Tiny garden

ただいまとおかえり(6)

 これも初めてのことだと思うけど、二日酔いになった。
 今までは二日酔いなんて知らなかった。生まれて始めてお酒を飲んだ日はものすごく慎重になっていて、ビールの三百五十の缶を半分もいかずに止めてしまった。学生時代は飲むよりも騒ぐ方が主体だったから、それほど酔っ払う機会もなかった。昨夜のあれは言わば痛飲という奴だ。飲み過ぎた。
 朝、起き上がったら頭がずんと重くて、胃も重たくもたれていた。私にしては非常に珍しく、あまり食欲がなかった。それでもお母さんにたしなめられて、どうにかお茶漬けだけは食べた。さらっと美味しかった。
 ものすごく不調だというほどでもない。何となくだるい、朝の陽射しが目にきつい、頭が時々くらくらする、その程度。それだって言ってしまえば昨日の飲み方のせい、つまりは私の自業自得だから、どこに不満を持てるはずもない。でも主任のいない最後の一日、元気に乗り切ろうと思っていたのに、気力と体力をごっそり持っていかれたようだ。アルコールの力、恐るべし。

 アルコールの力と言えば。
 昨日は随分と……いろいろ、言ってしまった気がする。
 主任にも直接話した通り、告げた内容に嘘はない。適当なことを口走ったつもりもない。だけど酔った勢いに任せていたのは事実で、普段なら言えないようなことまですらすら伝えていた。いつになく積極的な発言ばかりしていた。こういう時、酔っ払った際の出来事をすっかり忘れられる体質だったらいいんだろうなと思う。あいにくと私はそうじゃなくて、何杯飲んだかという点は例によって曖昧なのに、忘れたい事柄ばかりしっかり覚えている。とてつもなく厄介な記憶力である。
 出勤途中の駅構内、ベンチを見かけただけで思わず赤面してしまった。やっぱり、と言うか今更だけど、すごく酔っ払っていたんだなあ。石田主任も通話中、しきりに私が酔っていると指摘してきたけど、そう突っ込みたくもなるだろう。振り返ってみても昨日の私は絡み上戸に近い酩酊っぷりで、主任の言ったように『可愛い酔っ払い』だったとは到底思えない。見てみたかった、みたいなことも言われていたけど、私としては好きな人の目の前で酔っ払ってなくて助かったと胸を撫で下ろしている有様だった。いや、あれらの発言だけで大分、酷いけど。
 でも、嘘じゃない。
 伝えたのは全部本当のことだ。
 こっそり本音を付け足すと、主任が戻ってくるのが明日でよかったのかもしれない、と思う。昨日の今日で顔を合わせるのはとっても面映いし、それに二日酔いの顔をお見せするのも恥ずかしい。明日には体調も戻すようにして、なるべく照れないように、笑ってお帰りなさいを言おう。

