Tiny garden

自覚とプライド(8)

 質問に、すぐには答えられなかった。
 私にとって、キスとはまるで遠い星の習慣だ。現実的なものじゃない。したいなんて思ったことはないし、これから先、たとえ好きな人が相手でもそういう風に思うかどうかわからない。以前、手にされた時は頭があっさりショートしてしまった。そのくらい衝撃的な出来事。
 でも主任にとってはそうじゃない。さっき聞いたように、主任は私とキスがしたいのだろうし、こうして触れ合っていることだって抵抗もないらしい。もっと味わいたくなる感覚だ、と言っていた。その感覚は、私の覚える得体の知れない何かと、同じものなんだろうか。
 キスをしたいと言う主任と、触れられるのがようやく、嫌ではないとだけ思う私。
 お互いに、好きだと思っているのは間違いないのに、どうして隔たりがあるんだろう。

 今もまだ、膝の上に乗せられている。顔と顔がくっつきそうなほど至近距離にいる。距離だけならキスも容易いのかもしれない、だけど気持ちはそこまで届きそうにない。怖くて、逃げ出したくて堪らない。
 先の質問から大分時間が経ったような気がする。ふと、囁くような声で問われた。
「……怖いか?」
 多分、ばれていたのだと思う。内心の怖れや怯えが、私を見つめている主任にはあっさり看破出来たのだと思う。それでも正直には答えなかった。そうだとは言いたくなかった。
 今日は逃げないと決めていたから。
 だから答えなくてはいけない。
 おずおずと視線を返す。私を見下ろす面差しは、近過ぎて一部だけしか見えない。つり上がった目は蛍光灯の下では薄暗く、感情をうかがわせない色をしていた。大人っぽい目つきだと思った。
 私が同じような大人になるには、主任に追い着けるようになるには、一体何が必要なんだろう。本当に何でも出来るという覚悟か、相手の為に尽くせる愛情か、初めてのことを恐れない勇気か、それとも七歳分の経験なのか。
 経験だけはどうしようもなく、これから積んでいくしか術もない。だけど他のものも何もないんだろうか。覚悟も愛情も勇気もないまま、私は主任を好きだと思い、そして好きでいながら三月まで待たせていることになるんだろうか。私の中にあるのはそんな薄っぺらな感情でしかないんだろうか。
 言葉ですら不器用で、気持ちを伝え切れていないのに。
 言葉以上に気持ちを、上手く伝えられたらいいと思っているのに。

 覚悟と愛情と勇気を、いっぺんにフル稼働させてみた。
 経験のない分は気持ちで補うより他ない。私がどのくらい主任のことを好きか、言葉以外の手段でも伝えられるようになりたい。目の前の人に、不足なく今の想いを伝えたい。
 主任は私の為にたくさんのことをしてくれている。七歳差を追い駆ける私の為に、道を示してくれている。そして追ってゆく私を見守ってもくれている。そんな人の為に私は、一体何が出来るだろう。
 その人が望むことを、せめて出来なくてどうするんだろう。

 そう思ったから、言った。
「怖く、ないです」
 たどたどしく答えた。
「怖くないです、私、平気ですっ」
 ずっと息を詰めていたせいか、勢い込んだ答え方になった。そのくせ小刻みに震えている。
 つり上がった目は瞬きをする。眉を顰めて聞き返してくる。
「本当か?」
「はい」
 錆びついた動きで顎を引く。それからなるべくはっきりと、目の前の人へ届くよう、告げる。
「主任がしたいとおっしゃるなら、構いません。してください!」
 思ったよりも震えた声になったし、不格好でもあった。だけど言えたことには変わりない。これだけ静かな部屋ならちゃんと聞こえただろうと思う。
 実際、主任はすぐに目を瞠っていた。
「してくださいってお前……すごい物言いだな」
 それはちょっと、言った後で思う。私の方から是非にとお願いしているみたいで、さすがに恥ずかしい。言葉の使い方を考える余裕もなかった。
「あ、あの、もちろん主任のご意向に沿う形でということです! 変な意味じゃなくって!」
 慌てて説明を添えると、少し離れた主任の顔が、たちまちおかしそうに歪んだ。
「これまた予想だにしない反応が来たな。してくださいって言われたら、喜んでとしか答えようがない」
 肩を揺らして短く笑い、その後で続ける。
「本当にいいんだな?」
「はい」
「俺の部屋がファーストキスの場所になるぞ。いいな?」
「か、構いません」
 ストレートな単語を口にされると動じてしまうけど、だとしても答えは変わらない。
 構わない。私の今の気持ちを伝えるのに、そのくらいは出来なくちゃいけない。
 怖くない訳ではないし、どきどきもしている。さっきから胸も呼吸も苦しくて堪らない。だけどそれ以上に、私は私の想いを、ちゃんと形にして伝えたかった。好きな人の為なら本当に何でも出来るんだって、証明したかった。
「私、主任が好きです」
 絶え絶えの呼吸で、かすれてしまう声で言った。
「主任にも、私のことを好きになっていただけて、すごくうれしいです。好きな人に好きになってもらえたのは生まれて初めてのことで、本当に、すごくすごく幸せなんです」
 私を膝の上に乗せて、私の顔を押さえつけたまま、主任はじっとこちらを見ている。表情がよく見えるようにか、少しの距離を置いている。唇まではまだ遠い。
「そういう幸せを、私は大切にしたいんです」
 じっと、私も好きな人の顔を見上げていた。
「主任のことを一生懸命、想っていたいんです」
 全力疾走の後みたいに、言葉は途切れがちだった。
 それでも言えた。むしろ止められなかった。
「私はまだ未熟で、公私共に半人前です。好きな人の為に出来ることもそう多くは知りません。きっと、主任が私にしてくださることの、半分も出来ていないはずです」
 顔を押さえてもらわなくても、見上げていられた。見つめていられた。目を逸らしたいとは思わなかった。逃げ出したくもならなかった。
「ですから私は、せめて主任のご意向を叶えられたらと思います」
 頬どころか全身が熱かった。十月末の夜でも、冷え込みは全く気にならない。
「初めてなので、何かと至らない点もあるかと思いますが、全力で頑張ります!」
 私は訴える。
 未熟で不慣れで半人前な人間なりに、精一杯のことをしたいと思う。全ては好きな人の為に。キスだってきっと頑張れる。
 怖くない訳では決してない。身体はがくがく震えている。せめて気持ちだけは臆さずにいたかった。

