Tiny garden

自覚とプライド(7)

 初めてじゃなくても、抱き締められるのは緊張した。
 事あるごとに近づきたいと思っているくせに、物理的な距離が近づくのはまだ少し、怖い。触れられるのが嫌ではないのに、好きな人の体温が感じられてうれしいくせに、なぜだか怯えてしまう。
 広い胸に頭を預け、私はただまごついていた。すぐ目の前に主任の着ていたシャツのストライプ柄だけが見える。くらくらするようないい匂いもする。目を閉じたくなったけど、すんでのところで堪えていた。
 こんなに近くに置いてもらえて、怖いだなんて思うのはおかしい。
 逃げ出したくなる気持ちを叱咤する。今日は逃げない、どんなことがあっても。
「何でも、ってのは殺し文句だな」
 耳元で声がする。
 その言葉、聞き覚えがあるように思うのは気のせいだろうか。
「本当に何でも構わないのか、小坂」
 声と一緒に吐息が触れて、くすぐったいと感じたのも束の間。
 肩を包んでいた腕が緩んだ。代わりに大きな手で腰の辺りを掴まれて、思わず身を引きたくなる。だけどそうする前に身体が浮いて、視界がぐるりと、半周した。リビングの景色が、あの無機質なメタルラックが、さっきよりも高い視界の中に見える。代わりに主任の姿が見えなくなった。
「えっ、こ、これって」
 膝の上に乗せられている。
 しかも当たり前だけど主任の膝の上だ。がっしりした脚を、私が下敷きにしている。そうとわかったら一層緊張してきた。どうしよう。
「どうだ、座り心地は」
 後ろから腕が回される。ぎゅっと、再び抱き締められる。スーツ越しの背中にも体温と、身体の感触が伝わっていた。顎が、私の髪を掻き分けるようにして熱い頬に触れてくる。見た目よりも少しざらついていた。
 男の人の膝の上に乗ったのは、子どもの時以来だ。すぐ後ろにいる好きな人のことを思うとまごつく気持ちが加速した。どうしようかと思った。
 とりあえず、今一番気がかりなことを尋ねてみる。
「あ、あの、重くないですか」
 恐る恐る尋ねれば、耳のすぐ横で吹き出された。
「そんなことよりもっと、気にすべき事柄があるんじゃないか」
 あるのかもしれない。だけど何から気にしていいのかわからない。室内は耳が痛くなるほど静かで、自分の呼吸が震えているのもよく聞こえた。
「膝の上で抱っこなんて、付き合う前の男にされてていいのか? 一歩間違えばセクハラだ」
 主任はそう言って笑ったけど、私はそうは思わなかった。
 気持ちは既に伝えてある。それを踏まえた上での行動は、嫌がらせにはなりえない。むしろ私を傍に置きたいと思ってもらえたなら、うれしい。この姿勢はさすがに恥ずかしいけど、こういう風にしたいと他でもない主任が思っているなら、気にしないように努めたい。
 私だって距離が近づくのは嫌じゃない。怖いだけだ。どきどきはするけど、ものすごくするけど、逃げないつもりでいた。
「このままで、いいです」
 はっきり答えようとしていたのに、ビブラートが掛かってしまった。
 寒い訳でもないのに震えてくる。どうしていたらいいのかわからなくて、がっちり縮こまっている。でもどうにか伝わりはしたと思う。
「今日はやけに従順だな」
 驚きを含んだ声が言い、私を抱く腕の力が強くなった。
「だったらもうちょい寄り掛かれ。力抜かないと疲れるぞ」
 促されても、正直どこの力を抜いていいものやらわからない。頭が真っ白だった。背中は既に預けてあるし、後頭部も布越しの体温に触れている。ちらと視線を落としたら、胡坐を掻いた主任の膝がすぐ真下に見えて、力じゃなくて体重が抜けたらいいのにと思ってしまった。
「重く……ないですか?」
 もう一度だけ尋ねたら、また笑われたようだ。
「随分と気にするんだな」
「それはその、もちろんです。主任が潰れてしまったら、すごく困ります」
「潰れないって。小坂一人なら抱えていくのだって訳ない」
 断言した主任は、結構力持ちなのかもしれない。さっきだって私を苦もなく膝の上へ乗せていた。腕だって私のものよりずっと太い。
「試しに、奥の部屋まで運んでってやろうか」
 尋ねた後で、主任の目がすっと横に動いた。リビングの奥、キッチンに向かうものとは別の位置に閉じたドアがある。何があるのかは見えないけど、恐らく居室なのだろうとは思う。
 それはともかく、私はまだ緊張しながらも答えた。
「い、いえ、お構いなく。本当に重かったら申し訳ないですから」
「重くないってさっきから言ってる」
 斜め上方から影が落ちる。顔を覗き込まれている。ちらと見上げたら、意外と真剣な、笑いのない表情が見えた。
 この態勢からだと本当に眼前。凛々しい表情が間近にあって、息が出来なくなる。
「しっかり運んでやるから信用していい。この流れでお姫様抱っこってのも悪くないだろ?」
 口調もやけに真面目に、強く勧められた。
 でもお姫様抱っこなんて無理。精神的にも無理だけど物理的にもちょっと。主任にもしものことがあったら大変だ。
「そんなの、駄目ですよ」
 私は呼吸を整え、一息に打ち明ける。
「私のせいで主任が潰れてしまったりしたら申し訳ないですし、私としてもその、最近は体重が気になるところなので、危険です。試さないでください」
 途端、斜め上から覗き込んでいた表情が変わった。笑いを堪える顔になる。
「そういうかわし方をされるとは思わなかった。試すなと来たか」
 そして愉快そうに呟く。
「だったら次の機会までにがっちり鍛えとくかな」
 主任は主任で、どうしても私を抱えて運んでみたいらしい。余程自信があるんだろうか。その自信を疑う訳ではないけど、今後の為にもダイエットをしようかななんて思ってしまった。抱える以前に、膝の上に乗せていただいているという現状だけでも結構、気になる。

