Tiny garden

左手と右手(4)

 インテリアと生活雑貨のフロアは、不思議な匂いがしていた。
 まっさらな紙のような、木のような、新しいものの匂い。きっと家具の匂いなんだと思う。そわそわしたくなる空気。
「ここって、備品倉庫と匂いが似ていませんか」
「確かに似てる」
「そうですよね。何だかコピー用紙の補充がしたくなります」
「それはない。と言うかせっかくの休日に仕事を思い出させるな」
 鼻を鳴らした主任が、私の手をぎゅっと握る。
「小坂も大概意地悪だよな」
 主任に言われるとさすがに心外だ。意地悪なのはどっちだろう。こんなに強く手を握っておいて。
 でも私も、どんなことを話していいのかわからないというのは、ある。手を繋いだままだから迂闊なことは口に出来ない。必然的に無難な、仕事の話多めになってしまう訳で、よくないなと自分でも思う。せっかくの休日に相応しい話題を、もう少し緊張せずに切り出せたらいいんだけど。
 だから、誰かの為のお買い物というのは、ちょうどいい話題にもなると思う。特に今回はおめでたいお買い物だから、話しているだけで気分が晴れやかになる。

 インテリアや寝具のコーナーは素通りして、キッチン雑貨のコーナーへ足を向けた。
 白っぽい明かりに照らされた、ごく静かな店内。品のいいBGMと絨毯敷きの床がいかにも百貨店という感じだった。
 そしてさすが百貨店だけあって、台所用品一つとっても品揃えは充実している。私が名前も聞いたことないようなブランドの鍋が、棚にずらりと並んでいる。と言うより、鍋にもブランドがあるんだなあと今更なことを思う。
 鍋と一口で言っても、種類だってかなり豊富だ。フライパンっぽいものだけでも随分ある。それから卵焼きの鍋とか、シチュー用の鍋とか、ミルクを温める鍋とかも揃っている。どれもこれも表面はぴかぴかで、まだ焦げ目なんてついていない。
 ここに並んでいるのはお料理デビューもしていない、鍋のルーキー、なのかな。ほんの少し親近感を持ってみたりして。私はもうここまでぴかぴかではないけど、まだ油が馴染んでもいない。
「どういうのがいいんだろうな。俺にはさっぱりだ」
 顎に手を当てて主任が唸る。
 私もそこで、霧島さんのことを考えてみて――ふと思い当たった。
「そういえば、麺類が好きなんですよね、霧島さんって」
「ん? よく知ってるな、小坂」
「はい。社食でもコンビニご飯でも、麺類にしていらっしゃるのをよく見かけました」
 社員食堂でご一緒する時、霧島さんは必ずラーメンかうどんを食べている。コンビニのお弁当を買ってくる時はそれに加えて冷やし中華とか、春雨とかも選んでいるようだ。そんなにしげしげ見ていたつもりはないけど、でも目にする度に麺類だから、徹底しているんだなあと感心したくらいだ。
「あいつ、放っておけば酒飲む時でも麺類って言い出すからな」
「そうなんですか。締めのラーメン、くらいならわかりますけど……」
「いや、肴として。よっぽど好きらしいな、麺が」
「本当に徹底してるんですね」
 思わず吹き出してしまった。本当に好きなんだろうなあ、麺類が。
 だったらご結婚祝いの品も、好きなものに関連した鍋がいいんじゃないだろうか。そう思って考えてみた。
「でしたら、麺を茹でるのに適したお鍋にするのはどうでしょうか」
「それいいな。きっとあるよな、そういう鍋も」
 主任の目が鍋コーナーをぐるりと見回す。深めの鍋もたくさんあるみたいだ。目移りするくらい揃っているから、一つくらいは適した鍋もあるんじゃないだろうか。
 私も肯定的な返答を貰ったことにほっとする。更に言ってみた。
「あるいは麺を食べる用の食器でもよさそうですよね。ラーメンの丼とか、麺鉢とか」
「お、それもいいな」
 視線がすっと横に動いて、鍋コーナーより更に奥、食器コーナーへと向けられる。向こうは向こうで充実した品揃えのようだ。一糸乱れぬ陳列が離れた位置からもうかがえる。
「夫婦茶碗ならぬ夫婦丼、もしくは夫婦麺鉢か」
 主任が呟く。私も、そういうのはいいなと思う。対になった品物はいかにもご結婚祝いに相応しい。
「ロマンチックでいいですね」
「ロマンかどうかは知らんが、確実に縁起はいいだろうな」
「はいっ」
「よし。まずはざっと見てみるか」
 そう言って、主任は私の手を軽く引く。促すような引き方だった。
 言葉で示されるよりもはっきりとわかる手の感覚。それはそれで、とってもどきどきする。

