Tiny garden

教える人と教わる人(2)

 オレンジの光が灯る、薄暗い地下駐車場へ辿り着く。響く自分の足音にすらどきどきしながら、宛がわれた社用車に乗り込む。ここまでで既に疲労困憊。溜息が出た。
 途轍もなく緊張する。
 ついた息さえビブラート並みに震えてしまう。
 でも、ためらっている暇はない。胸を張って行かなくちゃ。初日からびびってたんじゃしょうがない。いざ初陣。

 シートベルトを締めようとした直後、こつこつと窓を叩かれた。
「ひいっ」
 声を上げてから外を見る。――あ、主任。運転席のすぐ横に、こちらを覗き込んでいる主任の姿があった。
 慌てて窓を開ければ、主任は屈むような姿勢で目線を合わせてくる。浮かべている苦笑いが、駐車場の薄暗さのせいか陰って見えた。
「まだ顔が硬いな。いざって時には笑えるか?」
 そう問われて、私はぎくしゃく顎を引く。
「はい」
 多分、大丈夫。頑張る。
 それからふと気になって、窓の外へと尋ねた。
「あの、主任。どうしてこちらへ……?」
 まさか、忘れ物でもしたんだろうかとひやり。だけど主任は苦笑のままで短く言った。
「見送りだ」
「え」
 どきっとする。
「様子を見に来た。だから言ってるだろ、心配してるって」
 ごく当たり前のような口調で、軽く主任が言った。
 その軽さとは対照的に、私は声も出せなくなる。
 こういう風にされると、すごく、複雑な気持ちになる。優しさをうれしく思う反面、自分の底の浅さを改めて思い知ったりする。
 ほんの数日前、飲み会の後で交わした約束が記憶の中によみがえる。あれからまだほんの少ししか経っていなくて、でも職場でお会いしても、主任があの晩の話を口にしたことはなかった。きっと私のことを思って、そういう接し方をしてくださっているんだろう。私がちゃんと仕事に集中出来るように。
 だから私も勤務中は、なるべく考えないようにと思っていた。なのにふとした時、頭の中に詰め込んだ知識を押し退けて現れてしまう。ちょうど今、主任の優しさにどぎまぎし始めているみたいに。仕事のことでいっぱいで、もう何も入らないような頭でも、主任のことは考えられてしまう。怖いくらいだった。
 動揺する私をよそに、主任はスーツの内ポケットから何かを取り出した。開いた車の窓越しに、それを手渡してくる。
「持ってけ。お守り代わりに」
「は、はい。えっと、これ……何ですか?」
 いただいたのは、いわゆるポチ袋だった。お正月にお年玉を入れるようなあの小さな袋。暗いから色合いまではよくわからないけど、ポピュラーな白い犬の絵が書いてあるのはわかった。
「中身は秘密。言っとくが現金じゃない」
 薄い紙の袋の中、引っ繰り返してみてもわからない。主任の言う通り、入っているのはお金ではないようけど――何だろう? 厚紙みたいな平たいもの。
「まだ開けるなよ。中身を見るのは今日の仕事が終わってからだ」
 主任は言って、少し楽しそうな顔をした。
「じゃないと小坂の場合、仕事が手につかなくなりそうだからな」
 仕事が手につかなくなるほどのもの……? そう言われるとかえって気になってしまう。本当に何なんだろう。
「ありがとうございます。帰りに開けてみます」
 ものすごく気になったけど、私は素直にお礼を言って、ポチ袋を鞄にしまった。それから改めてシートベルトを締める。
「気をつけてな、小坂」
 主任が数歩、後ろへ下がる。
「はい!」
 私も会釈をしてから、運転席の窓を閉めた。エンジンを掛け、呼吸を整え、ハンドルを握る。
 出発だ。
 駐車場を出る寸前、バックミラーに小さく主任の姿が映り込んだ。距離があるし、薄暗いところだから表情なんてわからない。でもじっとこちらを見てくれているのははっきりとわかった。

