Tiny garden

変化球と直球(8)

 学生時代の友人にも、ちらほらと彼氏持ちの子がいた。
 そういう子がのろけ話をする時は、大抵楽しそうにしていた記憶がある。彼氏とどこへ行ったとか、何を食べたとか、そういう打ち明け話がすごく楽しそうだった。片想いばかりの私にとってはものすごく、羨ましかった。あまりにも遠い世界の話だから直視出来なかったみたいだ。すっかり忘れていた。
 恋愛って、楽しいものなんだ。多分。
 もしかしたら個人差があるのかもしれないけど、楽しい人には楽しいものなんだろう、きっと。
 身近な例で言うなら、霧島さんと長谷さんだってそうなんだと思う。お二人でいる時はとても楽しそうだし、幸せそうだった。相手を思い合う様子は、傍目にも大人っぽい恋愛と映った。あのお二人こそが楽しい恋愛の見本であって、だからこそお二人は結婚しようと思ったんだろう。周りの誰もが驚かないくらい、当たり前のことみたいに。
 翻って私は、楽しい恋愛はしたことがなかった。いつも勝手に好きになって、一人で舞い上がって、いてもたってもいられなくなった挙句に空回りして、結果ちっとも上手くいかない恋愛しかしていなかった。直情的にふるまうくせに後になってから軽率さを悔やむ、その繰り返しだった。――それはまあ、恋愛だけに限った話じゃない気もするけど……とにかく。
 いつか私も、恋愛を楽しむことが出来るようになるのかな。


 うとうとするばかりの夜を越えて、火曜日の朝が来てしまった。
 昨日と同様に、どきどきしながら出社した。三倍どころか百倍返しの目に遭って、心臓は例によってエンジンフルスロットル。頭の思考回路からは既に煙が上がっている。しかも私の記憶力と言ったらああいうことにだけは見事なまでの働きをして、あの海辺の情景ごと昨夜の出来事を延々と反芻し続けている。よって寝不足だった。
 今日も業務に当たる社会人として実にあるまじきコンディション。だけど仕事に打ち込めるならそっちの方が楽だろうなとも思う。
 さしあたっての難関は、朝の挨拶だ。

 営業課のドアを開けた。
 オフィス内には主任がいた。今朝もまた、石田主任だけだった。
 こちらへ振り向き、私の姿を見るや否や主任は笑った。とんでもない笑顔だった。何か含んでいる感じの、でも憎めない企み顔。
「おはよう、小坂」
 今日はもう見惚れる余裕すらない。正視に堪えない。他の誰にも見せたくない。
「……あのっ、おはようございます!」
 上擦る声での挨拶は、当然大いに笑われた。
「まだ動揺してんのか。もう日が替わってるのに」
 昨日のことをわざわざ思い出してしまいそうな口ぶりに、私はあたふた視線を逸らす。何も言えなくなって、逃げ込むように自分の席へと向かう。逃げると言っても、営業課内のどこにいたって、主任の目からは逃れられない訳だけど。
 そしてうっかりドアを閉め忘れた。気が付いた時には、主任が歩み寄って閉めてくれていた。
「す、すみません、ありがとうございます」
 私はすかさずお礼を述べる。主任は首を竦めてから、今度はこちらへ近づいてきた。距離が縮まるだけでびくつきたくなる。昨日よりもずっと離れているのに、数歩の距離でうろたえる。
「昨日、大丈夫だったか?」
 私の机の前まで来て、そんな風に主任が尋ねた。問いの意味を測りかねて瞬きをすれば、少し笑って言い添えてくる。
「家の前まで乗り付けたからな。親御さんに心配されなかったか?」
 それで私は昨晩の経緯を思い出す。
 家まで送ると主任が言ってくれたので、ためらいつつもご厚意に甘えた。自宅まで道案内をしながら向かっていると、もうすぐ着くという辺りで、気遣わしげな主任に尋ねられた。家の前まで行っても大丈夫なのかと。私はその問いの意味もさっぱりわからなかった。だけど大丈夫なことは間違いないので、問題ないですよと答えた。だから家の門の前まで送ってもらった。帰り際も始終うろたえっ放しだったけど、お礼はきちんと言えたと思う。
 いや、もう一回言っておこう。
「昨日は送ってくださって、ありがとうございました」
 私がお礼を申し上げると、主任は軽くかぶりを振った。
「それは当然だ。……ただ、見知らぬ男の車に娘が乗ってきたとなれば、さすがに心配されるんじゃないかと」
 あ、そういう意味での心配だったんだ。どうして家の前まで送ったらまずいのか、昨日はよくわからなかった。いろんなことがあり過ぎた後で頭が回っていなかったのかもしれない。
 今更みたいに腑に落ちて、私はおずおずと答える。
「大丈夫です。うちはそういう心配はあまりしない両親ですから」
 と言うか今までに不安がられるような事柄がなかっただけだ。私が彼氏いない歴二十三年なのは、うちの両親すら知っている事実。むしろそっちの方を心配されているなんてことも、なきにしもあらず。
「そうか、ならいい」
 主任は大分気に掛けてくれていたのか、ほっとした様子で表情を和らげた。
「実家暮らしをどう連れ回そうか、思案に暮れてたところだ。それ聞いてちょっと気が楽になった」
「……え? 連れ回す?」
「約束してただろ、今週末の買い物の件。楽しみにしてるからな」
 私の疑問はさて置かれた。にやっとする素敵な企み顔。
「昨日のこと、まさか忘れてないよな?」
 ぐっと喉が詰まってしまう。
「ええと……あの、もちろん覚えてます、けど……」
 今の石田主任の言い方で、昨日の一件は夢や思い違いではないんだなと実感した。
 私と主任はお互いに、相手のことが好きだった。そして主任は、私と付き合いたいと思っている、らしい。妄想レベルの現実。一晩経っても何だかぴんと来ない、でも本当のこと。
 楽しい恋愛を知らない、ずっと片想いばかりしてきた私は、主任の本心を聞いてもどうしていいのかわからない。三月まで待てば、主任に相応しい自分になれるんだろうか。それとも三月よりも早く、うっかり本当の気持ちを打ち明けてしまうだろうか。そもそも黙っていたままでいいんだろうか。両想いになれたのに、ただぼうっとしているだけの自分でいいんだろうか。主任の為に、今の私でも出来ることって何もないんだろうか。
 考えたってちっともわからない。
 とりあえず、今の自分がショートしかけていることだけは、わかる。
「土曜が待ち遠しいな、小坂。もうありとあらゆる角度からいろいろするからな」
 楽しげに笑いかけられると、頭が早速ぷすんといった。と言うか昨日も話題に上ったけど、いろいろって何なんだろう。純情ぶっているつもりは毛頭ないけど、意味深長で眩暈がする。
「あ、あの、仕事の前にそういう話をされても……」
 熱を持ち出す頬を隠そうと俯く。朝からこの調子じゃ、終業時刻まで身が持たない。土曜の予定を確認するにしても、せめて終業後にして欲しかった。
「俺のせいで仕事に差し支えるって?」
 すかさず主任が揶揄してくる。それは慌てて否定した。
「いえ、そういうことは決して! 最大限、差し支えないようにします」
「よしよし、それでこそ小坂だ。頑張れよ」
 満足げに頷く主任が、ぽんと私の肩を叩いた。
 大きな手だった。服越しだから、滑らかかどうかはわからなかった。温かさも昨日ほどにはわからない。
 でも十分、どきどきした。
 これが恋愛の楽しさ、なのかな。楽しいとまではいかないけど、主任に優しい言葉を掛けてもらえたりすると、うれしいし、幸せだと思う。昨日みたいなのはまだ、そう思えるだけの余裕はないけど……。
「出来ればそこで笑ってくれたら、うれしいんだがな」
 私の態度から内心まで読み取ったか、主任にはそう言われた。
 ジンクスの話を思い出すと笑わない訳にもいかない。無知な私でも、好きな人の為にそのくらいはしたい。だから出来る限りにっこりとしてみた。でもきっと、ぎこちなかったと思う。むしろ主任の方が吹き出した。
「可愛い奴だな、小坂」
 笑いながら言われた場合は、どきどきすべきか、へこむべきか、一体どっちなんだろう。
 笑われるのだって結構、うれしかったりするんだけど。

