Tiny garden

苦手な人と好きな人(1)

 暑い夏はまだ続いている。
 特にお盆休み明けの忙しさと言ったらなかった。堰き止めていた水が一気に溢れ出すみたいに、次から次へとやることが転がり込んできた。じりじりした暑さの中、営業課オフィスはいつにない慌しさで支配されていた。
 当然ルーキーが懇切丁寧に仕事を教えてもらう暇なんてあるはずもない。私は、私に出来る限りの雑用へ駆り出されていた。

「あれ、小坂さん。休憩ですか?」
 遅くなってしまったお昼休みに、会社のエントランスで霧島さんと行き会った。
 霧島さんは外回りから帰ってきたばかりらしく、上着を脱いで抱えていた。カッターシャツを腕まくりしていたけど、それでも十分暑そうに見えた。今日も嫌になるほどいいお天気だった。
「はい、お弁当を買いに行くところなんです」
 私は笑顔で答える。状況を思うと、あまり笑ってもいられなかったけど――私には休憩に入るよう言っておきながら、石田主任は休憩の時間が取れないようだった。仕事をしながら食べるからとお弁当の買い出しを頼まれた。私の分を買いに行くついでだから、もちろん不満はない。
 ただ、主任や皆の忙しそうな様子を見ていると、相変わらず申し訳なくなってくる。私にももう少し、仕事が出来たらいいのにな。いつも思ってることだけど。
「そうですか。俺も帰りついでに買ってきたところです」
 霧島さんが掲げたのは、今日はお弁当袋じゃなかった。コンビニの袋だ。恐らく中身は冷やし中華。霧島さんの好きな麺類は、営業課が贔屓にしているお弁当屋さんには置いてない。社員食堂の営業時間に間に合わない日は、ほとんどコンビニでご飯を買っているらしい。
 他の人たちと同じように、少し疲れた様子の霧島さんが、気遣わしげに語を継いでくる。
「この時間、外はものすごく暑いですよ。気を付けてくださいね」
「わあ……はい。気を付けます」
 自動ドアの向こうを指し示されて、私は思わず呻いてしまう。遠くに見えるビル街がゆらゆらと揺れて映る。今日の陽射しが強過ぎるせいで溶け始めているんじゃないだろうか。そんな想像さえしたくなる。
「いってらっしゃい、小坂さん」
 疲れているみたいなのに、にっこり笑ってくれる霧島さん。私も急いで笑顔を返した。
「はいっ」
 それから踵を返そうとして、ふとすぐ傍の受付が目に留まる。
 いつもにこやかな長谷さんが、やっぱり笑顔でこちらを見ていた。視線が合うと、声を掛けてきてくれた。
「いってらっしゃい」
 きれいで、明るい笑顔だった。エントランスを通る度にお見かけして、挨拶もしてくれる笑顔。でもわざわざ声を掛けてきてくれた。うれしかった。まだお話したことはなくて、挨拶しかしたことないのに、優しいなあ。
 長谷さんは笑顔の素敵な人だ。受付にいるくらいだから、きっと一日中笑っていなくちゃいけないんだろうけど、いつ通り掛かっても笑顔でいるような気がする。すごいなと思う。
「い……行ってきます!」
 すかさず会釈をすると、私に向かって、改めて笑ってくれた。それから霧島さんと目を合わせて、二人でにこにこし始める。
 霧島さんと長谷さんは雰囲気が似てるなあ、とも思う。似てるから、恋人同士になったのかな。それとも恋人同士だと似てくるものなのかな。憧れちゃうな、そういうのって。
 そんなことを考えながら午後の炎天下を歩いたら、危うくのぼせそうになった。熱かった。お弁当屋のおばさんにも久々に心配されてしまった。

