Tiny garden

プライドと自覚(3)

 宣言通り、主任は会議直前に戻ってきた。
 先に会議室に入り、資料に目を通していた私は、案の定颯爽と現れた主任の姿にほっとするやらどぎまぎするやらで、忙しないことこの上なかった。今日の昼休みは何だかいろいろあり過ぎて頭が破裂しそうだ。どちらにしても中身はほとんど、石田主任のことなんだけど。もう勤務に戻ってるって言うのに不真面目で困ったものだ。
 主任は席に着く前に私の方を見て、こっそり笑いかけてくれた。その時だけ砕けた表情になった他は、ずっと勤務中らしい、落ち着き払った顔つきでいた。それに対して私は会釈を返すのがやっとだったけど、そうして気に掛けてもらえたのはうれしかった。
 さっきのメールと言い、今の笑顔と言い、大げさではないほんの僅かな動作で行われる気配り。目につくたびに、私と比べて主任は、すごく大人なんだなあと思う。

 勤務中の主任はしかつめらしさも肩肘張った印象もまるでなく、ごく自然な態度でいる。なのにオンとオフの切り替えがきちんと出来ているところがすごい。そして仕事もきちんとやり遂げるところもすごい。今、資料を通読している石田主任が、お酒の席で品性に欠ける話題を口にしている姿なんて到底想像出来ない。本性のある人にも見えない。『本性』がすなわちオンかオフかどちらかの姿だと言うなら、話はまた別なんだろうけど――それなら今の私でもある程度は知っている。
 安井課長は、私の知らない主任をご存知だ。そして私のいないところで、私の話をする主任をご存知だ。惚気と評されるような話をされている事実に、私はまだ信じられないような、本当だったら困るような、そんな気持ちでいる。百聞は一見にしかずと言うけれど、実際に自分の目で見てみるまではわからない。安井課長の言ったように三人で飲みに行く機会がもしあったら、そういう主任も目の当たりにするのかもしれない。きっと恥ずかしいだろうなと、停止気味の思考でぼんやり思う。
 とりあえず今の私は、私について惚気る主任の姿を知らない。私について『素面では言えないような』話をする主任と、その話の具体的なところを知らない。ただ、手にキスをされた時の感覚は知っている。そして、次の機会にはもっと長い時間一緒にいたいと、主任がそう思っていることも知っている。今の私が知らないことを、全部わかるようになるのが、恋人として付き合うということなのかな、と思う。
 私はオンとオフが時々ごっちゃになる。勤務中にもこんな風に、主任のことを考えて赤面してしまう時があるし、そうかと思えばお休みの日でも仕事の反省点や課題ばかり考えて、ぼうっとしてしまう時もある。ちゃんと切り替えが出来るようになったら、もう少しいろんな局面でも余裕が出来るのかもしれない。主任と恋人になるという予定を、よりはっきりした現実として捉えられるようになるのかもしれない。

 ひとまず、さしあたっては、会議に集中することにした。
 ルーキーの分際で、仕事に慣れてきたと言ったら驕りのようだけど、事実いくらかは慣れてきたのだと思う。いつぞやの頃とは違い、会議の内容を丸暗記なんて不器用な真似はしなくなった。要点だけを抜き出してメモに取るようになった。それでも私の筆記速度は他の皆より遅めで、いつも会議室には一番最後まで残された。やっぱり、慣れてきたと言うのは驕りだ。ほんのちょっと、慣れたかな、という程度にしておく。
 ホワイトボードを消すのと照明を消すのはビリの人の仕事、つまり私の仕事だった。学生時代の日直の気分でホワイトボードをきれいにしておく。黒板よりも消しやすいし、チョークの粉が飛ばないのがいい。高校の頃は紺のセーラーで、白いチョークの粉がつくとなかなか落ちないのが嫌だった。
「小坂、終わったか?」
 一人きりだった会議室のドアが開き、石田主任が顔を覗かせた。OHPを片付けてくると言っていたから、私がホワイトボードをきれいにしているものの三分ほどの間に、倉庫へ行って帰ってきたらしい。こういう行動も迅速なんだなあ、と感心してしまう。
「はい。ちょうど終わりました」
 私は答え、フェルトの字消しをボードの前に置く。そして照明のスイッチまで歩み寄り、一息に室内の明かりをオフにする。
 会議室を出て、ドアを閉める。主任はそのドアノブに鍵を差し込み、がちゃりと音を立てて施錠した。チェーンつきの鍵をポケットにしまった主任が、私を見て、軽く笑う。
「じゃ、戻るか」
「はいっ」
 大きく頷いてみる。勤務中なので真面目な顔で応えた。
 その時、主任がまた、何か言いたげにしてみせた。でも何も言われることはなかった。どうかしたのかなと、私も少しだけ訝しく思う。もしかしたら私の勘違いかもしれないけど。
 それから二人で、営業課まで歩き出す。
 距離は短い。階段を一階分下りて、ほんのちょっと歩くだけだ。廊下には他に人もいるから、並んで歩くこともしない。二人でいるといろんなことを思い出しそうになるけど、キスの記憶も今日の安井課長のお話も、ひとまずは頭から追いやった。しかつめらしい態度でいることにした。