 踵を返した主任が、自分の席へ戻っていこうとした時、ちょうど入り口のドアが開いた。
「おはようございます」
 三番乗りは昨日と同じく、霧島さんだった。挨拶の後にぐるりと室内を見回し、ふと眉を顰める。どういう訳か不審げだ。
「お、おはようございます……」
 私は平静さを取り繕おうとしていたし、
「おはよう。昨日は結局何時まで居残ってた?」
 主任なんてどこからどう見ても普段通り、何の異変もないはずだった。
 だけど霧島さんは、レンズ越しに目を眇めた。しげしげと私たち二人を見比べてから、主任の方へ尋ねた。
「先輩こそ、昨日は楽しかったですか?」
 なんてことを聞いてくるんだろうと私は身を竦める。だけど主任は間髪入れず、明快に答えていた。
「決まってるだろ」
 わあ。なんて答えなんだろう。
 うれしいけど、困る。ものすごく反応に困る。
 霧島さんが軽く苦笑した。
「随分はっきり認めるんですね」
「こんなことで嘘ついたってしょうがない。俺をからかえなくて残念だったな、霧島」
「本当です。先輩に一矢報いるチャンスかと思っていたのに」
 不満そうにした後で、その霧島さんが私の方を見た。いくらか柔らかくなった表情で、でもこう言った。
「小坂さんは……昨日、何もされずに済みましたか?」
 恐ろしく直球の質問。
「あ……ええと、そのっ」
 私は答えられなかった。
 とっさに息を呑んでしまって、言葉が続かない。ただ頬は確実に赤くなっていただろうし、目は泳いでいただろうと思う。びくりと直立不動にもなってしまったから、つまるところ語るに落ちたという感じに違いなかった。
「あの、何か、すみません」
 直後、霧島さんには謝られた。深々としたお辞儀と共に。
「そんなにわかりやすい反応をされると思わなかったんで、俺もこの後どう突っ込んでいいものか……」
「わあ、こ、こちらこそすみません! 正直、どうしていいのかわからなくって!」
 私が頭を下げ返すと、今度は主任がげらげら笑い出した。
「本当に可愛い奴め!」
 元はといえば昨日のことでからかわれそうになっているのに、真っ先に当の石田主任が笑っちゃうのはどうなんだろう。こっちはもう必死なのに。これから先、誰かに突っ込まれたら隠し切れないかもって思っているくらいなのに。

 でも今の主任はものすごく、楽しそうだった。
 いっそ羨ましいくらいに笑っていた。
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