Tiny garden

変化球と直球(1)

 週が明けて、月曜日。私はどきどきしながら出社した。
 例のラブレター、もといメールのことが頭から離れない。金曜日の夜遅くに送信したそのメールを、日曜日の夜にようやく読み返した。それまではとてもじゃないけど読む気になれなかった。そして読み返してから頭を抱えた。
 あの文面はばればれなんてものじゃない。あからさまだった。
 石田主任は件のメールで動揺したと言っていた。好きな人が私の言葉で動じているなんてなかなかあることではないし、実を言うとしてやったりという気持ちにもなった。だけど月曜を迎えて、私は当の主任とどんな顔を合わせたらいいんだろうと気づいた。考えてみるとそれは大問題だった。しかも気づくのが遅過ぎた。
 メールを送った翌日の土曜、主任は電話の中でこう言った。――月曜を楽しみにしてろよ、と。本当に楽しみにしていていいのか、私にはわからない。主任は私の気持ちをご存知で、しかもその上で私をからかうようなことを言う。だから今日もからかわれるかもしれない。それ自体は嫌じゃなくてむしろ構ってもらえてうれしいくらいだけど、平然としていられるかどうか、そこだけが心配。
 三倍は動揺させられるような予感がする。
 予感と言うか確信に近い。だって出勤前から心臓がエンジンフルスロットルだもの。

 大体、営業課のドアを開けた時点でもう駄目だと思った。
 オフィス内には主任がいた。石田主任、だけだった。
 主任は鞄を机の上に載せ、書類やらノートパソコンやらを取り出しているところで、私がドアを開けた時には素早く振り向いた。そして目が合うと、すかさず笑いかけられた。
「おはよう、小坂」
 その笑顔がまたとんでもなかった。仕事中のきりりとした面差しとは違って、何か含んでいるような、ちょっと憎めない感じの笑み。いかにも人をからかおうと企んでいますという風で、でもそういう顔をしている主任も素敵だなとか思わされてしまう表情。
 私は見惚れたいのかうろたえたいのかあやふやな態度で、ひとまずぎくしゃくとお辞儀をした。
「お……おはようございますっ!」
 挨拶の声までぎこちなく、そのせいか主任はおかしそうに言ってくる。
「もう動揺してんのか。まだ何もしてないのに」
 何もしてないってそんな。
 と言うことはこれから何かなさるんでしょうか主任。私が動揺するような何かを考えていらっしゃると言うことでしょうか!
 どぎまぎしつつドアを閉め、自分の机までどうにか移動する。既にふらふらなのは、重い鞄のせいだけではなかった。その鞄を机に置き、ついでに手をつき、息もつく。
 まだあまり物のない机の上、置いた手のひらがひんやりして、心地良い。
「面白いな、小坂は」
 主任の笑い声が、主任の席の方から聞こえる。
「あれだけ気恥ずかしいメール送ってくる奴が、何もされないうちからうろたえてるってのがな。度胸があるのかないのかわからない奴だ」
 それを聞いて一層居た堪れなくなる。
 金曜のメールは確かに気恥ずかしい内容だった。実に典型的な真夜中のラブレターだった。読み返してみたら当の私ですら赤面してしまったくらいだ。
 でも、内容自体に嘘はない。送ったことを後悔している訳でもない。主任の反応を見るのが怖かった、それだけ。三倍返しってどんなことをされるんだろうと不安になっていた。
 今日の主任は寝不足な様子もないようだし、不機嫌そうにもしていない。少し安心した。
「あの、先日のメールは……」
 私は顔を上げながら口を開いた。その拍子に主任とはばっちり目が合った。いくつかの机と朝の空気越しに視線がぶつかり、余計にどぎまぎする。
「……その、何と言うか、一方的な内容になってしまってすみません」
 それで口ごもるような物言いになって、たちまち苦笑されてしまう。
「だから謝らなくていいって」
「で、でも、気恥ずかしいメールでしたから」
「迷惑だったとは誰も言ってないだろ」
 私の言葉を軽く遮り、主任は更に続ける。
「それより小坂、今日は早く帰れそうか?」
「今日ですか? ええと……」
 唐突な問いだった。とっさに頭を切り替えて、本日の予定を確認する。
 ――今日は特別遅くなる用事もなかったはず。会議はないし遠方へ営業に出る予定もない。突発的な仕事でも飛び込んでこない限りは、そう遅くならずに帰れそうな気がする。よくて七時、八時というところだけど。
 そこまで考えてから答えた。
「多分、大丈夫です。遅くても八時には上がれます」
 すると主任は満足そうに顎を引き、
「じゃあ今夜、ちょっと付き合ってくれ。お前に話したいことがある」
 やはり唐突に、真面目な口調で言った。
「話……ですか?」
「ああ。ついでに夕飯奢ってやるよ」
「え! あの、よろしいんですか? いつもご馳走になってるのに」
 毎度毎度のことだけどやっぱり気軽に奢っていただくことはできない。反射的に問い返した途端、思いっきり笑われた。
「もの食うぞって時の、お前の食いつきのよさは何だろうな」
「あ、ええと、すみませんっ」
 しまった。また食いしん坊だと思われたみたいだ。そんなんじゃないのに――ってどう見ても食いしん坊か。仕事の後はお腹が空くから、話をするにしてもご飯をいただけるならありがたい。
 もちろん、石田主任と一緒にいられることの方がうれしい。それも確かなんだけど、はっきり言えないのが辛い。
「奢ってやるってのは本当だからいいんだけどな」
 さておき、笑う主任は畳み掛けるように続けた。
「今日は車で来てるし、帰りは送ってってやる。だから付き合え」
「は、はい。構いませんですけど、お話と言うのは……」
 一体何だろう、と思う。
 誘い方が存外に真面目だった。冗談交じりではなかったし、本当に何か用事があってのことに見えた。となると、今回は仕事のお話なんだろうか。それとも金曜の、例のメールのお話なんだろうか。それとももっと別のこと?
「話ってのは、まあ、いろいろだよ」
 主任はちらとドアに目をやり、言葉は曖昧に濁した。
「一つ二つじゃないからな、終業後に時間取ろうと思った。で、問題ないのか?」
「はい、ありません。大丈夫です」
 私は頷く。特に用事がある訳でもなし、主任と少しでも一緒にいられるならうれしい。何の話をされるかにもよるんだけど。
 ご飯を食べながらする話なら、そう堅いものじゃないと思う。もちろんお弁当付きの会議なんかもある訳だから、堅くないと言い切れもしない。考えれば考えるほどわからなくて気になる。一体、どんな話なんだろう。
 ちょうどその時、ドアの外でこつこつと足音が聞こえてきた。
 営業課前の階段を上がってくる誰かの硬い足音。私はドアの方を見たけど、主任はなぜか、腕時計を見ていた。
「時間的に、あいつが来たかな」
 そう呟き、こちらに向かって小声で言い添えてくる。
「小坂、今夜の件の一つが、これからわかるぞ。俺が何について話をするのか」
「え?」
 聞き返そうとするより先に、営業課のドアが開いた。