 気になるのは重さだけじゃない。
「しかし、このままでいいって言われるとも思わなかった」
 主任は私を抱きかかえながら、時々頬擦りするように頬や顎を寄せてきた。
「頬っぺた柔らかいなーお前。ぷくぷくだ」
「ひゃっ……」
 溶けそう。何だかもう頬っぺたからどろどろに溶けてしまいそう。男の人だけじゃなくて、誰かからここまでくっつかれたことなんてあまりなかった。主任の頬はかさついていて、ざらっとしていて、ほんのちょっと硬い。私の頬とは確かに違う。
「くすぐったいか?」
 頬を寄せたまま尋ねられた。私は錆びついた首を縦に振る。
「くすぐったい、です」
「よしよし。もっとたっぷりしてやる」
 正直に答えたのに、なぜか一層頬擦りされた。
「え、や、ちょっと待ってくださ……」
 慌てて声を上げたけど、声ごと押し潰されてしまう。慣れない皮膚の感触にくすぐったささえ曖昧になる。
 怖い。無性にどきどきした。
 緊張に震える心の奥底に、私の知らない感覚があって、触れられるたびに揺れ動く。得体の知れない何かに飲み込まれそうになる。そういう時の気持ちはうれしさとも幸せとも違い、他の言葉に置き換えることも出来そうにない。嫌ではないことだけが漠然とわかっているほかは実に頼りなかった。
 そんな時、ふと思った。――石田主任はどうなんだろう。私に触れる時、同じような感じを覚えることがあるんだろうか。得体の知れない何かに飲み込まれそうになって、怖いと思うことはあるんだろうか。私に触れる時、どんな風に思うんだろう。うれしいのか、幸せなのか、嫌ではないことがわかるだけなのか、それとも。
「あれ? おとなしくなったな」
 耳元で声がして、我に返った。
 秘密基地みたいなリビングの光景と、背後にある体温を再度意識し始める。ざらつく頬もまだすぐ傍にある。思わず小さく身動ぎをすれば、力づくで抱き直された。
「考え事か、小坂」
 苦笑気味に問われた。黙っていたらまた顔を覗き込まれる。どうしていいのかわからず、私は目を伏せる。
「俺といるのにやたら余裕だな。くっついてるのにももう慣れたか?」
 そんなことはちっともない。こんな調子だと一生慣れないような気がする。
 こういう風にされるのが嫌ではないのに、怖くて堪らないから、逃げ出したくなる。
「慣れてないです」
 素早くかぶりを振って、答えた。
「どきどきします、すごく。余裕なんかないですよ」
 そんなものがあったら、もっと堂々としていられるはずだ。好きな人の傍にいるのに怯えて、恐がっている自分が滑稽に思える。
「主任はどきどきしませんか。私とこういう風に、してて」
 さっきの疑問を口にしてみる。触れてくる時、主任はどんなことを思っているんだろう。どんな風に感じているんだろう。それを聞いてみたかった。
 もしかしたらその答えから、得体の知れない何かの正体が、見えてくるかもしれない。
「いい質問だな、小坂」
 溜息交じりに言った主任が、その後で続けた。
「そりゃ何にも感じないって訳じゃない。どきどきしてるよ、当然だろ」
 声や口調からは動揺も狼狽もうかがえない。いつでも余裕があるように見える、七つも年上の人が答える。
「だからこそ、更にいろんなことがしたくなる。この感覚をもっと味わいたくなる。だからこういうことだって――」
「わっ」
 また、強く頬擦りをされた。
 どきどきするあまり胸が痛い。息もつけない。
「なあ、小坂」
 唇の動きが、私の頬に伝わってきた。
「俺の意向に従うって、さっき言ったよな。お前は何だって構わないって」
 確かめられてぎこちなく頷けば、すかさず顔を覗き込まれた。熱い頬に、今度は大きな手のひらが触れる。軽く上を向かされる。
 すぐ目の前に、主任の顔が。
 それも真剣な表情だった。つり目がちの視線が至近距離から注がれる。鼻先がもうぶつかりそうなくらいに近い。視線を泳がせたくなるくらいに近い。私の、斜め後方に捻られた首筋が強張る。
「お前の言う『何でも』は、一体どこまでを指すんだろうな」
 呟き交じりの、熱い吐息が触れた。
「読めないんだよな。どこまでが許せてどこからが駄目なのか。キスには怯えるくせに、膝の上には乗ってるんだから」
「あ……」
 喉の奥から、相槌にも返事にもならない声が出た。それで主任の表情が動く。
「じゃあ、こっちからも質問だ」
 目を細めている。
「お前は、俺がキスしたいって言ったら、させてくれるのか?」
 言葉が私の唇に触れる。
 最早少しでも身動ぎをしたら、その言葉が事実になってしまいそうなくらいの距離にいた。もう表情も見えない。逃げ出したくなる気持ちから、つい目を閉じたくなる。なのに身体が動かない。
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