Tiny garden

自覚とプライド(2)

 タイムカードを通したのは午後八時過ぎ。
 この時間まで残るのももう慣れっこになっている。全く慣れないのも良くないだろうけど常習化するのも大変よろしくない。社内は既にがらんとしていて、レコーダーの立てる音が不気味に響く。
「はあ」
 打刻された退勤時間を見て、思わず溜息をつくと、隣で主任が吹き出した。
「そんなにしょげるなよ、わかりやすい奴だな」
「お言葉ですけど、今朝注意を受けたばかりで、その日のうちに残業っていうのはさすがにどうかと思うんです」
 私はそう反論した。せめて言われたその日くらいはどうにかしたかったんだけど、スケジュール通りに事が運ばないのも営業という職種の特徴かもしれない。
 外回りの最中でもよその得意先から問い合わせはあるし、期日よりも早い見積もりや納品を要求されることもままある。見積書の数字に遠回しな値引きをお願いされたりすることもあったし、でもこちらとしては勉強に勉強を重ねた出精価格だったりしてなかなか譲れなかったりもする。そんな訳で、営業に掛かる時間は日増しに長引いてしまっていた。皺寄せは雑務処理などに来る。あと休憩時間と。
 社食メニューのマジョリティであるカレーにありつけた日はまだいい方で、運が悪いと営業時間内に帰社も出来ず、外で食事を取ることも出来ない日なんかもある。つい最近になって、とうとう私は栄養補助食品に手を出してしまった。移動中の合間を縫って、ゼリー飲料をちゅーちゅー吸いながら、これって子どもの頃にイメージしてたサラリーマン像と同じだなあ、と思ったりする。現実はイメージほど格好良くないし、CMで言うほどお腹も膨れない。
 という訳で、今日もお腹がぺこぺこだった。
「何でも一朝一夕で上手くいくもんじゃないだろ」
 石田主任が励ますように言ってくれた。
「だから今月のうちに釘刺しといたんだ。来週から徐々に気を付ければいい」
 温かい言葉に、私も前向きな気持ちになって笑ってみる。
「わかりました。明々後日は、もうちょっと頑張ります」
「そうだな」
 頷いた主任も、今日はこの時間まで残業だった。金曜の夜ともなると次週に備えていろいろすることがあるんだ、と言っていたけど、私の仕事が残っていたから一緒に残ってくれたのかなという気もする。お蔭で私は今のところ、営業課の鍵を預かったことがない。確証はないものの、申し訳なさも覚えている。
「今日は車で来てるから、送ってってやる」
 ロッカールームに入る前にそう言われて、申し訳なさは更に加速した。
「そんな、いいですよ! 主任だってお疲れでしょうし」
「気にするなって」
 軽く笑って、私の手元へ目を向けた主任。追うように視線を下ろせば、ずっしり重いビジネスバッグが視界に入る。
 八時まで残業をしても尚、持ち帰らなくてはならない仕事があった。
「それ持って帰るの、大変だろ」
「いいえ、もう慣れました。ここ最近はずっと持ち帰りですから」
「ずっとか。仕事を持ち帰るのまで慣れられるのも困るな」
 主任の言葉にぎくりとしつつ、私はビジネスバッグを持ち直す。中身は仕事で使っているラップトップだ。ノートパソコン軽量化、小型化の時代に、我が社の備品ラップトップと来たらずっしり重い。ざっと六キロ超の筐体は膝の上に乗せたら痺れてきそうなくらい重い。通勤時に持ち運ぶのは、不可能ではないけど楽でもない。
 これを持ち帰って、家で見積書を作ってくるのが私の、土日の宿題だった。
「とにかくな、俺が送りたいって言ってるんだから、素直に乗ってけって」
 たしなめるような口ぶりの主任が、私の頬っぺたを軽くつついた。
「こういう時こそ頼れよ、毎日出来ることじゃないんだぞ」
 言葉と感触と、二重の意味で言い返せなかった。
 何て言うんだろう、頼らせ上手、なのかな。

