Tiny garden

プライドと自覚(4)

 会議の後は営業課オフィスにて、見積書の記載と確認、それから発注とその状況確認に追われた。
 思えば、夏頃の私は出来る仕事が少なくて、次は何をしたらいいのかとまごまごすることもよくあった。今は出来る仕事も増えたけど、しなければならない仕事も格段に増えた。次に何をするか迷う暇もない。一つずつ片付けていかなければならない。でも相変わらず、まごまごはする。忙しさと気の抜けなさに戸惑うこともしょっちゅうだ。
 そうこうしている間に終業時刻を過ぎていた。それも当たり前になってしまって久しい。大体、私なんかはまだましな方だった。

「霧島、戻ってこないな」
 主任が壁の時計を見て、眉根を寄せた。
 先週からずっと、霧島さんは多忙を極めているようだった。大口の契約を取り、納品までは無事に漕ぎ着けたものの、その後のアフターフォローに追われているのだと聞いていた。何でもかなり注文の多い取引先らしく、休業日でもお構いなしに問い合わせをいただくのだとか。
 今日も朝から外回りに出ずっぱりで、会議の後でまた社用車でとんぼ返りしたそうだ。この分だと帰社は何時になるのかわからない。その後で書類やら何やらに手をつけるとなると。
「せめて戻ってくるまで待っててやれたらいいんだがな」
 難しい表情で主任は言うけど、その主任だって今日はお昼ご飯も食べていない。仕事が片付いたなら一刻も早く帰りたいはずだ。
「小坂は今日、何時くらいで上がれる?」
 水を向けられたので、私は正直に答える。
「八時までには、終われたらいいなと思っています」
 すると、主任には難しい顔をされてしまった。
「そんなに掛かるのか?」
「すみません、見積書作りに手間取っていまして……。なるべく早く退勤出来るようにはします」
 申し訳なさに背筋が伸びる。自分に出来る仕事くらいは迅速にこなせるようになりたい、つくづく思うのに、現実は厳しい。
 私も本当は早く上がりたい。今日はお腹が空いてしょうがないとか、くたびれてしまってどうしようもないということはないけど、残業が続くとうちの両親が心配するから困っている。覚えたての業務だから、やることの多い部署だからと説明しても、やっぱり心配はしてしまうらしい。だからなるべく早く帰れるようにしたいんだけど。
 営業課に配属された直後は、営業の仕事って契約を取ってくるだけなのかと思っていた。でも実際はその契約をするまでに何度も打ち合わせをして、見積もりも出して、契約を取ってからは迅速な発注と納品をして、アフターフォローもしっかりやって……と営業と一口に言っても、業務内容は濃密だ。まして生身のお客様を相手にする仕事、応対の仕方にも気を配らなくてはならない。
 ぽつぽつと新規の契約を取ってくるようになった私は、その新規の分の対応にひたすら追われていた。一年目だからまだいいものの、これで得意先がもっと増えるようになったら、ちゃんと対応し切れるかどうか。不安も少しある。
「まあ、営業回りを始めた今が最初の山みたいなものだからな。しょうがないと言えばしょうがないか」
 言いながら、主任がラップトップに向かう私の傍までやってくる。表計算ソフトの画面を覗き込み、それから横目で私を見る。小声で、はっきりと告げられた。
「でもすぐに次の山があるぞ。年末の忙しさに潰れるなよ」
「はい。頑張ります」
 私は真顔で答える。俗に言う年末進行の慌しさは、話にしか聞いたことがない。覚悟だけはしているけど、実際そうなったらちゃんと対応し切れるか。不安もある、少しだけ。
 真横に立つ主任が、私の顔を見て、やっぱり何か言いたそうにした。言葉を探すような面持ちと間。
 だけど――そのタイミングで、営業課のドアがノックされたから、結果的に何も言われなかった。
「はい」
 ドアの向こうへ、真っ先に声を上げたのは主任。
 すぐにドアは開いて、誰かが顔を覗かせる。誰かと言うのはすぐにわかった。
「長谷さん」
 主任が名を呼んだ通り、現れたのは受付の、長谷さんだった。既に退勤後なのか私服姿で、一度営業課内を見回してから、主任に向かって声を掛けてくる。
「あの、石田さん……石田主任。ちょっとよろしいですか」
 途端、営業課の空気が変わったような気がする。
 居合わせた人たちが皆、長谷さんの方を見ている。こっそりうかがっている人も、笑顔で見つめている人もいる。前に聞いた『営業課のアイドル』という話が、皆の視線によって明確に裏づけされている。
 かく言う私も、こっそり観察してしまう訳だけど――膝上丈のワンピースにロングニットは小柄な長谷さんによく似合っていた。アイドルの名に相応しく、可愛かった。
 呼ばれた主任は廊下へ出て行こうとして、ふと私に目を留める。
「小坂」
 私を呼んで、こっちへ来るようにと手招きをする。
 説明は特になく、主任の姿はドアの外へと消えてしまう。私に一体何のご用だろう。怪訝に思いつつ、私は慌てて後に続き、廊下へと出た。

