Tiny garden

ただいまとおかえり(4)

 取引先との飲み会は、私にとっては初めて行くお店で催された。
 すき焼き店だった。
 めっきり冷え込むようになってきた十一月、もうもうと湯気の立つすき焼き鍋を囲んで、お肉をめいっぱい食べて、好きなお酒を飲んで……なんてこのシチュエーションは最高過ぎる。これが仕事の飲み会でなければ大いに食べて飲んで堪能するのに。秋らしく湧き起こる食欲はぐっと堪えて、臨んだ。
 お座敷に用意された宴席に、取引先の皆さんと、私と、他社の企画課の方が二人。取引先からは課長クラスの方がいらしていて、乾杯の音頭もその方が取った。飲み会の流れも終始、その方を中心として進んでいった。と言っても厳しい上下関係が徹底されている訳でもなく、むしろ仕事の付き合いがベースにあるからか、やや堅苦しくさえ感じた。

 これまでに私が経験してきた飲み会はおおよそ二種類に分かれている。一つは学生時代、仲のいい子たちと後先考えずに、ひたすらはしゃでいられた飲み会。もう一つは営業課の皆で行く、どことなく緩い空気の飲み会。つまり就職するまでは、一種類の飲み会しか知らなかったことになる。
 営業課で行く飲み会は、私にとってカルチャーショックだった。学生時代の空気とはまるで違うし、かと言ってビジネスマナー本で学んだ知識が役立つこともなかった。皆が好きな席に座って、好きなものを飲んだり食べたりしていた。皆で一緒に盛り上がることもなかったし、各々がマイペースにお酒を飲んでいて、新人の私でもそれほど肩肘張ることなく楽しめた。だからてっきり、社会人のお酒の席ってこういうものなのかと思っていたけど。
 今日、わかった。営業課の飲み会がのんびりしている理由。
 こんな風に、仕事として飲みに出る機会がたくさんあるから。そうなんだと思う。

 すき焼きを食べる暇はあまりなかった。
 初対面の方とは名刺の交換をして、話しかけられたら礼儀正しく応じて、グラスの空きには目を光らせて、もちろんお鍋の進行状況もでしゃばらない程度に確認して。すべきことはたくさんあった。お酌ももちろんしたし、私の方も何度かされた。それどころか私の為にお酒を作ってくれる方までいて、さすがに恐縮してしまった。
「小坂さん、水割りは飲める?」
「実は飲んだことがないんです」
 質問に正直に答えれば、試しに飲んでみたらと勧められた。取引先の皆さんは私よりも年上の方が多くて、そのせいか水割りを作る手際もよかった。グラスに氷を入れて、ウイスキーをボトルから注ぎ、まず一旦掻き混ぜる。それから氷と水を足す。
 出来上がったお酒はほとんど無色透明で、私はお礼を言ってからグラスに口をつけた。
 ひんやり冷たかった。
「……どう?」
 水割りを作ってくれた方に尋ねられ、とっさの返答に迷う。
 ――どうしよう。よくわからない。不味くはないと思う……多分。でも普段飲むお酒と言ったらビールかチューハイかカクテルの甘い奴くらいで、こういう飲み方をしたことがなかった。
 水とは違う味がする。ほんのりウイスキーの匂いもする。そのくらいはわかる。そのくらいしかわからない。
「まだちょっと早かったかな、小坂さんには」
 私の反応を見てか、水割りを作ってくれた親切な方はおかしそうに笑った。他の方々もつられたようにどっと沸いたから、私は恥ずかしくなって大急ぎで弁解する。
「口に合わなかった訳ではないんです、あの、初めての味でびっくりしただけで」
 そう言ったら、なぜか一層笑われた。
 すき焼き鍋の湯気のように場を包む笑い声。恥じ入りつつ、私は内心で思う。
 次の機会まで水割りにもちゃんと慣れておこう。
 大体にして飲み会とは大人の為の場所であるからして、居合わせて一緒にお酒を飲む以上はきちんとお付き合いしなければならない。仕事に関わる飲み会なら尚のこと、空気が読めなければどうしようもない。初めて飲む水割りは不思議な味がしたけど、飲み慣れている人たちからすれば、私にはまだ不似合いな飲み方ということなんだろう。
 実際、先方の課長さんにお酌をした時には、大分アルコールの入った顔でこう言われてしまった。
「いやあ、小坂さんにお酌をされると、うちの姪っ子と飲んでるみたいでくすぐったいねえ」
 私も何だかくすぐったい思いで、話題に乗っかってみる。
「姪御さんって、おいくつなんですか?」
「中二だったかな、今年で。最近生意気になってきてねえ、一丁前にお酌なんかするようになって」
 ちゅ、中学生……。
 別にそんな言葉くらいで、傷ついたとかそういうことは全然、ちっとも、まるっきりないつもりだけど。うん、取引先の方にそんな風に言っていただいて、親しみを持っていただいているということはいいことだと思う。思うけど、その、何と言うか。
 絶対目指そう。水割りの似合う女。


