Tiny garden

教える人と教わる人(7)

 ちり、と微かな金属の音がした。
 音のした方を見る。石田主任が、会議室の鍵を手のひらに乗せていた。大きくてがっしりした手は少し赤らんでいた。
 視線を上げれば、頬は確かに上気している。大きく息をついた後でようやく整い出した呼吸。どことなく不満げな横顔は疲れているようにも見え、私は話の切り出し方に一層迷う。
 身動ぎをするとパイプ椅子が軋んだ。気まずかった。

 結局、謝罪から始めた。
「すみません、主任」
 私が口を開けば、主任はこちらを向く。眉を顰めて問われた。
「どうして謝る?」
「だってあの、私のことを心配して、走ってきてくださったんですよね」
 心配してくださったのはうれしい。うれしいけど、今回の場合は事情が事情だ。仕事でご迷惑を掛けた日に、更に心配までお掛けしてしまった。居た堪れない。
「話を大げさにしてしまって、すみません。主任に心配していただくほどでもなかったのに」
 頭を下げると、意外にも笑われた。抑えたような短い笑い声は、それでも会議室に響いた。
「お前でもそのくらいはわかるんだな」
「え? そのくらいって……」
「俺が心配したってこと、わかってるのか。てっきりボケられるんじゃないかと思った」
 主任は軽口みたいに言った。慌てて答える。
「そ、それはもちろんです!」
 自分の声が響くと耳障りで、首を竦めたくなった。居た堪れない。私はそこまで鈍麻な人間だと思われているんだろうか。
 確かに、気の利かない人間ではある。そう思われても仕方なかった。
「心配した」
 落ち込みそうになる私に、主任は笑いながら告げてくる。
 隣り合った位置から、見上げる顔が優しい。直視出来なくなるくらいに。
「今日、お前を叱ったのは俺だからな。それでお前が落ち込んでるって聞けば、さすがに心配になる」
 その優しい表情でそんなことを言われると、むしろ恐縮してしまう。自然と背筋が伸びた。
「私は、叱られたのは当然だと思っていますから、そのことで落ち込んだりはしません。主任のせいでは決してないです!」
 かぶりを振りながら私は反論し、
「でも、後からいろいろ考えるんだよ。他にもっと言いようがあったんじゃないかとか、初日のミスを責め立てるのもどうか、とかな」
 主任はあくまでも柔らかく反駁してくる。安井課長に教わった、イメージ通りの主任がここにいる。並んで座った位置から、私を気遣ってくれている。
「お得意先に迷惑を掛けたのは事実ですから、そのことはお叱りを受けても仕方が――」
 更に言い返そうとしたら、遮られた。
「小坂がそういう奴だからだよ」
 今朝と同じように、頬っぺたをつつかれた。
 ――今回は声を上げる余裕すらなかった。全身がびくりとして硬直して、頬っぺただけが熱を持ったようになる。面積にしてほんの一平方センチメートル前後の接触は、私の身体活動のほとんどと、思考の全てを停止させる力があった。主任の人差し指はやはりとても温かく、しばらくの間、頬に熱と感触と衝撃とが残った。皮膚の感覚だけがきちんと生き続けている。こんな小さな面積だけででどぎまぎさせられている。
「お前が反省してるのはわかってたし、俺の注意も、先方に迷惑を掛けたことも、ちゃんと理解してるだろうと思った」
 呆然とする私を見据えて、主任は続けた。
「だから余計に悩んだ。お前がこれ以上ないくらいに反省して、へこんでるのに、俺が追い討ちを掛けるのも気が引けた。そうかと言って黙ってる訳にもいかないし、初日から甘やかしたら公私混同と言われそうだしな」
 それは私も思う。見過ごされたかった訳でも、甘やかされたかった訳でもない。ただ、ミスをしたくなかった。私の失敗で主任を落ち込ませたり、辛い思いをさせたりするのが嫌だった。悔やんでいるのはそれだけ。今となってはもう、落ち込んでもいない。
 言うべきことを言おう、と思った。
 なるべく笑って。なるべく明るく。
 気負いがちな心を解すべく、私は大きく息を吸い込んだ。その時、主任が付け足すように口を開いた。
「それと正直、目論見が外れたってのもある」
 つり目がちの視線が私を見下ろす。口元の笑みが少し歪んで、悔しそうになる。
「まさか安井に、美味しいところを全部持っていかれるとは思わなかった。――あいつには一応、慰めてもらってたんだろ?」
「は、はい。一応と言いますか、とても親切にしていただきました」
 その後の経緯はともかく、安井課長のお言葉はとてもためになった。私一人では気づけなかったことを教えていただいたと思う。だから正直にそう答えると、主任はたちまち顔を顰めた。
「こずるい奴だよな。自分だけ点数稼いで」
「点数……?」
「大体、俺が叱ったんだから慰めるのも俺の仕事のはずだ。どうしてあいつが口挟んでくるんだよ」
 独り言のトーンでぼやいた主任。何のことだろうと思う私に、すぐに次の話題を投げかけてきた。
「小坂も、安井の言うことなんか鵜呑みにするな」
「えっ、で、でも」
「あいつに何を言われたかが知らないがな、昔からいい加減なことばかり言う奴なんだ。話半分くらいに聞いとけ」
 いい加減、とは思わなかった。前にも同じように注意されていたけど、でもこればかりは主任の思い違いか、そうでなければきっと照れ隠しだ。
「安井課長は、すごく優しい方だと思います」
「優しい? あいつが?」
「はい。とっても」
「そりゃ小坂の買い被り過ぎだ。安井はそんな善人じゃない、油断してると取って食われるぞ」
 しかも主任は、安井課長とほとんど同じようなことを言っている。課長にも言われていた、私が主任を買い被っているって。
 現実にはどちらも買い被りなんかじゃなくて、どちらも本当に優しい方なんだろう。そうじゃなかったら、私みたいなルーキーにまで気を配ってくれるはずがない。つくづく、恵まれていると実感している。
「私は、すごく優しい方だと思いました」
 思っていた以上に明るく言えた。
「それに主任も、同じくらい優しい方だと思います」
 だけど当の主任には渋い顔をされた。溜息交じりにぼそりと、
「あいつと一緒の扱いか。そこは『主任の方がもっと優しいです』って言うべきだろ」
 でも、たとえ安井課長のいない場でも、私の口からそんなことは言えない。やっぱりこう答えるしかない。
「主任も、すごく優しいです」
「……融通の利かない奴め」
 一度こちらを睨んでから、ふっと主任が笑んだ。
 私も、笑い返すことが出来た。帰り際、営業課を出た時よりもずっと楽な気持ちでいられた。思っていることも、ちゃんとその通りに打ち明けられそうだった。
「今日は、本当にご迷惑をお掛けしました」
 席を立ち、再度頭を下げる。主任は合わせるように立ち上がり、小首を傾げてみせた。
「俺に謝ることじゃないって言っただろ」
 そう言っていただいたから、謝罪はこれでおしまいにする。
「じゃあ、約束します。同じミスはもう二度としません」
 向き合う位置からの宣言は、うれしそうな表情で受け止められた。
「よし。今の言葉、忘れるなよ」
「はい!」
 力いっぱい答えた。私もうれしかった。挽回の機会があることも、主任に、私の今の気持ちを受け止めてもらえたことも。
 そして改めて思った。主任に辛い思いをさせるのは嫌だ。同じ失敗はしないと決めても、他のことで失敗してしまうことはあるかもしれない。私の未熟さが、また主任にご迷惑やご心配を掛けてしまうこともあるかもしれない。出来ればそういうことが何もないといいけど――もしあったとしても、必要以上に落ち込んだり、くよくよしたりして、余計にご心配をお掛けしないようにしよう。
 あとは笑って挨拶をすること。これはいつでもそうしよう。失敗した日もそうじゃない日も、必要な時の笑顔だけは忘れないように。

