Tiny garden

プライドと自覚(1)

 あれから二週間が過ぎた。
 なのに私は、キスの記憶を追い払えていない。
 頭の片隅にしがみつくように残っていて、ふとした拍子に、しかも脈絡のないタイミングで思い出す。――夕日も消えた車の中。柔らかい唇の感触と温度。聞こえなかったはずの波の音。あの瞬間の動悸の激しさまで全て、一続きの記憶として留まっている。うっかり思い出したが最後、食事中だろうと運転中だろうと、書類と睨めっこしている最中であろうと、かっと頭のてっぺんまで熱くなってしまう。そういう時はなるべく知らないふりをしているけど、主任に見つかっていなければいい。むしろ、見つからないようにしなくてはならない。勤務中に思い出し赤面なんて不真面目過ぎる。絶対駄目。

 そう思っていても、いざとなるとあからさまに動揺してしまう。
「――お、小坂。お帰り」
 好きな人の声は、どこで聞いてもすぐにわかってしまう。
 主任に声を掛けられたのは、会社の地下地下駐車場。営業先回りを終えて社用車を降りたばかりの私は、声のした方を見やり、すぐ隣に停まっている別の社用車を認め、そこの鍵を開けようとしている主任の姿に気づく。
 地下駐車場は全体的に薄暗く、太陽光とは違う、オレンジがかった照明が点いている。そのせいか目が慣れず、主任の表情をすぐには把握出来なかった。少ししてから笑顔を向けられていると気づいて、初めてどぎまぎした。
「主任……」
 口の中でだけ呟く。
 あの日以来、二人きりになったのは久し振りだった。
 もっともここは社内だし、今は勤務中だけど。
「あっ、あの、ただ今戻りました!」
 よみがえりそうになった記憶をどうにか追いやり、大慌てで答える。主任の笑みがそこで陰る。
「お疲れ。俺はこれからだ」
「これから、お出かけになるんですか?」
「ああ。休憩中に呼び出された。ひとっ走り資料を届けてくる」
 書類ケースを掲げて示す、石田主任は物憂げだった。
「会議前だってのに仕事が増えて散々だ。何とか会議までには戻りたいんだがな」
 その言葉通り、今日は午後三時から営業会議が行われる予定だった。私もその予定を見越して、この時間までに帰社出来るようにスケジュールを組んでいた。ちなみに、車を降りる直前に確認した現時刻は一時半過ぎ、だったはず。
 なのに主任は、今から出て行かなければならないらしい。
「今からなんて大変ですね」
 心底からそう思った。
 今から出て行くなんて、近場かどうか走らないけど、会議には間に合うんだろうか。間に合ったとしても慌しくて大変だ。私なら絶対慌て過ぎた挙句ぐだぐだになってしまうと思う。もちろん主任ならそういう心配もなく、颯爽と戻ってくるんだろうけど。
 案の定、主任は落ち着き払った様子で、
「遅刻したらその時はその時だ。バケツ持って廊下に立っててやるよ」
 車のドアを開ける。
 そして乗り込もうとする直前、言われた。
「ところでお前、昼飯は? しっかり食べとかないとまた腹が鳴るぞ」
 石田主任は記憶力も抜群だ。こういう、忘れていて欲しい事柄についてもそう。最近はそんなこともないけど、営業デビュー当初はお昼ご飯を食べるタイミングさえ計れなくて、お腹をぐうぐう言わせてしまったことがあった。そして皆に笑われた。あの一件は私も忘れかけていたのに!
「あの、これから食べます」
 恥じ入りながら答えれば、
「そうだな。小坂らしくしっかり食えよ」
 何だかにやつきながら言われた。
 笑顔は素敵だから二重の意味で反応に困った。この間のキスの記憶と、少し前の人生の汚点みたいな記憶がごっちゃになって、頭の中がこんがらがる。前者は忘れたくないけど思い出したくないし、後者はむしろ営業課の全員に忘れてもらいたい。
 私の内心を知らない主任が、ひらひらと大きな手を振る。左手だった。
「じゃあ行ってくる」
「は、はい。お気をつけて!」
 直立不動で答えた私をどう見たか。その時、主任は何か言いたげな顔をした。だけど何も言わずに、ほんのちょっとだけ笑って、それから車に乗り込みドアを閉める。
 主任はお昼、食べたのかな。ふと疑問が過ぎったのは、社用車の赤いテールライトが見えなくなってからだった。

