Tiny garden

三年と二十三年(3)

 午後九時過ぎ、飲み会はお開きとなった。
 お会計を済ませた後、お店の外で解散。皆、口々に挨拶を交わしながら帰宅の途に着く。

「今日のことは一生忘れませんから」
 帰り際、霧島さんは主任にそう言い放った。
 ネオンの眩しい街並みの中、耳まで赤いのがはっきりわかる。それがお酒のせいじゃないことも知っている。くたびれた様子の霧島さんは、責めるような目つきで主任を見ている。
「全く、先輩のせいで酷い目に遭いました」
「お、何だ? 仕返しでもする気か」
 一方の主任はまだまだ元気そうだ。酔っているそぶりもなく、余裕の笑みを浮かべている。
「しますよ本気で。いつか俺をからかったこと、後悔させてやります」
「へえ、そりゃ楽しみだ。せいぜい頑張れよ」
「そんな風に言ってられるのも今のうちだけです」
 あまり見たことのない、霧島さんのしかめっつら。その後で眼鏡越しの視線がこちらへ動いた。お二人に挨拶をしようと待ちの姿勢でいた私に。
 私と目が合うと、ほんの少しだけ笑った。元々おっとりした人だけに、笑顔の方が素に近いように見えた。優しそうな、それでいてどこか気遣わしげでもある眼差しは、またすぐに主任へと戻る。私に挨拶をさせてくれない。
「小坂さんを送っていくんですよね、先輩」
「まあな」
 霧島さんの言葉に、主任はさも当然と言いたげに顎を引く。
 そうだったっけ。私が戸惑う間もなく、霧島さんが再びこちらを見た。今度は真顔で言われた。
「じゃあ小坂さん、気をつけてくださいね。送り狼という言葉もあります」
「えっ。あ、あの、主任はそんな人では!」
 ないですよ、という言葉までは告げられないまま、いつになく荒っぽい動作で霧島さんが踵を返す。がしがしと大股で歩き出す。
「そっちも気をつけて帰れよ」
 主任が呼びかけた声は届いたのか届かなかったのか――こちらを一度も振り返ることなく、霧島さんは夜道の向こうへ消えていった。