 気を張る私とは対照的に、
「至らない点って何だよ。最後の方なんてまんま仕事口調になってたぞ」
 主任はなぜか、笑いを噛み殺すような顔つきでいた。
 ものすごく我慢をして、どうにか吹き出さないようにと必死になっていたようだった。だけど堪え切れなかったのか、やがて喉を鳴らして笑ってみせた。
「あの、それはその、不慣れなものですから、どう言っていいのかわからなくて」
 あたふたと弁解する。真面目に伝えようとしたら、単にしかつめらしいだけの口調になってしまったみたいだ。もっと違う言い方が出来たらよかったんだけど、全然駄目だった。
「でも精一杯、頑張ります」
 そう言い添えたら更に笑われた。
「小坂の全力はすごいな。色気ってもんが全くない」
「う……すみません」
 自分に色気なんてものがあるとは毛頭思っていなかった。それでも全くと言われるとさすがに少しへこみたくなる。三十歳の人から見た二十三歳は子どもっぽいに違いない。やっぱり主任のような人なら、色気のある女の子の方がいいって思うだろうか。
「いや、いい。色気はないが、お前はむちゃくちゃ可愛いよ」
 小さくかぶりを振った主任に。そうも、言われた。
 うろたえたくなる言葉の後、私を抱く腕の力が強くなる。押し出されるように息をつくと、耳元では笑い声が聞こえてきた。
「ああもう可愛い奴め、俺の為ならキスでも何でもするってか。それならこっちだって手は抜かないからな、もう一生の思い出に残るようなファーストキスにしてやる」
 一息に言葉を投げかけられた後、唇には指を置かれた。
 言葉とは裏腹の優しい感触。
「言ったからには逃げるなよ。ちゃんと受け止めろ」
 ぞくっとしたのは言葉のせいだろうか、指先のせいだろうか。
 笑いがようやく落ち着いたのか、今は挑発的な表情でいる主任。私を見つめて深く笑んでいる。唇の形がきれいだ。
 今更のように、私は自分の唇が気がかりになった。ここへお邪魔してから時間も経っているし、お茶だっていただいた。口紅の色は落ちているだろう。せめて、かさついていないといいんだけど。
「小坂、俺はな」
 丸い指先が私の、下唇をそっとなぞった。
「場数を踏んだお前を見てみたい」
 指の動きがくすぐったい。だけど何も言えなかった。両目を覗き込まれるようにしていたから、視線を外すことさえできなかった。
 そのまま、目の前にいる人に見入っていた。
「今の、初々しい小坂も悪くない。だがせっかくだから、もっと別の顔も見たい」
 言葉はぼんやりと受け止めた。意味がわかるような気も、わからないような気もしていた。私のことは私自身にさえ掴めていない。だから自分ではまだ知らない、主任の見たがっている『私』がどこかにいるのかもしれない。
 きっと、そういう私のことも、主任なら見ていてくれると思う。見つけてくれるとも思う。
「これからじっくり場数を踏ませてやるよ。今のお前もこれからのお前も、全部俺のものだ」
 唇から指が離れた。
 その指先は私の顎に辿り着いて、ぐいと持ち上げられる。
「目を閉じろ、小坂」
 告げられた言葉が低く、耳の中に響いた。
 私はぎゅっと目を瞑る。怖かった。どきどきした。逃げ出したかった。だけど心の片隅で、全く別のことを感じていた。
 ファーストキスが好きな人とだなんて、本当に、本当に幸せなことだ。
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