Tiny garden

プライドと自覚(2)

 顔を上げると、コンビニの袋を手にした安井課長が、私のいるテーブルのすぐ横に立っていた。随分と久し振りにお会いしたような気がする。
 目が合うと優しく笑いかけられた。その笑い方が意味深長に映って、どきっとする。
 直感した。課長は、私にお話があるんだと思う。
 空いているからと言って、私は六人掛けのテーブルを独り占めしていた。もちろん他のテーブルも空いている。だけど課長を拒む理由はない。お世話になっている人だし、目上の方だし、特別苦手な訳でもなくてむしろいい人だと思っている――ただ今は、嫌な予感と言うか、どんな話題を出されるかうすうす察していたから、緊張した。

「あの、どうぞ」
 おずおずと答えれば、課長は穏やかに笑んだ。
「ありがとう。お邪魔するよ」
 まずコンビニの袋をテーブルの上に置くと、私の左隣の椅子を引く。素早く腰を下ろして、袋の中からお弁当を取り出す。こういう時でも姿勢よく、きびきびとした動作の人だった。
 お弁当を開けた課長が、ふと私の方を見る。見ていたら失礼だったかな。気まずく思う私に、もう一度笑いかけてくれた。
「小坂さんと会うのも久し振りのような気がするな」
 私も同じように思っていた。すぐに答えた。
「そうですね、一ヶ月ぶりくらいでしょうか」
「そんなになるか。霧島が結婚するだの何だのと言い出した頃だったな」
 しみじみと言う安井課長。表情はほんの少し複雑そうだったけど、そのどこまでが本当の複雑さなのかは窺い知れない。何せ主任と課長と霧島さんは、そろって仲良く喧嘩する人たちだ。
 でも、そういう関係がすごく羨ましくもあったりする。
「営業課は、今日は会議があるんだよな?」
 安井課長のその言葉に、私ははっとしつつ頷いた。
「はい」
 そうだった。まずはカレーを食べてしまわないと。お茶を飲む時間がなくなってしまう。
「じゃあ、食べながら話そうか」
 促す課長は、ご自分でも割り箸の袋を開け、ぱちんと箸を割る。
 話す、という単語にそこはかとない不安を抱きつつも、私もカレーの続きを食べる。――何を話すんだろう。十中八九、石田主任のことなんだろうけど。どんなことを言われてもうろたえないようにしないと。こっそりと決意を固める。
「小坂さんと話すのは久し振りだが、話には聞いていたよ」
 お弁当をつつきながら、課長がそう切り出してきた。
 来ると思っていた。私が身構えた瞬間に、告げられた。
「どうやら、石田を手玉に取ってるらしいな」
「て、手玉!?」
 声が出た。思いっきりうろたえた。
 だって手玉って。そんなまさか。
「そんなことはないです」
 大急ぎで否定してみる。そんなことは断じてないと思う。と言うより私はそういう風には思っていなかったということだけど、しかしながらここに一つの懸念がある。
 ついこの間、主任から貰ったメールの内容が脳裏に過ぎる。『安井と飲みに行くから思いっきりお前の話をしてくる』、そう書いてあったから、私が止めたところでどうしようもなく、安井課長の耳にもある程度は入ってしまうんだろうと覚悟はしていた。でもどういう形で伝わるかは全く聞かされていなかったし、聞く勇気もなかった。安井課長の言ったことを踏まえるとつまり、主任がそういう風に、課長へ打ち明けたんだろうか。まさか。
「あれ、違ったのか?」
 課長がおかしそうに尋ねてくるから、私は恐る恐る聞き返してみた。
「それは、石田主任がそういう風におっしゃったということ、でしょうか?」
「いいや」
 即座にかぶりが振られた。尚も愉快そうに続く。
「石田から話を聞いて、俺が独断で決め付けただけ」
「そ、そうなんですか」
 独断って、事実がありのままに打ち明けられたのだとしたら、どの辺りでそう思ったんだろう。手玉に取るだなんて、二十三の小娘には全くもって不似合いな形容なのに。主任は、私みたいな小娘に手玉に取られるような人じゃない。いろんな意味で大人だ。
 だから、改めて否定した。
「それは違うと思います」
「ふうん。本当に?」
 今度は試すような目を向けられた。訳もなくぎくりとする。
「その、もちろん本当です」
「そうかな。あいつを来年度まで待たせるなんて、なかなかの手腕だ」
 安井課長はからかうような調子でもあったし、どこか真剣なそぶりでもあった。私の知らない事実さえ知っているようにも見えた。実際はどうなんだろう。
 ただでさえ気になっていることがある。約束をした日から、私は主任への接し方をあれこれと悩んでいた。もっと気の利いたことを言いたい、主任に喜んでもらいたい、幸せになってもらいたい――そう思いながらも二週間が過ぎ、ろくなことは出来ずにいた。
 主任はそんな私をどう捉えているんだろう。早くも不安がられていて、それで安井課長にもその不安が伝わってしまったとか、そういうことでなければいいんだけど。
 思わず私が押し黙ると、課長は軽く首を竦めた。
「悪かったよ」
 静かに謝られて、違う意味で驚かされる。
「いじめるつもりじゃなかった。そう困った顔はしなくていい」
「い、いえ。こちらこそ生意気に、反論をしてすみません」