 現れたのは、霧島さんだった。
 重そうな鞄とスーツ姿で、でもいつもぱりっとしている霧島さん。だけど一見して、今日はどこか雰囲気が違うような気がした。
 そもそもドアを開けてすぐ、妙にぎこちなく視線を巡らせた。まず主任を見て会釈をして、それから私を見て、声を上げていた。
「小坂さん……」
 ぼんやり名前を呼ばれて、怪訝に思う。夢から覚めた直後みたいな声。まさか寝惚けていらっしゃるとか……霧島さんに限ってそんなことはないはずだけど。
「おはようございます、霧島さん」
「あ、お、おはようございます」
 ついさっき入ってきた私よりも更にぎくしゃくと、霧島さんはお辞儀をした。そして後ろ手でドアを閉め、早足気味に席へと向かう。
 鞄を置いた直後、主任の方を見て、ふと言った。
「あの、先輩。小坂さんには……」
 たったそれだけの言葉で、石田主任は何もかも心得たような顔をする。
「――まだ言ってない。俺が教えたってしょうがないだろ」
「そ、そうですよね。ええと」
「とっとと話しとけよ。まともに祝ってくれそうなの、小坂くらいしかいないぞ」
 お二人のやり取りが奇妙でならない。ほぼいつも通りだけど含んだような口ぶりの主任と、全然いつも通りじゃない霧島さん。質問を挟める雰囲気でもないし、私は挨拶以来黙っていた。
 そこへ、
「あの、小坂さん」
 改まった様子の霧島さんが、そう呼びかけてきた。ご自身の机の前で直立不動の姿勢。思わず私まで姿勢を正す。
「は、はいっ。何でしょうか!」
「実はその……」
 赤くなった頬を掻く仕種の後、
「俺、近いうちに――結婚、することになりました」
 霧島さんは言った。

 瞬間、私は息を呑んだ。
 そうしようと思った訳ではなくて、いつの間にか辺りの空気を胸いっぱいに呑み込んでしまっていた。
 心臓がどきどきしていた。自分のことじゃないのに、ものすごくどきどきした。
「わあ、おめでとうございますっ!」
 息を呑んでいたせいか、次に発した言葉はやたら室内に響いてしまった。
 でもうれしかった。本当にいいことだと思った。当たり前だけど私は、どなたとですか、なんて野暮な質問はしない。もうわかっている。霧島さんが結婚するはずの相手は一人しかいない。あんなにお似合いなんだから、そのお二人が結婚されるのは本当におめでたくて、いいことだ。
「あ……ありがとうございます」
 その霧島さんは照れたような笑顔でいた。幸せそうにも見えた。私までいっしょに笑いたくなってしまう。
「それで、いつ頃ご結婚されるんですか?」
「ええとその、一月末の予定です。年が明けてからということになります」
 一月末! 冬の結婚式かあ、雪が降ったりしたらロマンチックだななんて思う。ホワイトウェディングになりそう!
「小坂さんにも参列していただけたらと思っています。直に招待状もお渡ししますから」
「うれしいです! 是非うかがいます!」
 私は力一杯答える。頭の中では早くもあれこれと想像していた。ウェディングドレスを着た長谷さんは素敵だろうなあとか、霧島さんだってタキシードがものすごく似合うだろうなとか。和装だって絶対似合う。見たい。一月が今からもうすごく楽しみ。そんなことを一気に考えた。
「俺もうれしいです。小坂さんに祝っていただけて」
 相好を崩した霧島さんに、同じくらい上機嫌の主任が言った。
「ほら、言った通りだろ。小坂ならまともに祝ってくれるって」

 その言葉の本当の意味を、私は朝のうちに知ることとなった。
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