Tiny garden

ただいまとおかえり(5)

 ひとしきりお詫びをした後で、恐る恐る切り出した。
「どうしても帰宅前にお電話したかったんです。私、主任の声が聞きたくて」
 酔っているせいか、あるいは仕事を離れてお酒を飲みたいなとぼんやり願っていたからか。その時、一緒に石田主任がいてくれたら、きっとすごく楽しいはずだと思う。だから声が聞きたくなった。家に帰るまでなんて待てなかった。
 電話の向こうからは、すかさず切り返されたものの。
『何だ小坂。可愛いこと言って俺の怒りを削ごうって魂胆じゃないだろうな』
「ち、違いますよ! 本当です!」
『あいにくだがその手は……結構食っちゃうから、あんまり言うな』
 食っちゃうんだ。
 ああ何だかものすごく石田主任らしい物言いだ。
『お前を心配してるのだって本当だ。それはわかってるな?』
 うって変わって優しい声音で告げられて、思わず頷いてしまった。電話越しではやっぱり見えもしないのに、しっかり頷きたくなる。笑顔にだってなってしまう。
「はい。ありがとうございます、主任」
『わかってるならいい。俺だって、お前の気持ちはわかってる』
 その言葉にもほっとする。
 私の気持ちにも嘘はなかった。と言うより、私程度の些細な可愛さで主任の怒りと心配が削げるとは思っていなかった。声を聞きたかったのは本当。好きなのも、本当。
 酔いのせい以上に、くたびれているから、かもしれない。緊張が解けて緩んで、好きな人の声はアルコールよりも素早く、心の中へと溶け込んだ。
『飲み会、どうだった』
 穏やかに尋ねられた時、不思議と少し、笑ってしまった。
 反省すべきこともたくさんあったはずなのに。笑っている場合でもないのに。
「すごく緊張しました。がちがちだったような気がします」
『歓迎会の時よりもか』
「あ……さすがに、あの時よりはましだったはずです」
 営業課に配属されてすぐの新人歓迎会。挨拶をするだけで真っ白に燃え尽きた記憶は、今となってはいやに気恥ずかしい思い出だ。
 あの頃と比べたら、私でも少しは成長しているはずだ。
 多分。
『特に失敗がなかったなら、それでいい』
 そう言われるとよかったのかどうか、いまいち不安になることもあるものの。
「失敗というほどでもないんですけど」
『どうした。何かドジったか』
「初めて、水割りを飲んだんです。先方に作っていただいて」
 そこで短い、間があった。
『へえ。それで?』
 やはり短く促されたので、続ける。
「でも味がよくわからなくて……口に合わないというほどでもなかったんですけど、でも美味しいと思えるほどでもなくて。上手く、美味しいって顔が出来なかったような気がするんです」
『なるほどな』
 嘘でも、美味しいって言うべきだったのかなと思う。
 だけど、水割りの似合わない私を、あの場の人たちはいかにもらしいと捉えて、それで笑っていたのだとも思う。
 ああいう時ってどんな風にふるまうのがよかったんだろう。あの味を美味しいと感じることが、私にも出来るようになるだろうか。そこら辺がよくわからないけど、さしあたっては、思っている。
「私、水割りの似合う女になりたいです」
 宣言してすぐ、電話口で吹き出すのが聞こえた。えっと思った後にはげらげら笑いが続いて、へこみこそしなかったものの、拗ねたくはなった。
「しゅ、主任までお笑いになりますか」
 即座に突っ込むと、ひーひー言いながら問い返してくる。
『ん、俺以外にも誰か笑ってんのか』
「私が水割りを飲んだ直後、顔を見てきた皆さんに笑われました」
『あー、そりゃ見てみたかったなーちくしょう』
 笑いながらも心底悔しそうにする主任。
 確かに、あの場に石田主任がいても、同じように笑っていただろうな。簡単にイメージ出来る。にやにやと楽しそうにしながら、私が水割りに口をつけて何かコメントを出そうと頭を捻る過程を眺めているその表情。見たこともないのに目に浮かぶようだ。
『もっとも、無理してまで慣れるものでもないからな。営業やってりゃ飲み会は避けて通れないが、口に合わない酒があるならそれはしょうがない。水割りが駄目なら他のもの飲めばいいんだし、そう気にすることでもないって』
 その主任が、笑いもすっかり落ち着いてから語を継ぐ。
『何を何杯飲むか、そういう計算を自分でするのも仕事のうちだ。何杯飲んだか思い出せないなんて、危なっかしい真似はもうするなよ』
「はい」
 全くもっておっしゃる通りだ。幸いある程度は飲める体質だったからよかったものの、下戸だったなら今日の飲み方は危険極まりなかった。次からはもう少し計画的にお酒を飲もう。水割りに慣れようと試みるのは、それからでいい。
 仕事としての飲み会はこの先まだまだあるんだから、自己管理は大事。