 石田主任の車に乗せてもらうのも久し振りだった。
 これで三回目だと思う。一回目は海に行ったあの日で、二回目は――初めての休日デートの日。どちらも私にしては印象深い、劇的な出来事のあった日、忘れられるはずもない。
 車高の高いSUV車、そこからの眺めも久々だ。今は人気のない地下駐車場が見える。懐かしいと言えるほどではなくて、私はひたすらどきどきしていた。ドアを閉めたら本当の二人きりになる。仕事でくたびれた頭はまともな判断力を残してくれない。鼓動だけを逸らせる。意識し過ぎだと自覚しつつ、おっかなびっくり助手席のドアを閉じた。すぐに、シートベルトを締める。
 主任も運転席に乗り込み、音を立ててドアを閉めた。真っ先にエンジンを掛ける。それからシートベルトに手を伸ばす。
「お前を乗せるのも久々だな」
 エンジン音に紛れて聞こえてきた呟き。
 視線を上げれば、うれしそうな笑みを浮かべた横顔が見えた。
「一緒の職場にいてもなかなかチャンスがないんだもんな。もっと二人っきりでいられる時間が増えたらいいんだが」
 勤務中でも二人でいる時間はたまにあった。二人だけで残業をしたことも、出勤時に一番乗りと二番乗りでいたことだってある。でも、主任が求めているのはそういう時間じゃないんだろう。
 私だってそうなのかもしれない。聞こえた言葉にじわじわと、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。胸が苦しくなるような、それでいて幸せなような、どぎまぎし過ぎて眩暈がしそうな、複雑な気持ち。
「仕事がなければ、明日でも誘ったのにな」
 主任の目がちらと動いて、私の膝の上にあるビジネスバッグを示す。どことなく恨めしげな視線を向けられても、バッグの中のパソコンはずっしり重く存在を主張している。軽くなったりはしてくれない。
「すみません。お休みの間にきっちり片付けますから」
 私は仕事の遅さを詫びたけど、内心では確かに落胆していた。こうして勤務時間外に二人きりになってみると、どきどきしつつ、勤務中では味わえないうれしさが込み上げてくる。
 前のデートからもう三週間以上も経っている。そういうことが言える立場ではないこともわかっていたけど、そろそろオフの主任にも会いたかった。仕事以外の話をする時間が欲しかった。電話やメールでだって出来ない話でもないけど、でも、明日のお休みにも会えないんだとわかると想いが一層募った。
 すごく好きなんだなと、改めて強く自覚した。主任のことが好き。まだ慣れていないけど、何をしていいのかもわからないくらいだけど、一緒にいたいと思うくらいに好き。
 その想いは、意外にあっさりと言葉になった。
「……本当は、あの、私も、お会いしたかったです」
 車が発進した瞬間、そっと告げてみた。未練がましい言い方のようにも思ったので、声は落とした。だけど言わずにはいられなかった。
「不甲斐なくてすみません。もっと、頑張ります、私」
 次の言葉は強めに、意思表示として口にする。
 地下駐車場から車が滑り出すと、視界が一息に開ける。夜のビル街へと繋がる。ぽつぽつと点在する街の灯と、信号機の強い色合い。
「じゃあ、会うか」
 それもまた、あっさり告げられた。
 あまりにもストレートだったので聞き違いかと思った。私は運転席の方を向き、主任は真っ直ぐ正面を向いている。口元は笑っている。
「え、ええと……」
「誤解するなよ、小坂」
 戸惑う私の声を遮って、車を走らせる主任が言う。
「お前の仕事を邪魔しようとは思ってない。ただ――そうだな、仕事をするのにいい場所があるから、そこへ連れてってやろうって話だ」
 仕事をするのにいい場所、魅力的だけどぱっと察しのつかない言葉だ。
「それって、どんなところなんですか」
「都合のいい場所だ。お前が月曜日、そのばかに重いラップトップを会社まで持ってこなくてもよくて、割と静かで、ただで何時間でもいられて、おまけにいざって時は手取り足取り仕事の指導まで受けられるって場所がある」
「へえ……すごいですね!」
 素晴らしい好条件の揃いよう。そんなところが本当にあるんだろうか。あるのだとしたらいかにも集中出来そうでいいなあ、一層捗るかもしれない。
 でも、それってどんな場所なんだろう。
 そして仕事の指導って、一体誰がしてくれるんだろう。私が疑問に思った時、
「そういう訳だから、俺の部屋に来ないか」
 主任がさらりと語を継いだ。
「一人暮らしの部屋だ、静かなもんだし仕事をするにはちょうどいいぞ」
 思わず口が開いたけど、声はとっさに出なかった。
 膝の上からバッグがずり落ちそうになって、慌てて掴んで引き止める。でも先の言葉を聞き返す為の声が出ない。
 あ、ええと、つまりそういうことなんだろうか。手取り足取り仕事を教えてくださるのは他でもない石田主任で、割と静かで何時間でもいられる場所って言うのは主任のお部屋で、私はそこにお招きいただくということで――。
「悪くない条件だろ?」
 全開の笑顔で尋ねてくる主任。
「一人で仕事するようになって、いろいろ行き詰まってることとか、疑問のまま放ったらかしにしてる部分もあるだろうしな。以前のように、マンツーマンでじっくり指導されたいと思わないか。邪魔の入らないところでな」
 私はまだ言葉が口に出来ない。それは確かに好条件だ、仕事のわからないところをじっくり教えてもらういい機会だ、その上、主任と二人きりでいられる機会でもあると思う。
 だけど、場所が場所だ。
「しゅ、主任のお部屋にですか……?」
 頭がオーバーヒートしたので。それだけ聞き返すのがやっとだった。
 そしたら主任は、フロントガラスを見据えながら力強く言い切った。
「公私混同は見えないところでしないとな。そしてそれが能率アップに結び付くなら、言うことなしだ」

 能率アップ、するかなあ。
 もちろん石田主任の発言を疑うつもりは微塵もない。主任なら、そういう時は手を抜かずきっちりと指導してくれると思う。
 でも、私はどうだろう。
 一人暮らしの男の人の部屋にお邪魔するのは、初めてだった。
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