで映る。
 次第に私の頭も冷えてきた。
 寝入っていた罪悪感や寝顔を見られた気恥ずかしさはさておいて、今がどんな時間かを思い出す。仕事納めも納会も無事済んで、久し振りのデートのはずだった。明日からはしばらくお休み。会社へ行くこともないし、その間は当然、主任とも会えなくなる。

 だから、
「あの」
 口を開いたものの、何と答えていいのかわからなかった。
 主任は目の前で私を見ている。運転席から身を乗り出し、助手席に寄り掛かるようにして。私もまだ身を起こしてすらいなかった。好きな人の顔を間近に見つめていた。
 つり目がちの顔立ちが、今はひたすら優しい表情をしている。
 漠然と思う。多分、主任の中ではもう、答えが出ているんだろう。
「……しばらくお会い出来なくなるのが寂しいです」
 本音を告げると、微かに頷かれた。
「俺もだ。だから今日は帰さないつもりでいた」
 さらりとものすごいことを言う人だから困る。
 だけど動揺するより早く頬を撫でられ、反論は呑み込むことにした。
「でも、お前に無理はさせたくない。寝てるところに悪戯するのだって限度もあるしな。だからどうするかはお前が決めていい」
 そう言うからには、さっきも悪戯をしていたんだろうか。少し気になる。
 求められた答えを口にするまでにはしばらく掛かった。悩んだし、自分がどうしたいのかすら酷く迷った。さっき言い当てられたことを踏まえるなら、私は自分の若さを過信してもいけないのだと思う。理解はしている、していたけど。
 やっぱり、寂しかった。
「来年も、その、デートしてくださいますか」
 私の問いに、主任は笑った。
「当たり前だ」
 それで少しほっとして、答えが出た。
「ありがとうございます。じゃあ、すみません。今日は……」
「わかった」
 ごく短く応じる主任。
 浮かべた笑みは優しいままだった。胸が痛くなる。
「本当に、ごめんなさい。次は体調を万全にしておきます」
 重ねて詫びる。そうしたらふっと笑われた。
「謝らなくていいって。次もまた、お前の寝顔を見てやるから」
「いえ、寝顔はもう……なるべくこんなことはないようにします」
 私が取り成すつもりで言っても、頑として突っ撥ねられた。
「お前が何と言おうと絶対に見る」
 そんなに人の寝顔を見るのが好きなんだろうか。面白い顔、してたのかなあ。不安に駆られる私をよそに、主任は後部座席から紙袋を取り出してくる。
 小さな、可愛らしいデザインの紙袋。
 ふと目を奪われた時、それを手渡された。
「遅くなったが、クリスマスプレゼントだ。中身は香水」
「あ、ありがとうございますっ」
 とっさにお礼を述べたものの、さすがに申し訳なくなった。デートをリタイヤしておいてプレゼントまでいただくなんて。しかも香水なんてすごい。初めて貰った。
「こんなもの、貰ってしまってもいいんでしょうか」
「大して高いもんじゃない」
「けど、私は鮭フレークしか差し上げてません。それに香水なんて貰ったの初めてで、何だかどきどきします」
 大人っぽいプレゼントだと思う。私に似合うかなあ。そこは少し不安。
 主任は実際、大人っぽい笑顔を浮かべていた。
「営業やってるならこういうのも必要だ。試してみるといい」
「そうなんですか、存じませんでした」
「小坂に似合う奴を買ってきたからな、後は好みに合うといいんだが」
「私にですか? 似合うといいなあ……」
 そもそも自分にぴったりの香水って、どうやって見つけるんだろう。疑問に思いつつも紙袋の中を覗き込む。知っているブランド名の書かれた、細長い箱が入っていた。それに手を伸ばそうとした時。
 私が香水を手にするより素早く、抱き寄せられた。
 不意を打たれて声も出なかった。
 頬が冷たい。スーツの布地も冷えているのがわかる。主任、寒かったんじゃないだろうか。私がコートを借りてしまったせいだ。それでも首筋に触れる吐息だけは熱くて、ぞっとするほどくすぐったかった。
「似合うに決まってる」
 私の耳たぶに唇をくっつけるようにして、主任がそう言った。
「お前の肌の匂いは知ってる。だからそれを買ってきた」
 ものすごいことを、さらりと言う人だった。
 だけど、私も知っている。この車の中で。一度だけ招かれた部屋で。それから今まさに抱き締められながら感じ取っている、柑橘系の僅かにだけ甘い匂い。
「じゃあ来年、よろしくな」
 次に告げられたのは、年の瀬らしい挨拶だった。
 それで私は顔を上げ、同時に抱く腕の力が緩んだ。
 目が合う。今度はやや挑戦的な笑みが見える。決して優しげではなかった。
「こ、こちらこそ。あの、今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします」
 勢い込んでまくし立てる。主任には例によって笑われた。
「違うな。来年こそは、だ」
「え?」
「来年こそ、よろしく頼むぞ、小坂」
 冷たい頬と、腕と、身体が離れた。直に車のエンジンが掛けられ、私はあたふたとシートベルトを締める。

 自分に香水が似合うかどうかは知らない。私は主任と比べたらこれっぽっちも大人じゃない。でも、自分で思っていたほどに若いままでもなかったみたいだ。
 主任が何を言いたいのかわかった。多分、わかってしまった。
 年が明けたら、もう少し大人になっていられるだろうか。好きな人の為に何かが出来るくらいには。求められているのはまさにそういうことで、だからこそ私は今の、ルーキー気分ではいけないのだと思う。

 ――とりあえず、家に帰ったらゆっくり休もう。
 そして調子が戻ったら、初めて貰った香水を試してみよう。
 運転席の優しくない横顔を盗み見て、私はどぎまぎしつつ、そんなことを考えていた。
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