 社内で、主任と二人でいられる機会はそう多くない。
 主任に直接、業務を教わっていた時期はたくさんあった。だけどここ最近は私も一人で仕事をするのが当たり前になっていて、主任はもちろん、他の営業課の方とさえなかなか顔を合わせなくなった。せいぜい、朝礼の時と帰り際くらいだ。その帰り際も、場合によってはまだ戻ってきていない人がいたりするんだけど――私もここ最近は、定時上がりなんて縁遠い。
 こういう、主任と一緒にいても差し障りのない時間が、ささやかながらうれしくもあったし、でも勤務中だと落ち着かないなと思ったりもする。やっぱり主任とは、勤務時間外に一緒にいる方がいいなあ、なんて。ついこの間まではこういう時間こそが一番の幸せだったくせに。人間、贅沢を知るとキリがなくなるものだ。そういえば石田主任も先日、そんなことを言っていたっけ。

「腹減った」
 早足で三歩前を行く主任が、不意に呻いた。
 見ると、お腹の辺りに手を当てている。
「もしかして、お昼まだなんですか」
 やっぱりそうなのかなと、私は後ろから恐る恐る尋ねる。心配していた通りだったみたいだ。
「ああ、食べてない」
 こちらを振り返り、顎を引く主任。
 休憩中に取引先へ呼び出されていったと言うんだから、食べる暇もなくなってしまっただろう。もしくはまさにお食事の真っ最中だったのかもしれない。どちらにしても大変だ。
 私にとってもそのうち他人事ではなくなるんだろう。今より更に仕事が増えたら、ご飯の時間にお得意先から電話があったりなんて、珍しいことじゃなくなるのかも。
「でも今から食べるのも微妙だな。どうすっかな」
 苦笑気味の主任が腕時計を見る。確か、会議が終わったのは午後四時少し前のこと。今はお昼より晩ご飯の方が近い時間帯だった。
「こういう時の判断が難しいよな。晩飯まで我慢しとくか、それとも繋ぎで軽く食べとくか。食べないでいる方がいいんだろうな、本当は」
 同意を求められたので、私は心底共感しながら答える。
「難しいですよね。食べて、後で悔やむこともありますし」
 晩ご飯を美味しく食べたいなら、こういう微妙な時間にぐっと我慢するのが一番いいはずだった。でもその我慢がまた大変。お腹が鳴っちゃうのも恥ずかしいし、悩ましい問題だと思う。
「だよな」
 主任も悩ましげに首を傾げた。
「買いに行くのだって面倒だし、我慢するかな」
 さすがは石田主任、立派なご決断だ。私は精一杯の気持ちを込めて応援することにした。
「頑張ってください、主任」
「ん? 頑張るって、我慢をか?」
「はい。きっとすごくお辛いことと思いますけど、応援しています!」
 そうしたら、なぜか当の主任には笑われた。
「別にそこまで辛くはないって。お前じゃあるまいし」
「……えっ?」
 今の、私じゃあるまいしという言葉には一体どんな意味が。考えそうになる私を、主任はおかしそうな口調で引き戻す。
「むしろ、お前の顔見てると無性に腹減ってくるんだよな」
「それは……私が食いしん坊だからという意味でしょうか」
 恐らくはそういう意味なんだろうな、と思いながら聞き返す。そして主任は否定をしない。いい笑顔で私を顧みる。
「それもある」
「あるんですね……」
「でも、それだけじゃない」
 階段に差し掛かったところで、主任は私の真横に並んだ。私に内側を下らせ、自分では外側を歩きながら打ち明けてくる。
「小坂の頬っぺた見てると、何かこう、肉まんとかあんまんとか食べたくなるんだよな。うん、いい顔だ」
 私は絶句した。自分の頬っぺたから食べ物を連想されるとは思いもよらず。そんなにぷっくりした頬をしてるだろうか。そりゃあ、就職してからはほんのちょっと、ちょっとだけ体重が増加していたりもするけど、でも――。
 階段を下りながら、主任はしげしげと私を、私の頬を見ていた。恥ずかしくなるくらいつぶさに見られた。そして、下り切ってから呟かれた。
「美味そうだ」
 万感込めた言葉に。どう反応していいものやら。
 言われた時の視線が思いのほか強かったので、私はそっと、抗議の意思を答えてみる。
「食べちゃわないでくださいね、主任」
「どうするかな」
 おどけたような顔で、主任が笑う。
「空腹だけなら、多少の我慢も出来るんだがな」

 空腹だけ、なら?
 ――それこそどういう意味だろう。お腹が空いた時の話じゃないのかな。
 私が目を瞠った時、ちょうど営業課まで辿り着いた。石田主任は訝しがる私にそっと目配せをしてから、勤務中らしい顔つきに戻ってドアを開けた。切り替えの実に素早い人だった。
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