「お弁当買ってきました!」
 営業課のドアを開けて、私は声を張り上げる。
 普段なら待ち構えていて、うれしそうにお弁当を受け取ってくれる主任が、今日はちらっとこっちを見ただけだった。
「悪いな小坂、そこ置いといて」
 短く言った時には、主任の目はパソコンのディスプレイへと戻っていた。さっきから打ち込み作業に掛かり切りで、かちかち、キーボードをタイプする音が続いていた。机の上にそっと置いた焼き魚弁当には目もくれない。
「お帰りなさい、小坂さん」
 霧島さんがこっちを見て、労うように笑ってくれた。でも霧島さんも机に向かって書類を検分しているところだ。コンビニの冷やし中華は蓋が閉まったままだった。食事をしているそぶりはない。
 お盆休み明けが忙しいのは当たり前のことだと聞いていた。お盆の間は我が社はもちろん、取引先だってほとんどがお休みだからだ。その間は本当に、堰き止めているみたいに仕事が堪る。そして休み明けからは堰を切って溢れ出してくる。
 私は息を潜めて自分の席に着いた。散らかりようのないきれいな机に、向かう機会はまだ少ない。なるべく音を立てないようにしてお弁当を開けると、すぐに主任の声が聞こえてきた。
「何やってんだ、小坂。こんなとこで食べなくたって、食堂行ってもいいんだぞ」
 慌てて顔を上げれば、主任はパソコンと睨めっこをしたままだった。おずおずと返事をする。
「あの、皆さんお忙しそうなのに、私だけのうのうと休憩を取るっていうのもどうかと思いまして」
 石田主任も霧島さんもまだご飯を食べていないし、朝に出かけたまま戻ってきていない人もいる。皆が皆、忙しそうにしているその中で、私だけが新人だからという理由で休んでいるのも悪い気がした。
 だけど、主任にはあっさり笑われた。
「休憩は取れよ。労基法に引っ掛かるだろ」
「そ、そうですけど……」
 それは皆だって同じだと思う。思うけど、そんなことを口に出来る立場じゃないのもわかってる。休憩を取らせてもらえるだけありがたいと思うべきだ。わかってはいる。
「夕方は会議もありますし、休めるうちに休んでおいた方がいいですよ」
「……はい」
 霧島さんにも言われて、私はしょげながら立ち上がる。お二人の言うことが正しいっていうのもわかっていた。
 一旦は開けたお弁当の蓋も閉めた。お腹は空いていたけど、居た堪れなさの方が強い。
「じゃあ、すみません。食堂行ってきます」
 申し訳ないなと思いながら頭を下げれば、また主任に笑われた。忙しい時でも、やっぱり主任はよく笑う。と言うか、笑われてしまう。
「そんなに恐縮することか。堂々としてけよ」
「あ、はい。そうします」
「それと休憩上がったら、頼みたいことあるから」
 ――頼みたいこと。
 仕事だとわかると張り切りたくなった。即座に答えた。
「はい! 何でもします!」
「いや待て、そんな張り切ることじゃない」
 主任が吹き出した。ようやくパソコンからこっちに視線を移して、まだ笑っている。霧島さんのくすくす笑いも聞こえてきた。張り切り過ぎたんだろうか。
 でも私にも出来る仕事があるのはうれしい。こういう忙しい時、誰にも教わらずに出来ることがあるなら。
「夕方の会議に備えて、OHPを倉庫から出しといて欲しい。倉庫の鍵は後で渡すから」
「はいっ」
「ついでに点くかどうかも軽くチェックしといてくれ。あれも結構オンボロだから」
「わかりましたっ」
「だから、そんなに張り切らなくていいって!」
 そう言って主任はげらげら笑うけど、やっぱり張り切りたくなる。頑張らなくちゃって思うもの。特に主任にはご恩もある。この間だって花火を見せてもらったし――あの時も、主任には笑われてばかりいたけど。

 よく笑う人が多いな、とふと気付いた。
 社会人になってから知り合った人は、皆、笑顔の素敵な人ばかりだ。石田主任もそうだし、霧島さんも、長谷さんだってそう。お弁当屋さんのおばさんもそうだったな。
 私はちゃんと笑っているだろうか。自信はなかった。ともすればいろいろ考えて、焦って、落ち込んで、一人で慌てて、思い返してみるとちゃんと笑ってることがあまりない。こんなにもよく笑う人たちに囲まれているのに、笑っていられないのは何だか申し訳ないような気がした。
 もうちょっと、笑っていられるようになろうかな。
 誰かが笑っているのを見るのは、やっぱり気分のいいことだから。
 ――よし。そうしよう。笑顔を保とうとすることによる自らのモチベーションの維持と、落ち込んだりしょげたりする際の周囲に与える悪影響の阻止。その為にもなるべく笑っていられるようにすることは、決して無意味じゃないと思う。
 名づけて『笑顔大作戦』、スタートだ!

 すべきことが出来ると、途端に張り切りたくなってしまうのが私の癖だと思う。
 とにかく、私はお昼ご飯を手早く済ませた。お弁当を全部平らげ、ほんのちょっと化粧を直してから、主任に頼まれた仕事をこなすことにした。
「主任、倉庫へ行ってきます。鍵をお借りしてよろしいですか!」
 意気揚々と申し出た私に、石田主任は案の定笑ってみせた。
「だからお前、張り切り過ぎだって。元気な奴だな」
「はいっ。元気に頑張ります!」
 笑われても、今回ばかりはにんまり笑い返した。何にも出来ないとしょげてばかりのルーキーは卒業したかった。頑張らなくちゃ。
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