 社員食堂には午後二時少し前に駆け込んだ。メニューのほとんどは品切れだったけど、カレーライスは残っていてくれた。私はそれを購入し、端っこの方の席で食べ始める。時間が時間だけに食堂内は空いていて、厨房も私が食べ始めた直後に店じまいとなった。
 社食のカレーは給食のカレーに似ているかもしれない。もったりしていて少し甘め。ジャガイモとニンジンがごろごろしていて、お肉はあまり入っていない。でも美味しい。しかも三百五十円。肉が小さかろうとこれなら文句なし。そのカレーを普段の二倍速ペースで食べる。スーツに飛ばないようにだけ細心の注意を払いつつ。この分だと三時の会議には間に合う。
 そんなことを考えているうち、思考が石田主任のことへと行き着く。主任は会議に間に合うのかなとか、時間がなくても安全運転を心がけて欲しいなとか、本当は主任こそまだご飯を食べていなくて、今頃お腹が空いてないといいんだけどなとか、あれこれ考えてしまう。
 聞いてみればよかったかな。主任はご飯、食べたんですかって。
 もっと何か言えたらよかったな。励ましにしても、心配にしても。
 あの日以来、二人きりになる機会がなかった。顔を合わせるのはいつも職場で、仕事の後や休日には、主任からメールや電話を貰うこともあった。メールや電話ではまだ普通に接することが出来ていたけど、顔を合わせるとまずい。いろいろと思い出してはうろたえてしまう。それこそ私にとっては普通の態度だったけど――最近は、うろたえた後で妙にへこんだ。
 もう少し気の利いたことが言えたらいいのに、と思うようになっていた。
 だって約束した。三月までの間、主任のことをしっかり考えるって。主任とどういう風にお付き合いしようかとか、どうしたら主任に喜んでもらったり、幸せになってもらえるかを考えながら過ごすって約束していた。なのに私のしていることは、今までとあまり変わらない。日増しに忙しくなっていく仕事に追われて、あの日の記憶のキスだけを思い出しそうになって、慌てて追いやって、結局気の利かないことばかり口にしている。成長がないなと、自分でも思う。

 そんな風にぼんやりしていたら、急に電話が震えた。私用の携帯電話の方。
 メールが届いていた、石田主任から。
 ちょうど主任のことを考えていたところだ。ものすごいタイミングでびっくりしてしまった。そこまでばればれだったんだろうか。
『どうにか間に合いそうだから心配するな』
 出先から送られてきたメールはたった一文、そう記されていた。だけどそれだけで滅入っていた気分があっさり晴れた。めちゃくちゃ安心した。そして気遣いがうれしかった。
 主任はすごい。これだけのメールで私を喜ばせて、幸せな気持ちにしてしまった。心配とか気がかりなことを吹き飛ばしてしまった。本当に、すごいなあと思う。
 いや、感心している場合じゃない。私も見習わなくては。
 スプーンを一旦置き、私はメールの返事を打つ。伝えたいことはたくさんあった。メールを貰ってうれしかったことも、実は密かに心配していたことも、お腹が空いてないか気になっていることも皆伝えたくなってしまった。だけど主任は運転中かもしれないし、それでなくても休憩時間を押して仕事をしているのだし、長々としたメールは送れない。私も一文で済ませようと、あれこれ頭を捻った。
『よかったです、是非安全運転でお帰りください!』
 捻った末の返事を送信してから、いかにも私らしい、気の利かない文面だなと思って、やっぱり少しだけへこんだ。
 もうちょっと勉強しよう、気の利いた一言の告げ方、書き方。主任くらいに気配りが出来るようになりたい。私のメールで、主任を喜ばせたり幸せにしたり、不安を晴らしたり出来るように。

 私用の携帯電話の、受信メールを遡ってみる。
 ここ二週間はほぼ毎日のように、主任からメールを貰っていた。主に退勤後、帰宅してからのメールが多かった。内容は以前と同じで多岐にわたり、晩ご飯のメニューや見ていたテレビ番組の話題、それに職場での話が多かった。たまに霧島さんや安井課長の名前も出てきた。先週の土曜日のメールには、『安井と飲みに行くから思いっきりお前の話をしてくる』とあって、それには私も大慌ての返信を打った。止めてください恥ずかしいです主任。その日にどんなことが話されたのかはまだ聞いていない。と言うか多分聞けない。
 あの日、霧島さんたちのご結婚祝いを買いに行った日には――夜遅く、一通のメールを貰っていた。
『次はもう少し、長い時間一緒にいたい』
 たった一文で、私は大いに赤面し、自分の部屋で一人うろたえる羽目になった。うれしかったけど照れる、恥ずかしい。主任の気持ちもしっかりとわかって、だけど返信にはものすごく悩んだ。そうですね、と返したら、それだけかよとすかさず突っ込まれた。私の本音としては間違いなく『そうですね』だったんだけど、答え方一つにも気が利かないから困る。
 石田主任からのメールは、しっかりと保存フォルダに残してある。
 いつかそのうち、保存しきれなくなるだろうと思う。それでも今は、何もかも大切にしておきたかった。好きな人とこうして繋がっていられるのが幸せだった。
 私のメールも、取っておきたくなるような、大切にしてもらえるような内容に出来たらいい。
 頑張らなくちゃな、と思う。仕事も、こういう気配りだって。

 携帯電話をそっと折り畳む。
 それからスプーンを持ち直し、食事を再開する。
 甘いのが幸いしてか、カレーはみるみるうちに減っていく。いいペース。この調子なら食後にお茶を飲む余裕くらいはあるかな。そう思った時、
「――小坂さん。隣、いい?」
 声がした。
 安井課長の声だった。
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