 ――頑張ろう。こうして見送りに来てくださった、主任のお気持ちに報いる為にも。
 絶対に失敗なんて出来ない。


 営業に出てみた、初めの日のうちにわかったことがある。
 ルーキーの特権は社外でも通用するみたいだ。
 とにかく、他社の皆さんの優しさにはびっくりしてしまった。今日が一人での営業デビュー日なんですと打ち明ければ、大変だねえと労ってくださったり、頑張れよと励ましてくださったり。行く先々で温かいお言葉を賜り、こちらが恐縮してしまったほどだ。
 昨日、眠れぬ夜に叩き込んだビジネスのマナーも大分役立ったような気がする。着席のタイミングや挨拶の順番、名刺を渡す時の姿勢や名乗り方などなど、完璧とは行かないまでもそこそこ上手く出来たように思う。もっとも、私がマナー本に忠実なふるまいをすると、それを見た他社の方には笑われてしまうことも多々あった。もしかすると何か恥ずかしいことをしていたのかもしれないけど、自分ではよくわからない。家に帰ったらもう一度、マナーについてのおさらいをしようと思う。
 もちろんご挨拶のみならず、営業の人間として業務もいくつかすることとなった。以前の契約についての確認や発注状況の問い合わせ。携帯電話を駆使して確認を取り、得意先に情報を提供する。慣れない業務でとっさに言葉が出てこなかったり、説明一つとっても結構噛み噛みだったり、未だ緊張したままの説明になってしまったり、あまりいいところがなかった。それでもどうにか納得していただけたようだ。帰り際には労いや励ましの言葉までいただいて、ご親切が申し訳ないくらいだった。
 絶対に失敗なんか出来ない。今日お会いした他社の皆さんにも、ご迷惑は掛けたくないもの。
 そんなこんなで暗中模索、無我夢中で営業先回りをこなしているうち――ふと気付けば午後一時を過ぎていた。

 緊張のせいか、空腹よりも軽い胃の痛みを先に覚えた。
 移動中の社用車内、カーオーディオ上部のデジタル時計を確かめる。一時過ぎだと気付いて驚かされた。
 お昼ご飯、どうしよう。午後も何件か回るところがあるので、外で済ませた方がいいのかもしれない。このまま帰社しても社員食堂の営業時間には間に合わないだろうし。あまり食欲はないから、軽いものだけ食べておこうかな。
 ハンドルを握る傍ら、助手席の方へふと目をやる。今は鞄だけが置かれているその席に、石田主任がいてくださったことが何度もあった。その存在がどれだけ心強かったか、今更のように思い知る。
 外回りに連れて行ってもらう際、主任はお昼ご飯を食べる時間にも気を配ってくれた。朝のうちにその日回るコースを確かめて、いつどこでご飯を食べるかをおおよそ決めておくのだそうだ。計画性も気配りも、一人前の社会人ならなくてはならないものだろう。私は今の今までお昼ご飯のことを忘れていたほどだから、時間的余裕のなさは火を見るより明らかだった。明日以降はその辺りもちゃんと考えるようにしよう。
 ああそれと、連絡もしていなかった。主任に、お昼ご飯の時にでも一度連絡をするようにと言い渡されていたはずだ。今朝は緊張ぶりをお見せして、主任にまでそわそわとご心配をお掛けしてしまった。報告も兼ねて連絡を入れておかなければ悪いと思う。

 昼食の調達と電話連絡の為、私はコンビニの駐車場に車を入れる。エンジンを切り、シートベルトを外してから、助手席の鞄に手を伸ばす。社用の携帯電話を探す。そこから石田主任へ連絡をするつもりで――。
「……あれ?」
 鞄のサイドポケットに、携帯が入っていない。
 手を突っ込んでも何も触れず、空っぽだった。
 おかしいな。携帯はいつもここに入れるようにしているのに。緊張のせいでついうっかり、いつもと違う場所にしまい込んだんだろうか。そう思って鞄を開けてみる。書類の隙間やファイルの中にざっと目を走らせる。
 だけど、ない。
 ないはずがないのに、ない。
 背筋がぞくっとして、私は大慌てで鞄の中を漁った。それでも携帯電話は、あのメタリックブルーの表面塗装は見つけられなかった。スーツのポケットも一通り手を突っ込んだ。お尻の下に敷いてやしないかと、腰を浮かせて運転席も確かめた。まさかと思いつつダッシュボードも開けてみた。最後には鞄の中身を引っ繰り返して、一つ一つ片付けながら携帯電話を捜した。
 でも、なかった。
 影も形も見当たらなかった。
「嘘」
 思わず独り言が零れる。
 電話をなくしたなんて大事だ。あの中にはお得意先の電話番号も、営業課内の社用電話の番号も一通り入っている。あれがないと仕事が出来ないし、主任と連絡の取りようもない。
 慌てた。鞄をもう一度開けて、今度はより念入りに検分した。だけど見つからない。携帯電話は出てこない。
 運転席と助手席をずらして、その下も探した。使ってもいない後部座席まで捜した。車体の下まで覗いてみたけどやはりない。狼狽しながら再び開いた運転席の足元、主任からいただいたお守り代わりのポチ袋を見つけた。それを拾ってスーツのポケットにしまい、とりあえず呼吸を整える。
 最後に電話を使ったのはどこだっただろう。――気が逸っているせいか、なかなか思い当たらない。さっきの営業先で使ったようにも思うし、その前に回ったところで使ったのが最後だったようにも思う。問い合わせてみたらご迷惑が掛かるだろうか。どうしよう。
 ――電話を掛けて、鳴らしてみるのもいいかもしれない。
 そうだ、そうしよう。その為にまず、公衆電話を探さなくては。
 運転席に座り直し、大急ぎでシートベルトを締める。そして慌しく車を発進させた。
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