Tiny garden

三年と二十三年(1)

 九月に入ると、職場の慌しさも一旦は落ち着いてきた。
 気温はまだ落ち着かない時季。陽射しは相変わらずじりじり言っているし、外ではまだ蝉が鳴いている。外回りの際の車内がサウナ状態なのも相変わらず。夏が嫌いじゃなかった私も、そろそろ暑いのはいいかなあ、なんて思い始めている。夏の名残を引きずりながら、汗をかきかき仕事をしていた。
 もっとも今日みたいな日は、いっそ暑いくらいが好都合なのかもしれない。
 納涼会と呼ぶには少し遅い九月の飲み会。まだまだビールが美味しい時季だ。現金にも、そう思ってしまう。

 午後七時、会社近くにある居酒屋は混み合っていた。
 お客さんがぎっしりでざわついている店内。威勢のいい店員さんのご案内で通されたのはお座敷席だ。そこへ営業課一同がなだれ込むと、店内に負けず劣らずの賑々しさになる。
「小坂、頑張れよ」
 靴を脱いでいる途中で、主任に肩を叩かれた。何をですかと顔を上げれば、頭上でにやりとされてしまった。
「元を取れるくらい、頑張って飲み食いしろよ」
「えっと、それって」
 相変わらず、食いしん坊と思われているみたいだ。私は反論も出来ず、一足先にお座敷へと上がった主任の背中を見送る。気恥ずかしさが過ぎるよりも先に、鼻が美味しそうな匂いを捉えた。勤務の後で時間も時間だ、実際お腹はぺこぺこだった。
 居酒屋の雰囲気が好きだった。メニューは豊富で和食も洋食もジャンクフードも揃っているし、デザートだって充実している。締めのご飯ものだって迷っちゃうくらいたくさんある。お酒もいっぱい種類があるし、初めてのものを頼む時に敷居が高くないのがいい。学生時代から飲み会と言えばこういう居酒屋チェーン店だった。そして私は、飲み会が大好きだった。
 ただ、学生時代の飲み会と、会社の飲み会とは勝手が違う。
 例えば会社の場合、明確な上下関係がある。営業課長も主任もいらっしゃるし、私よりずっとキャリアの長い先輩方が大勢いる。と言うか私が一番ペーペーの新人な訳で、つまり上下関係では最下段の位置にいる。
 だから当然、座るべきは下座の席。テーブルを六つくっつけて、長方形に並べた席のうち、一番入り口に近いところに率先して座った。これはビジネスのマナーだ。
 と思ったら、すぐ隣に主任が座った。
「あ、あれ? 主任……」
 驚く私を見て、石田主任が訝しそうにしている。
「どした、小坂」
「いえ、あの……上座じゃなくてよろしいんですか?」
 思わず尋ねた。その間にも席はどんどん埋まっていって、最上座には課長が座っていた。主任の座るべき席も当然そちらのはずなのに。
「ああ、そんなの気にしなくていいって」
 主任は軽く言って、それから笑ってみせた。
「堅苦しい席じゃないんだし、好きなところに座ればいいんだよ」
「そ、そうなんですか」
 言われてもちょっと戸惑ってしまう。入社前に叩き込んできたビジネスのマナーは、なかなか使いどころが難しい。
 私が戸惑っている間に、主任はネクタイを緩め始めていた。喉元がちらと覗いて、妙にどきっとする。目を逸らしたくなる。
 わあどうしよう。何だかいけないものを目撃してしまったような罪悪感。でもどきどきする。隣に座ってもらえてよかった、と思ってしまう。これだけでもう十分元は取れたような気がする。乾杯もしていないのに何て安上がりな!
 ――私の動揺をよそに、掛けられる言葉はごく気安い。
「せっかくだから、小坂の食べっぷりも傍で見たいしな」
「……うっ」
 楽しげな声で告げられて、私の心は大いに揺れ動いた。主任の隣だなんて、うれしいけど、飲み会に集中出来るだろうか。むしろ食べるのに夢中になってしまわないだろうか。そちらの方が心配だった。また食いしん坊って思われそうな気がする。もう手遅れかもしれないけど。
 でもせっかくの飲み会だから……うん。
 やっぱりたくさん食べようっと。
「小坂さんは飲み会、歓迎会以来ですか?」
 真向かいには霧島さんが座っていて、そう尋ねられた。すかさず頷く。
「そうなんです。二回目です」
「歓迎会の時はがちがちに緊張してたよな、小坂」
 隣で主任が笑い、つられるように霧島さんもちょっと笑った。
「実に初々しかったですよね」
 あの頃のことを思い出すと恥じ入りたくなる。今ですら、赤面しそうな出来事がたくさんあるって言うのに。
「は、恥ずかしいです。あの時はもういっぱいいっぱいでした」
「今日はそんなに緊張しなくていいからな」
 主任に言葉を掛けられて、もう一度頷いた。
 前ほどには緊張していなかった。主任が隣にいるから、すごくどきどきはするけど、それはそれとして。