「ところで、小坂」
 石田主任が、二人分の椅子をテーブルに収めた。ありがとうございますと述べる前に、素早く言葉を継いでくる。
「お前、あの袋の中身は見てないだろ?」
「袋ですか? ……あっ、あのポチ袋でしょうか」
「そう、あれ。見てみろ、念を押す必要もある」
 それで私は慌てて、スーツのポケットを探った。まず先に霧島さんからいただいた飴が出てきて、次に主任からいただいたポチ袋が出てきた。飴は後で食べることにして、ポチ袋を開ける。
 中に入っていたのは紙だった。予想通りの厚紙。ちらと主任を見ればにやっとされたから、私はその紙を指先で引っ張り出す。
 現れたのは名刺だ。
 ただの名刺じゃなかった。――主任の名刺だ。他でもない石田主任の名刺だった。営業課主任、石田隆宏と印字されている。社用の携帯電話番号とメールアドレスと、もちろん社名も記載されている。しかも我が社の名刺と来たら写真入りで、つまり主任の写真が、言語に絶するくらい素敵な顔写真がこの名刺には載せられている。自分の名刺は見る度に憂鬱になるけど、主任の名刺はパスケースに入れていてもいいほどの素晴らしい出来だった。
「こ、これは……いただいてもよろしいんですかっ」
 勢い込み過ぎて声が裏返った。主任はげらげら笑って、
「そのつもりでやったんだ。まあ、表はおまけみたいなもんだけどな」
「おまけ、ですか?」
「引っ繰り返せばわかる」
 おまけだなんて言うけど、こんなに豪華なおまけがあるだろうか。浮かれるあまり震える指先で名刺を引っ繰り返してみる。裏面に並んでいたのは手書きの文字だ。丁寧な主任の筆跡。書かれていたのは謎の文字列と数字列。
 メールアドレスと、携帯の電話番号。
 思わず、表面をもう一度確認した。そしてメールアドレスも電話番号も表と裏では違うことに気づく。つまり、これはつまるところ。
「受け取ったからには連絡しろよ」
 めまいを覚える意識の下、主任の笑う声がする。
「メールだけでも今日中に。帰ってから、何時でもいいからとりあえず一通送れ。お前のアドレスは今は聞かない。それやるとお前は連絡して来なさそうだからな」
「……りょ、了解です!」
 主任にメールを。
 主任の、私用の携帯電話にメールを!
 それはもう何と言うか、すごく、とてつもない事態だ。どのくらいすごいことなのか自分でも判断出来ないくらいにすごい。すごいって言葉しか出てこないくらいすごい。
 幸せ。
 でも、帰ったらきっとうろたえると思う。文面をどうしようか悩むだろうと思う。今日中にメールを、というのは実はなかなかにきつい締め切りじゃないだろうか。
「ご褒美と言ったら、さすがに調子に乗り過ぎか」
 そう言って、主任は私の肩を叩いた。
「それでも喜んでもらえてよかったよ。営業デビュー初日、お疲れ」
 名刺をいただいて、私が喜んでいるって、どうしてわかったんだろう。口に出してないのに。例によってばればれ、なのかな。
 ともかく私は、精一杯の笑顔で答えた。
「はいっ。お疲れ様です、主任!」
 笑顔で挨拶、出来た。
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