 そんなに困った顔をしていただろうか。困っていたのは事実だけど、いざ謝られるとかえって慌てふためきたくなる。それを見越してか、話は先に進んだ。
「小坂さんが石田にお預け食らわせたって話を聞いたものだからな。そういう事の運びになるとは思っていなくて、心底面白がっていたところだ」
 誉められた訳ではないことくらい、私にもわかった。かと言って課長の物言いには棘や皮肉も感じられず、本当に面白がっているように聞こえた。どう反応していいのかはちっともわからず、戸惑ってしまう。
 それで気づけば、スプーンが止まっていた。
「あ、気にせず食べてくれ。俺は俺で勝手に話す」
「はい」
 再度促されたので、私はまた食事を再開する。
 それでも左隣が気になってしょうがなく、ちらちら様子をうかがっていた。課長も姿勢よくお弁当を食べながら続けてくる。
「前に話しただろ? 飲みに行く度にあいつが、小坂さんの話をするんだって」
 課長が継いだ話題については、以前聞いていた。営業デビュー初日、大失敗をしでかした後のことだから良く覚えている。ええと、確か。
「私の勤務態度についても話をされている、ということでしたよね」
「いや、そこじゃなくて。残りの九割、むしろ五割の方」
 課長は短く嘆息する。
 五割の方と言うと、あの、著しく品性を欠く発言の方、ってことだろうか。そんなことを口にする主任はちっとも想像出来ない。品性を欠く主任と言うのがそもそも浮かんでこなかった。
「この間なんて、小坂さんについて、とても素面じゃ言えないようなことを言うんだ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるような話をな。俺だって独り身だと言うのに、長々と捕まって二言目には君の名前を聞かされた」
 それは、私もすごく恥ずかしい。主任は一体何を言ったんだろう。めまいを覚える私の隣、課長はもう一つ溜息をつく。
「つくづく幸せな男だよ。付き合う前から惚気話で盛り上がれるんだから」
 その瞬間、課長も楽しそうに、そっと笑った。
 主任が私の話を、聞いている課長が恥ずかしくなるような話をしている! さらっと言われたけどそれって結構大変な事態では。話の中身が非常に気になるような、でも午後の仕事に集中する為にも絶対聞くべきではないような、ぐらぐら揺れる心境だった。
「もっとも俺も、あいつの幸せに水を差すつもりはない。浮かれっぷりを見ているだけでも面白いからな」
 課長の目が私に留まり、私はカレーを一口、取り繕うように食べる。どう食べても美味しいものは美味しい。だけど、十月だと言うのに少し暑い。
「小坂さんも来年度まで待たせてやると言うなら、いっそあいつをどんどん振り回してやって欲しい。仕事でも、プライベートでも」
「え……」
 言われたことに私は戸惑う。振り回す、という言葉に肯定的な意味を見出せない。それだとまるで、公私どちらでも迷惑を掛けているように聞こえる。実際、今はそうでしかないのだろうけど。
 でも、安井課長は読心術みたいなタイミングで言った。
「不思議そうにしてるな。仕事にしろ恋愛にしろ、自分の意思を貫き通すなら他人を振り回す必要だってある。当たり前のことだろ?」
「そうなんでしょうか。あの、私にはまだよくわからなくて」
「直にわかるようになる。特に新人さんは、上司を振り回して突っ込んでいくような勢いと度胸が必要だ」
 諭す口調で続いた。
「その点でなら、石田はいい上司になるはずだ。君が度胸よくぶつかっていけば、あいつは成功でも失敗でもちゃんと受け止めてくれる。そこは心配しなくていい」
 私は頷き、またカレーを食べる。やっぱり暑い。
「恋人としては……まあ、振り回されてるのも楽しめるような男だから、そこも気にしなくていい」
 課長はそこで苦笑して、声のトーンを落とした。
「ただ、用心に越したことはないな。小坂さんはまだあいつの本性を知らないだろ?」
「え、ええと……本性って、主任はそういう方ではないですよ」
 個人的には、本性どころかまるで裏表のない人に見える。私はそう思うけど、課長はそうは思わないらしい。
「どうだろうな。気をつけた方がいい」
 意味ありげに釘を刺された。
「付き合う前から、とても素面じゃ言えないことをされてしまわないように」

 悟った。
 つまり、『素面では言えないようなこと』と言うのは――つまるところ、そういうこと、なのかな。いやまさか。まさかとは思うけど何かそれっぽい気がしてきた。まさかですよね主任。
 考えを追い払おうとするとかえって駄目で、この間のキスまで一緒に思い出してしまって、そういえば前回は結構際どい話題もしていたなとも思って、頭がくらくらしてきた。そうしたら安井課長には思いっきり吹き出された。
「いい反応だな、小坂さん」
 そして肩を叩かれて、
「何なら今度、三人で飲みに行こうか。石田の素顔を見せてあげるよ」
 なんて言われたから、満足に返事も出来なくなった。
 暑さに潰れそうになりつつ、カレーを食べ切るのが精一杯だった。
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