『さ、わかったらそろそろ家に帰れよ』
 言われて駅の時計を見ると、いつの間にやら十一時になろうとしていた。
 いくら声が聞きたかったからとは言え、長々と話し過ぎだ。私が帰るまでやきもきされるのだと思うと、駅に留まり続けているのも忍びない。出張先の主任にそこまでの負担をお掛けしてはならないと、素直に応じた。
「そうします。帰ったらメールを送りますから」
『頼むぞ。心配で心配でしょうがないんだからな』
 またも優しく口にされた。
 うれしさが込み上げてくる、じわじわと。
『俺の出張も明日で終わりだ。とっととそっちに帰りたいよ、全く』
 次いで聞こえてきた内容には更にうれしくなった。そうだ、明日は木曜日。そして木曜まではもう一時間ほど。時がちゃんと流れてくれるのは、電話と同じくらいありがたいことだ。
「金曜日には、お会い出来ますね」
 笑みを抑え切れないまま、私はそう、電話へ告げた。
 向こう側では、また短い間があった。
『……まあ、な。俺に会いたいか、小坂』
「もちろんです!」
 当たり前のことを聞かれて力一杯即答した。なのに、どうしてか少し笑われた。
『そっか。やっぱり今日のお前はかなり酔ってるな』
「そのようですけど、嘘はついてないですよ」
 お酒が入っているからと言って、適当なことを口走っているとは思われたくない。私が強調すると、主任はもう一度笑った。
『わかってる。俺も会いたい』
 私も笑いたくなった。幸せ過ぎて。
「わあ、うれしいです! 私もすごくお会いしたいです!」
 叫ぶように言うと、またもや僅かな、詰まったような間があって、
『こ、この……可愛い酔っ払いめ。やけに素直じゃないか』
 誉められたのかそうでないのか判別つきがたいお言葉を賜った。せっかくなのでいい意味で受け取ることにする。好きな人に可愛いと言ってもらえるのも幸せなものだ。うれしい。
「ありがとうございます、主任」
『ん? 何についての礼だ?』
「いろいろです、全てにおいて」
 えへへと笑う。うれしいから。
『本当に酔ってるな。直に見てみたかった』
 やはり悔しげに主任は言った。
 それからふと思い出したように、
『ところで、聞くのを忘れてたんだが、出張土産は何がいい?』
 お酒が入ると素直になれるのかもしれない。嘘や適当なことではなくて、最も真実に近いことを口に出来るのかもしれない。だから素直に、正直に答えた。
「お土産は要りません。主任が無事に帰ってきてくださったら、それが何よりのお土産です」
 少し気障な言い回しかなと思ったけど、でも嘘じゃない。
 お土産なんて要らなかった。好きな人が無事に、笑顔で帰ってきてくれたらそれで。こっちだって一番いい笑顔でお迎えするつもりでいる。
「お帰りをお待ちしてます、主任」
 私の言葉の後、今までで最長の間があった。
 それから、
『……わかった』
 溜息をつくような返事が聞こえた。
『待ってろ小坂。お前の為に大急ぎで帰ってやる!』
「はいっ。……あれ? でも、大急ぎって言うのは」
『よし、そうと決まったら早速行動開始だ。あ、お前も気をつけて帰れよ! 帰ったらちゃんと連絡するんだぞ!』
「は、はい。お話ししてくださってありがとうございました!」
 切り際の挨拶がものすごく慌しくなったのはなぜだろう。
 主任の張り切りぶりについて若干の疑問はあったものの、駅のベンチで考え込んでも埒が明かない。とりあえず心配を掛けないよう、私も大急ぎで帰途に着いた。

 酔いは相変わらず回っていたけど、電話をする前よりはずっといい気分でいられた。そのお蔭かどうか、改札も通れたし、電車にも乗れたし、ちゃんと最寄り駅で降りた後、無事に家までたどり着くことも出来た。
 玄関のひんやりする上がり框に座り込んで、何はともあれメールを打つ。ただいま帰りましたと送信したら、すぐに返事があった。
 ――おかえり、小坂。
 短いその文面は、つい半時間ほど前まで耳元に聞いていた声で再生された。好きな人の声が頭の中で読み上げてくれた。そうして酔っ払いの私を、一層いい気分にさせてくれた。

 お帰りって、素敵な言葉だ。
 そう言ってくれる人のいることは幸せだと思う。私と同じ家にいる家族も、帰る度に明るく言ってくれる。玄関に座り込む私を、いいからまず部屋まで行って着替えなさいと促してもくれる。ありがたい。
 そんな風に幸せだと、主任にも思ってもらいたい。幸せだと思ってもらえるように、お帰りなさいを言いたい。金曜日の朝、顔を合わせた時には、必ず。
 いい気分でまどろみながら、しばらくそう考えていた。
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