 入社したての頃に開いていただいた歓迎会、その席で、新人は一言挨拶をするようにと前もって言い渡されていた。私は挨拶を暗記するのに必死で、挨拶の暗誦が済んでからはいともあっさり燃え尽きてしまった。お酒もお料理も喉を通らず、なのに家に帰ってすぐ座り込んでしまったくらい、あの日は疲労困憊していた。
 ビジネスのマナーを覚えるのにも必死だった。上座とか下座についてもそうだし、新人だから皆にお酌して回らなくちゃいけないとか、新人だから足を崩しちゃいけないとか、話し掛けられたら真面目な受け答えが出来なくちゃいけないとか、そういう知識と覚悟とで頭がぱんぱんだった。
 実際は覚悟していたほどでもなくて、うちの営業課は思っていた以上に柔軟だった。私の思う限りの『真面目な受け答え』はよく笑われるし、ずっと正座をしていれば、逆に崩せと促される。ビールはジョッキで運ばれてくるからお酌の必要性もない。上座下座をそれほど厳格に捉えていないらしいことも、今日初めて知った。次からは気をつけよう。
 それでもやっぱり、学生時代の飲み会とは全然、違う。

 一番違うのは、皆で盛り上がるという意識があまりないことだ。
 学生時代の飲み会はたとえ顔見知り同士じゃなくても、同席したグループごと盛り上がっていなくてはいけない空気だった。ついていけずにぼんやりしているとたちまち突っ込まれた。だから、帰り際にふと気がつけばあんまり飲んでも食べてもいない……なんてこともしょっちゅうあった。楽しくはあったけど、飲み会の後のくたびれ方は尋常じゃなかった。
 営業課の飲み会はもうちょっとのんびりしている。同じ話題で皆が盛り上がることもあるけど、大抵は二、三人で気楽に会話をする。その会話も、飲んだり食べたりする合間に言葉を交わす程度で、あまり場を盛り上げようという雰囲気はない。学校仲間と違って、会社にはいろんな年代の人がいるからなのかなと思う。そういえば、カラオケとかゲームをしたりということもない。ひたすら自分のペースで食べたり飲んだり出来る。
「ほーら小坂、肉が来たぞ肉が」
 からっと揚がったフライドチキンが運ばれてきた時、主任が私の肩をつついた。まるで私が肉好きのような物言いだ。好きだけど。
「小坂さんはお肉が好きなんですか」
 真向かいの霧島さんにも笑顔で聞かれて、私は俯きたくなった。
「ど、どちらかと言えば好きです。でもあの、お肉ばかり食べてる訳じゃなくってですね」
「そうか。肉より骨の方が好きか。小坂だもんなあ」
 私の弁解を遮るように主任が言う。視線を真横へ移せば、何だかすごくにやにやされている。肉より骨が好きって、どういう意味だろう。
「主任、私のことをまだ犬みたいだとお思いなんですか」
 思い切って尋ねてみたら、からかう口調が返ってくる。
「自分で言うなよ。俺はただ、小坂ならいかにも骨が好きそうだなと思ったまでだからな」
「好きじゃないです、だって、食べられませんもん」
「でも放り投げて、取って来いって言われたら取って来るだろ? 上司の命令だぞ」
「……からかわないでください」
 一瞬言葉に詰まった後で、それだけをようやく答えた。
 実際そんなことをされたら、もちろん従わない訳にはいかない。でも主任はそんなことをする人じゃない。冗談で言ってるんだってちゃんとわかっている。だからこそ、反応にも困る訳だけど。
 今日の主任はちょっとはしゃいでいる。いくら大人の石田主任だって、たまにはしゃぎたくなる日くらいあるのかもしれない。アルコールが入れば尚のことそうだろう。
「先輩、酔ってます?」
 霧島さんが呆れたように指摘する。それに主任は首を竦めて、空のジョッキを掲げてみせた。
「酔ってる訳ないだろ、まだ一杯しか飲んでない」
「その割に随分と上機嫌ですね」
「そりゃまあ、久し振りの飲み会だからな」
 八月後半の繁忙期を抜けて、ようやく落ち着いてきた頃だ。主任だってはしゃぎたくもなるだろう。二人の会話を聞きながら、フライドチキンに齧りつきながら、私も思う。
 前に、飲みに行きたいって主任が言っていたのも覚えている。勤務中にぼやくくらいだから余程行きたかったに違いない。その念願がやっとのことで叶ったなら、はしゃいでしまったって仕方がない。
 私にはそういう気持ちがとてもよく理解出来る。私もよくはしゃぎたくなるから、わかるなあ、と思ってしまう。
 まだにやついている横顔を、視界の隅に確かめる。本当にとっても楽しそう。だからつい、私まで楽しくなってきた。
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