 鍋コーナーを流し見してから、食器のコーナーまでやってきた。
 主任が注意を向けたのは漆器だ。つるりとした表面には照明が丸く映り込んでいて、顔を近づけたら鏡みたいに映りそうな、きれいな塗りだった。漆塗りの麺鉢をためつすがめつしては、感心したように溜息をついている。
「やっぱいいよな、漆塗り」
 その言葉には私も、心底共感した。
「はい。お料理が特別美味しく見えそうです」
「それは小坂らしい発言だ」
 私の相槌を笑ってから、主任は温かい口調で続ける。
「結婚祝いにするなら縁起もいい。陶器よりも割れにくいし、手入れさえきちんとすれば何年も使えるって言うしな」
 そういえば、割れるって結婚式では使っちゃいけない言葉だったような記憶がある。いつもお世話になっているビジネスマナーの本に、忌み言葉の一つとして書いてあった。
 私も気をつけよう。もうじき、本当の結婚式があるんだから。
「あとは需要だな。どのくらいの大きさのやつがいいのか、あとで当人たちに聞いてみるか」
 独り言のように呟いてから、主任がちらっと私を見る。
「もう少し見てもいいか?」
「も、もちろんです! いくらでもどうぞ」
 元はと言えば主任のお買い物なんだから、是非気の済むまで左見右見していただきたい。その間はずっと傍にいられるし、主任をそっと眺めてもいられるからうれしい。
「悪いな、小坂。ありがとう」
 柔らかい表情で告げられた感謝も、どきっとしたけど、うれしい。
「え……そんな、こちらこそです……」
 俯きつつ、私はこっそり呼吸を止める。主任はその間に手を繋ぎ直した。指を絡めて繋がれた。
「あ」
 吐息みたいな声が落ちる。
 手のひらで重なる体温に、心臓が溶けそうになる。奇妙な感覚だった。くすぐったいような、逃げ出したくなるような、なのに心地良くて眠たくなるような。ぼうっとしていれば、ほんの僅かな力で引き寄せられる。主任が静かに歩き出すのがわかって、私はまたついてゆく。
 顔を上げると目が合った。こちらを向いた主任が何か言いたげな顔をして、でも何も言わずにいた。私も黙りこくっていたけど、手を繋いでいる以上は全て筒抜けのはずだから、言う必要もないのかもしれない。

 熱っぽい手を引かれて、食器売り場をゆっくり歩く。
 主任は真面目な顔つきで漆器に見入っている。時々足を止めるから、私は主任にぶつからないよう、その一挙一動に見入っている。会話がなくても幸せだった。どきどきするけど、うれしかった。
 あとは、当初の目的であるお買い物のお手伝いを、もう少し出来たらいいんだけど――今のところ大したことは言えてない気がする。もうちょっと頑張ろう、かな。主任に喜んでもらえるのはいい。もっともっと喜んでもらえるように、私に出来ることがあればな、と思う。今日のお買い物でもそうだし、それ以外でもそう。
「しかし、月日の経つのは早いな」
 漆器のお膳の前に立ち、主任がふと呟いた。
「小坂が入社してから、もう半年経つんだもんな。この分だと霧島の結婚式なんてあっという間にやってくるだろうな」
 私も、その通りだなと思う。入社してからの半年はあっという間で、それなのにすごくすごくたくさんの出来事が起こった。目まぐるしい毎日はそれぞれが印象深い。上手くいったことばかりではなかったし、失敗なんてしょっちゅうしていたけど、何もかも忘れたくない思い出だった。
 半年でこうなのだから、一年が経った頃の私はどんな風になっているんだろう。思い出が増え過ぎて、頭がパンクしていたりしないだろうか。そして思い出もだけど、仕事のことも今よりは覚えていられるといいんだけどな。
「結婚式、楽しみだな」
 主任が言う。とても素直な口ぶりで。
 当然、私は頷いた。
「はい、とっても!」
 それで主任も深く笑んで、さっきと同じトーンで続ける。
「その頃までには俺たちも上手くいってるといいんだがな」
「……な、何がですか?」
 うっかりもう一回頷くところだった。不意打ちでそういうこと言うのは本当にずるいです主任。
「何がと聞くか。いい度胸だな小坂」
 右隣から鋭く睨まれて、思わずびくりとする私。喜んでもらおうと思った矢先に怒らせてしまったみたいだ。でも、とっさに返事が出来る問いでもなかった。どぎまぎしてしまう。
「忘れるなよ。今、お前の右手は俺が預かってるんだからな」
 釘を刺すような物言いは意味深長だった。再びびくりとしたくなる。
「え? それって、どういうこと……ですか」
「つまりお前の利き手は、俺の人質ならぬ手質になっているということだ!」
 言うが早いか、主任は私の手を一旦解くと、そのまま右手首を掴んだ。そして軽く持ち上げるようにして、手のひらの上を指先でこちょこちょと、くすぐり始めた。
「わあ、何するんですか主任、こんなの……く、くすぐったいです……!」
「どうだ、参ったか。止めて欲しければごめんなさいと言え!」
 私の右手をくすぐりながらやけに楽しそうな主任。何でそんなにいきいきと、悪そうな台詞を言うんだろう!
「ご、ごめんなさい!」
 とにかく激しくくすぐったかったので、私は身をよじりつつ素直に謝った。そうしたら満面の笑みで返された。
「ついでに俺のことをどう思ってるか言ってみろ!」
「ええっ!? いえ、そのっ……言えないですよ!」
 しかも何と言う水の向け方。無茶振りにも程がある。
 私の答えに主任は、ちっと舌を鳴らした。
「実力行使でも駄目か。しょうがない、だが手質はしばらく返さないぞ」
 手質って新しい言葉だ。そんな場違いなことを思っているうちに、私の手は再び繋がれた。
 くすぐったかった……。でも、めちゃくちゃ楽しそうにしている主任も、可愛くていいなと思ってしまった。もうくすぐられたくないけどそれはそれとして。
 どうにかしてそういう気持ちを、伝えられるようになりたいな。何か方法、ないのかな。
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