 飲み会は一次会だけでおいとました。
 二次会にも声を掛けていただいたけど、そういうのは社交辞令である場合も多いらしい。仕事の飲みの後は身内だけで飲み直したいというのが本音なのだと小耳に挟んでいたから、こちらとしても謹んで辞退した。先方には惜しんでいただきつつも、無理に引き止められることはなかった。
 すき焼き屋さんを出て、駅の方向へ歩き出しても、しばらく鼻から割り下の匂いが離れなかった。お腹が空いていた。結局、お酒を飲むのとお酌をするのに忙しくて、肝心のすき焼きがほとんど食べられなかったからだ。それでなくとも気を遣うから、ばくばく食べるという訳にはいかなかっただろうけど。
 空きっ腹にビールと水割りは相当効いた。久々にものすごく酔っている自覚があった。駅に辿り着いてから、構内のベンチに腰を下ろしてしまったくらい酔っ払っていた。
 意識ははっきりしているのに、頭だけが妙にふらつく。気分はそれほど悪くない。ただ酷くくたびれていた。ベンチへ座り込んだら深い溜息が出る。少しだるい。
 一人、飲み会の反省をしたくなった。水割り、嘘でももう少し美味しそうに飲めたらよかったなとか。姪っ子みたいと言われて、もうちょっと喜んでおくべきだったかなとか。
 こういう飲み会、これからは何度も何度もあるんだから、もっと慣れておかなくちゃいけないな、とか。
 だけど私もせっかくなら、営業課で行く飲み会の方が気楽でいいな。仕事のこととか何も考えずに済むし、食べ物だってちゃんと食べられるし、居心地いいし――当たり前か。誰だってそうだ、お酒の席に仕事なんか持ち込みたくないに決まっている。
 それでも、やむを得ず持ち込まなくちゃいけない時だってある。

 冬物のコートのポケット、ふと携帯電話が震えた。
 誰からのメールか何となくわかった。勘じゃなくて経験則で。そうだ、連絡をしなくちゃなともたもた電話を取り出す。
 案の定、石田主任からのメールだった。『帰ったら連絡寄越せ、遅くなってもいいから』――そんな文面を目にした途端、急に緊張が解けてしまった。緩んだ頬っぺた、思わずにやけたくなるのをさすがに堪えて、私は即座に電話を掛けた。
 メールをした直後だからか、ワンコールで繋がった。
『小坂? 帰ってたのか?』
 物理的な距離を飛び越えて、耳のすぐ傍で聞こえる声。にやにやしたくなる。この声が好きなんだなあ、とこっそり実感してしまう。
 でも駄目。ここはまだ駅構内で、夜の十時過ぎで、行き交う人の量も普通に多い。こんなところでにやつきながら電話をしていたら、駅員さんを呼ばれてしまうかもしれない。
 だから顔を引き締めた。ついでに背筋もぴしっと伸びた。
『小坂、どうした』
 次いで届いた声がやけに不安げで、そういえば返事もしていなかったのだと思い当たった。やっぱり酔っ払っているみたいだ。
「あの、すみません。ちょっとお酒が入ってまして」
『何だよ、びっくりさせんな』
 主任が笑う。
 おかしさを含んだ声も好き。惚れ惚れしてしまう。
『もう家に着いたのか』
「いえ! ……あっ、今のはシャレじゃないです」
『何言ってんだ。相当酔ってんなお前』
「そうなんです。お腹がぺこぺこなのにお酒が入ってたぷたぷで」
 空きっ腹にアルコールは強力な効き目を齎す。飛び跳ねたらちゃぷんちゃぷん言いそうなくらい飲んだと思う。
『まだ飲み会にいるんじゃないだろうな』
 今度は苦笑気味に問われた。こういう風に笑われるのも結構好き。離れていても好きな人の声が聞けるなんて、電話とは偉大な発明だ。ありがたや。
 ぼんやりしかけたのをどうにか後戻りして、更に答えた。
「いえ、もう駅です。後は電車に乗って帰るだけです」
『心配だな。そんな調子でちゃんと帰れるのか?』
「大丈夫ですよ! 足腰はまだしっかりしてますし、今ならいっそ空だって飛べそうな気分です」
 私は胸を張った。だけど当然見えるはずもなく、電話の向こうからは盛大な溜息が聞こえた。
『俺のいない時に限ってとんでもない酔っ払い方しやがって』
「大丈夫ですってば。あの、帰ったらまた連絡しますから」
『むしろ帰ってから連絡して欲しかったな。こっちはお前の酔っ払いぶりを知った上で、これからお前が家に着くまでずっとやきもきやきもきしてなくちゃならないんだぞ、どうしてくれる』
 そのご意見ももっともだと、ちょっと反省した。これは是が非でも無事に帰らなくてはならない。空を飛んでいる場合じゃない。
『で、どのくらい飲んだんだ』
「ええと……」
 聞かれたので思い起こしてみたけど、その辺りの記憶はぼやけていた。ビールはジョッキで三杯くらいだったと思う。いや、四杯だったかな。それから水割りを作っていただいて、でも飲み切るまでには時間が掛かったから、梅酒サワーとちゃんぽんで飲んでいたような気がする。飲んでいないとすかさず声を掛けられ、酔ってないか、具合が悪いんじゃないかと気を遣われる席だったので、手の空いている時は絶えず何か飲むようにしていた。
 そうしたらこの体たらく。
「思い出せません」
 正直に答える。
 もちろん、直後に叱られた。
『思い出せないくらいたらふく飲んだのか!』
「はい、多分」
『多分じゃないだろ馬鹿! ああもう、何でこんな時に余計な心配させるんだよ、無理してでも迎えに行くぞこの野郎!』
 それはどう考えても物理的に不可能なので、平身低頭、謝った。
「すみません、本当にすみません」
『帰ったら絶対連絡寄越せよ。そのまま寝るんじゃないぞ!』
「承知いたしました。大丈夫です、お任せください!」
『人の気も知らずに明るく答えやがって……』
 酔っているとなかなか、誠意も伝わりにくいものだった。
 仕方がないので他のことを伝えようと思った。
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