 出社すると、営業課には既に霧島さんがいた。
「おはようございます」
「おはようございます、小坂さん」
 私の、普段よりこころもち弱々しい挨拶にも笑顔で返事をくれてから、ふと眉根を寄せてみせる。
 何だろうと思った瞬間、すぐに言われた。
「どうやら、二日酔いですか?」
 気遣わしげな指摘には、それでも慌てふためいてしまった。どうしてわかったんだろう。って、きっと顔に出ていたからに決まっている。心当たりはありまくりだった。
「あの、やっぱり、わかっちゃいますか」
 恐る恐る確認すれば、霧島さんも恐る恐る答えてきた。
「ええ、その、すみません」
「そんな、霧島さんに謝っていただくようなことでは!」
 声を張り上げたら頭がくらくらした。確かに本調子ではない。
 今朝、顔を洗った後で覗いた鏡には、いかにもいかにもな二日酔いの顔が映っていた。頬っぺたの辺りがむくんでいて、瞼もそこはかとなく腫れぼったくて。おまけに昨日は化粧を落とさず寝入ってしまって、化粧の乗りの悪いことと言ったらなかった。体調よりも表向きのコンディションの悪さが目立っている。
「昨日の飲み会、どうでした」
 更に尋ねられ、私は重い頭で考える。水割りの件こそ締まらなかったものの、総合的に見ればさほど大きな失敗はなかったと思う。あ、飲み過ぎたというのがさしづめ最もたる失敗か。反省しよう。
「緊張しました。それに自分でもわからなくなるくらい、たくさん飲んでしまったみたいで」
 恥じ入りながら答える。次からは本当、何杯飲んだか記憶しておくようにしないと。
 霧島さんにもものすごく、心配そうにされてしまったし。
「慣れないとどうしても飲み過ぎてしまいますよね。お酒を作ってもらったりすると、特に」
 それもよくあることだったりするのかな。ああいう形で勧められるのには結構びっくりした。しかも口に合わなかったのだから申し訳なさも跳ね上がる。
「そうなんです。お断りするのも失礼かと思うと、なかなか……」
「お気持ち、わかります。大事にしてくださいね」
 穏和な口調で言った霧島さんが、その後で個包装のキャンディを手渡してくれた。薄い黄色の包み紙は、ぱっと見た感じ酸っぱそうだった。
「二日酔いにはビタミンCがいいそうなんです」
 と、説明も一緒にいただいた。
「この時期は飲み会があるから常備してるんですよ。あ、レモン味、平気ですか」
「は、はい! ばっちり平気です!」
「よかった。……あと、たくさんお水を飲むのもいいらしいですよ。是非召し上がってください」
「ありがとうございます、いただきます!」
 力一杯お礼を言ったらまたもや頭がぐらっとしたけど、貰ったキャンディとご親切とで乗り切れそうな気もしてきた。そっか、ビタミンCと水分か。ようし、覚えておこう。
 それにしても優しい人だ、霧島さん。早速レモンキャンディを口へ放り込んで、酸っぱさの中で感激もしていた。
 しみじみ味わう私に、優しい人ははにかみ笑いを向けてくる。
「今日は先輩が帰ってくる日ですからね。小坂さんも元気になっておかないと」
「――え?」
 あれ?
 石田主任が今日、帰ってくる?
 今日って金曜だっけ。いやまさか、いくら二日酔いのすっ呆けた頭でもそんな間違いはしない。飲み会が催されたのは水曜で、その次の日なんだから今日は木曜に決まっている。
 じゃあ、主任の出張はいつまでだっけ。私は視線を移して、営業課オフィス備え付けのホワイトボードを確認した。まだがらがらの室内は遮るものもなく、離れた位置からでもスケジュールが確かめられた。それによれば、主任の出張は今日まで。今日の夜行で帰ってきて、明日からは通常通りの出勤と聞いていた。
 あれ、聞き違えたかな。私が視線を戻した時、霧島さんはちょっといたずらっぽい顔つきをしてこっちを見ていた。そして言われた。
「先輩、小坂さんに会いたがってましたよ。まさか予定を早めて帰ってくるとは思いませんでした」
「予定を……早めた、んですか?」
「あれ? ご存じなかったんですか」
 一転、きょとんとする霧島さん。小首を傾げた仕種で続ける。
「当初は今晩の夜行で、のんびり帰ってくる予定だったでしょう。でも今日中にこっちに着きたいからって、向こうの会議が終わったら特急乗って帰ってくるんだそうです。定時には間に合わないそうですが、小坂さんの退勤には間に合えたらいいな、なんて言ってましたよ。のんきなものですよね」
 初耳だった。
 と言うか、本当に。
「本当にご存じなかったんですか」
 その質問に頷くと、訝しそうにされた。
「変ですね。肝心の小坂さんに連絡しておかないなんて。行き違いになったらどうするつもりだったんでしょう。あの人も案外うっかりしてますね」
 連絡のなかったことは妙だと思う。
 でも、別のことも思う。――うっかりなのは主任じゃなくて、私の方なんじゃないか、とか。
 今朝は身体のだるさと化粧の乗らなさとでもうよれよれで、朝からお茶漬けなんてあっさりした献立を食べてくるほどで、つまるところ本調子ではなかった。そんなすっとぼけた二日酔いの頭が、携帯電話のメールチェックを怠っていた、とか。
 どぎまぎしながら、まだ着たままのコートのポケットを探る。電車に乗っている間は電源をオフにしているけど、降りてからもずっとそのままにしていた。電源を入れてメールの問い合わせをする。
 と、
「……あっ」
 石田主任からのメールが一通。届いたのは今朝の八時頃。本文にはまさに霧島さんから聞いたとおりのことが書いてあって、今日の夜八時過ぎにこっちへ着いたらその足で会社に寄るから、もしタイミングが合えば少し会いたい、とも添えられていた。
 今夜八時過ぎ。
 って、あと半日もない!
「あ、ええと、今知りました……」
 私は呟くように告げ、現実と向き合う。
 つまりあと半日で石田主任は帰ってくる。この営業課に。私は昨日、定時上がり近くに退勤しているから、恐らく今日はその分の埋め合わせとして残業しなければ追い着かないだろう。多分、主任が帰ってくる頃に上がれるか、捗らなければまだ仕事中という可能性だってある。
 どちらにせよ、顔を合わせる結果にはなる。
 二日酔いだと一目瞭然の顔をしているのに。
 昨日、あんなに気恥ずかしいことを伝えてしまったばかりなのに。
 会いたくない訳じゃない。好きな人が予定よりも早く帰ってくるのはうれしい。だけど、二重の意味で悩ましい。――どんな顔して会えばいいんだろう。

「……あの」
 内心で狼狽する私へ、霧島さんがおずおずと切り出してきた。
「確かに二日酔いっぽくはありますけど、そんなに酷くはないですよ。大丈夫です」
 まだ営業課に二人きりだからか、そんな風に気遣ってくれた。
「それに石田先輩なんて、何だかんだで小坂さんにべた惚れなんですから。不安がることないです、俺が保証します!」
 霧島さんは優しい方だと思うし、そのお気持ちはすごく、うれしかったんだけど。
 始業前にそういう話をされるのは、まして頭がぼんやりしてる時に言われるのは、非常に対応に困る。朝っぱらからこんなにどぎまぎして大丈夫だろうか。駄目かもしれない。
 返す返すも悔やまれるのは昨晩の飲み過ぎ、です。
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