 居酒屋の前に残っているのは、いつの間にか、私と主任だけになっていた。
 そして疑問は、たくさん残っていた。
 私、主任に、送っていっていただくことになったんだろうか。いつの間に? もしかして、そういうつもりで残っていたと思われたんだろうか。挨拶をしようとして、タイミングを見計らってただけなんだけどな。図々しい奴と思われてないかな。と言うか結局、霧島さんに挨拶し損ねてしまった。だってあんな、衝撃的なことを言われたらさすがに二の句が継げない。びっくりした。
 微妙な沈黙がその間も続いていて、ふと、
「さてと」
 主任が、何気ない様子で口を開いた。
 思わずびくりとしてしまう。
 一度息をつき、ネクタイを締め直した後で、私の方を見やった主任。機嫌のよさそうな顔をしている。何から尋ねるべきかわからない私を見てか、ちょっと笑った。
 そして言った。
「もう一軒付き合えるか、小坂」
「え……いえ、あの、えっ?」
 耳を疑いたくなった。もう一件って、あの、それはつまり。
「デザート食べてないだろ」
 つり目がちの視線は真っ直ぐ私を捉えている。大人の余裕が感じられる表情。私なんかとは違って、ちっとも慌てた様子がない。
「いい店があるんだ、すぐ近くなんだけどな。お前さえよければ連れて行きたい」
 それで私は、飲み会の最中に言われたことの意味を、今になってようやく理解した。――それで主任は、あの居酒屋ではデザートを食べないようにと言ったんだ。言われた直後はぴんと来なかったけど、今わかった。
 でも、どうして。
「こないだ、奢ってやる約束したしな」
 主任が続ける。こないだ、が一体いつの話だったかを思い出し、私は違う意味であたふたした。
「あ、あれはお気になさらないでください! 残業をするのも当然のことですから!」
「お前こそ気にするな。とりあえず、時間大丈夫か?」
 腕時計をとんとん、と指差す主任。
 私はお店を出た直後にも見た時計をもう一度確かめる。ただ今の時刻、九時二十三分。終電までにはまだ間がある。十分にある。
「……時間は、大丈夫です」
 そう答えると、主任も小さく頷いた。
「なら後は、お前の気持ち次第だ。付き合ってくれるのか、くれないのか」
 ――迷った。
 もちろん、お付き合いしたい気持ちはある。それはもう大いにある。主任と一緒にいられる時間は多ければ多いほどうれしいし、誘っていただけただけで飛び上がりたいくらいだ。たとえそれがデートじゃなくたって、当たり前のようにうれしかった。
 でも、この間の残業の件で、というのがどうしても申し訳ない。主任はあの時のことを随分と気にしていらしたようだけど、そんな必要はちっともなかった。だって仕事のうちだもん。もし主任が、あの件について引け目があって、それで私を誘ったというなら、やっぱり悪いなと思う。そういうことはして欲しくない。それなら私は、主任にいくらご馳走をしても追いつかないくらいお世話になっている。
 答え方にしばらく、迷った。
 ずっと考え込んでいたせいか、やがて主任が微かに笑った。
「もしかして、霧島の言ったことを気にしてるのか」
「……い、いえ、そんなことは全然ないですっ!」
 それはない。全然ない。絶対ない。頬っぺたが異様に熱くなったけど、主任にばれてなければいいなと思う。そんなこと、想像だって出来ない。
 だって主任はそんな人じゃない。私は霧島さんとは違って、主任のことをほんの数ヶ月しか見ていないけど、それでもわかる。そういう悪いことをするような人じゃない。
 そうじゃなければ、好きになんてならない。
「あのっ」
 早く答えなくちゃと思ったら、急き込むような答えになった。
「割り勘でしたら、ご一緒します」
 私が自分なりに考えて、そして導き出した最良の答え。それなら、問題なくご一緒出来る。そう思った。
 途端、主任にはにやりとされてしまった。
「あいにくとそういう選択肢はないんだ。悪いな」
「でも、私――」
 反論しようとすれば、すかさず切り返されてしまう。
「前にも言っただろ。奢りだっていうのを断る方がかえって失礼な場合もあるんだよ」
 確かに言われていた。そして覚えていた。
 だけど納得するのはなかなか難しかった。ご負担をお掛けしてまで誘っていただくのは悪い気がする。だって、主任のお誕生日だって同じだったのに。すっかりご馳走になってしまっていたのに。
「出世払いでいいぞ、小坂」
 主任がそう言ってくれなかったら、まだしばらくは迷っていたかもしれない。つまらない意地を張ってしまったように思えてきたけど、ともかく、私はやっと答えた。
「じゃあ、お付き合いします」
 答えた時、心なしか主任の表情が、ほんの少しだけ解けた。居酒屋のネオンと街灯の光を浴びて、いつもよりも眩しく見える笑顔。
「時間掛かったな。待ちくたびれた」
「あ、あのすみません! お待たせしまして!」
「別にいい」
 楽しげな顔で主任が笑う。そして、
「そうと決まれば早速行くか」
 先に立って歩き出す。広い背中が目についた。
「は……はいっ」
 私はその後を、早足で追い駆け始めた。
 足元は覚束なく、アスファルトの上なのに妙にふわふわしていた。そのくせ気分がよくて、うれしくて、堪らなかった。

 九月初めの夜はまだ蒸し暑い。空気はむっとしていて、そこに繁華街独特の脂っこい匂いや、ざわざわとした賑々しさや、ネオンサインの目映さが入り混じっている。
 金曜日とあってか、繁華街の歩道は人通りが多かった。混み合う道をゆっくり進んでいく主任の斜め後ろを歩いていく。
 途中で何人もの人とすれ違った。脇目も振らず、急ぎ足で歩く人もいた。肩がぶつかりそうになって、慌てて詫びながら横に避ける。
「わあ、すみません!」
 すかさず主任がこちらを振り向く。
「大丈夫か、小坂」
「は、はい、平気です」
 言葉のやり取りそのものは短いけど、気配りは十分に伝わってきた。
 やっぱり主任は優しい人だ。それに、すごく大人だ。
「あの、誘ってくださってありがとうございます」
 真横を歩く勇気はなくて、斜め後ろから声を掛けてみる。今のうれしい気持ち、はしゃぎ出したくなる気持ちを伝えたくなった。
 ちらと目の端で私を見る主任。
「まだ礼を言うのは早いだろ。店に行ってみて、お前の口に合わなかったらどうすんだ」
「私の口は何にでも合います! ばっちりです!」
「そういう物言いは初めて聞いたな」
 げらげらと声を立てて笑われて、だけど全く悪い気がしない。それどころか、主任が面白がってくれたならいいなと思っていた。私といる時間を、ほんのちょっとでも楽しいと感じてもらえたら。
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