 廊下で顔を合わせた長谷さんは、私のついてきたことに一瞬、おやっという顔をした。だけどすぐに笑顔になって、お辞儀をしてくれた。
「こんにちは、小坂さん」
「は、はいっ。こんにちは、長谷さん!」
 私も笑って頭を下げる。そうしたら長谷さんは、微かに声を立て、笑ってくれた。
 こうして間近で見ても、とっても素敵な人だ。大人のお姉さんみたいないい匂いもする。何だかすごくどきどきする。
 しかも、笑顔で言われた。
「小坂さんのお話は、いつもうかがってます。とても真面目な新人さんだって」
「い、いえいえそんな……!」
 めちゃくちゃ照れて、私は両手をぶんぶん振った。真面目だなんてそんな。と言うか長谷さんにそういう話をするのは、やっぱり霧島さんなんだろうか。
「小坂、謙遜するなよ」
 主任には肘で突かれて、ますます照れた。慌てて反論する。
「謙遜じゃないです。あの、私の話を長谷さんがご存知だとは思わなくって」
 そこで、ふふっと長谷さんが笑う。
「しっかり存じてます。石田さんの自慢の部下なんですよね」
 何という過分なお言葉。とてもじゃないけどもったいなさすぎる。
「まままさか、とてもそこまででは!」
「そうなんですか? でも石田さんって、お酒が入ると小坂さんの話ばかりするんですよ。とても真面目で、しかも可愛いんだって」
 長谷さんのその言葉は揶揄するそぶりではなく、真っ直ぐ口にされたものだった。
 でも私は、昼休みに安井課長から聞いた話もあって、つい無言のうちに主任の顔を見上げてしまった。もしかして主任は、どこでも私の話をしているんだろうか。まさか長谷さんの前で、素面では言えない話をしているとは思わないけど――それでなくても十分に大事だ。
 今度は主任が照れている様子で、どこかしら気まずげに言った。
「長谷さんも意地悪だな。酒の席での話を、勤務中の人間相手に持ち出さなくたって」
「すみません、つい」
 楽しそうな顔で首を竦めた長谷さんは、続けて主任へと尋ねる。
「ところで、霧島さんはまだ戻ってきていませんよね? 遅くなるようですか?」
「ああ。何時になるかはわからない」
 主任が答えると、長谷さんの顔には気遣わしげな表情が浮かぶ。心配なんだろうなとわかる。
「そうですか……じゃあこれ、お弁当なんですけど、お願いしてもいいでしょうか」
 長谷さんは、提げていた小さな紙袋を主任に差し出した。ずしりと重そうに見えた。
「目立つところに置いておけば彼も気づいてくれると思いますから、お願い出来ますか?」
 説明を添える長谷さん。口調から察するに、霧島さんの為にお弁当を用意することはそう珍しくもないみたいだ。確かに、以前も長谷さんのお弁当を持った霧島さんをお見かけしていたような。
「了解」
 短く答えた主任が、とん、と私の背中を叩く。驚く間もなく言われた。
「長谷さん、その弁当は小坂が預かるから、安心していい」
「え?」
 いきなり話を振られたことと、背中に触れられたことに私は動じた。主任はこちらに目配せしてから、また長谷さんへと向き直って続ける。
「今日は小坂もあいにくと残業なんだ。でも、そのついでに弁当もしっかり見張っててくれるはずだ。安心していいからな、長谷さん」
 そこまで言われてようやく、私は廊下まで連れてこられた理由を察した。
 ――なるほど、長谷さんが持ってきたのは霧島さんの為のお弁当。それを確実に残業のある私が、霧島さんが帰社するまで預かっていればいいということだろう。
「そうなんですか。小坂さんも残業なんて、大変ですね」
 長谷さんが私を見て、少し心配そうにしてくれた。うれしかった。すかさず答える。
「いいえ、大丈夫です。お弁当もばっちりお預かりします!」
「ありがとうございます。じゃあ、お願い出来ますか?」
「はいっ。お任せください!」
 私は元気よく答え、笑顔の長谷さんから紙袋を受け取った。ずしりと重い袋の中、包まれたお弁当箱が収められているのが見えた。どこからどうみても手作りだ。いいなあ。
「小坂さん、お願いしますね。今度お礼をしますから」
 うれしげな言葉に、私はかぶりを振る。
「そんな、お気持ちだけで十分です! このくらいいつでもお申し付けください!」
「わあ、ありがとうございます、助かります。やっぱり素敵な新人さんですね」
 受付の人らしい、とびきりの笑顔を見せる長谷さんが、その後で声を抑えて言った。
「よかったら今度、ゆっくりお話ししたいです。石田さんと小坂さんのお話も是非うかがいたいですから」

 いい匂いとどきどきする空気を残し、長谷さんは営業課前の廊下から立ち去った。
 そして私は恐る恐る、隣に立つ主任の顔を見上げる。主任は照れ笑いを浮かべて私を見下ろす。目が合った時に言われた。
「悪いな、小坂。外堀はもう埋まってんだ」
 それにしても見事な埋め方だと思う。徳川家康もかくやと言うほどの。
PREV← →NEXT 目次
▲top