Tiny garden

主任とルーキー、大団円(7)

 ルーキーイヤーの最終日を、私は不思議な気持ちで迎えていた。
 不思議な、というよりは『意外な』といった方が近いかもしれない。三月三十一日、年度末は、思っていたほど劇的にやってこなかったし、ドラマチックな一日にもならなかった。年度末と月末らしい忙しなさで働いて、定時を四時間ほど過ぎたところで退勤した。
 明日は四月一日、新年度が始まる。朝礼で社長の訓示があることの他は、今のところ特別な行事もないらしい。新入社員が配属されてくるのは私の時と同じく五月から。営業課に新人が来るのかどうかはわからないけど、新年度を迎えてもしばらくの間は、私が一番の新参ということになるみたい。
 そして当たり前だけど、明日も勤務だ。取引先をあちこち回るスケジュールを立てている。だから社会人二年目もそれほどドラマチックな幕開けはせず、仕事に追われたり、仕事を追い駆けたりしながら過ごすんだろうなと思う。
 きっとそんなものなんだろう。人生にはたくさんの節目があるのかもしれないけど、節目の前と後には普段の生活がある。ともすれば劇的なことばかりに目が向いてしまう私は、そのくせ毎日のように何かかにかであたふたしている。これからも大して劇的ではないはずの日々に、うろたえたり、動じたり、慌てふためいたりするのかもしれない。
 だけど二年目は、せめてもうちょっと落ち着いていたいなあ。

「お疲れ、小坂」
 定時を四時間過ぎたタイムレコーダーの前で、主任が声を掛けてきた。
 私は向き直って答える。
「お疲れ様です、主任」
 そう呼ぶと、未だに主任は何だか照れたような顔をする。勤務中にそんな表情をされるとこっちまでどぎまぎしてしまう。あの話を打ち明けられてからというもの、なるべく『主任』と呼ばないようには出来ないか考えていたんだけど、当然ながら無理だった。勤務中はそう呼ぶしかない。
 だから勤務時間外こそ、そう呼ばなくても済むように努力を重ねてきた。メールで呼びかける時も主任とは書かないようにしたし、携帯電話の登録名も変更した。電話で話す時はうっかり呼んでしまうこともまだまだあったけど、なるべく固有名詞を避けるようにはしていた。少しずつ、主任と呼ばないやり方に慣れてきたみたいだ。
 もちろん、約束した通りに練習もしている。今日がそのタイムリミットだ。
「俺ももうじき上がりなんだ、たまたま、だがな」
 いつものように主任は言って、こっそりと付け足してくる。
「送ってく。いいよな?」
「はい。ありがとうございます」
 私も大きく頷いて、後からちょっと照れてみる。そもそも恋人同士でいることには慣れた気がしないんだけど――それもいつかは普通になるのかもしれない。なって欲しい。

 車高の高いSUV車からの眺めには、すっかり慣れてしまった。
 もっとも、この慣れには若干の後ろめたさがつきまとう。やっぱり家まで送ってもらうのは申し訳なくもあるし、私が車を持っていたらなと思うことだって多々ある。この間そう告げたら、じゃあお前が運転するかと言われて驚いた。主任の車の車高には慣れても、運転するとなるとこんな大きな車はさすがに……今度、練習させてもらおうかな。
 私が助手席に、主任が運転席に座り、両側のドアが閉じたところで、
「あの、隆宏さんっ」
 十八日ぶりに、ご本人の前で、声に出して名前を呼んでみた。
 以前よりはずっと自然に呼べたと思う。気負いは抜けていなかったし、何だか急き込んだような呼びかけにもなっていたけど、少なくとも声は裏返らなかった。ちゃんと私らしい声で呼べた。
 シートベルトを締めようとしていた主任の動きが止まる。静止画像みたいな止まり方をした。こっちを目だけで見て、やがてじわじわ表情を緩める。
 その顔にたしなめられた。
「お前な、まだ会社の中だぞ」
 確かに車は発進しておらず、ここはまだ我が社の地下駐車場だ。でも今は勤務時間外だからと、慌てて言い訳してみる。
「あ、その、退勤後だからいいかなって思ってしまったんです」
「いや、駄目だと言いたい訳じゃないが……相変わらず不意を打ってくるよな」
「す、すみません。びっくりしましたか」
 私が問うと、主任は黙ったまま、改めてシートベルトを締めた。それから横顔でにやっとしてみせる。
「練習したか」
「はいっ。家で、ばっちり練習しました」
「面白いよな。人の名前呼ぶのに家で練習してくるんだからな」
 喉を鳴らすように笑う主任が、次いで尋ねてくる。
「一体どんな練習をしたんだ」
「はい。まず、いただいた名刺を音読することから始めました」
「……親御さんに怪しまれなかったか」
「そこもばっちりです。家族に怪しまれないよう、ドアを閉め切った自分の部屋でぼそぼそと繰り返しました。そうしてお名前を頭に叩き込んだ後は、枕に向かって小声で呼びかける練習をしまして――」
 私の説明はげらげら笑いによって遮られた。ハンドルに突っ伏し、肩を揺らして笑う主任。しばらくは会話もままならなかった。
「お前本当に面白いな。可愛さと面白さの両方が揃ってる女なんて、そうそういないぞ」
 その言葉はずっと前にも言われていた。一挙両得だって。主任の好みは多分一般的なセンスとは違っているんだろうけど、だとしても恋人いない暦二十三年だった私にとっては、最高に素敵な誉め言葉だ。
「あ、ありがとうございます、……隆宏さん」
 もう一度呼んだら、主任はちょっと困ったように笑いながら頬を掻いた。
「これはこれで、何かこう、落ち着かない気分になるな」
「やっぱり、社外でするべきでしたか?」
「と言うより、早くたくさん呼ばれたいと思ってな」
「それでしたら今度から、頻繁に呼ぶようにします!」
「いやそうじゃなくて……ん、まあいいや」
 主任は何か言いたそうにしながらも言わなかったけど、多分、私が名前で呼ぶのをうれしいと思ってくれてるんだろう。だったら今日からはたくさん、頻繁に呼ぼう。
 という訳で、心の中でも『主任』と呼ぶのは勤務中だけにしよう。今はもう呼ばない。隆宏さんって呼ぶ。
「ところで、渡したいものがある」
 まだエンジンの掛かっていない車内。主任が――隆宏さんが、スーツの胸ポケットから何かを取り出した。握り拳の中に隠したまま、私の手のひらの中へ押し込んでくる。ひやりと冷たく、硬かった。
「ホワイトデーのお返し。失くすなよ」
 そう言われて、私は手のひらの中を見てみる。
 あったのは、鈍く光る金属製の鍵だった。キーホルダーも何も付いておらず、鍵自体が真新しい。会社で使っている鍵とは形が違うようだけど、何だろう。
「これ、何でしょうか」
 私が尋ねると、すかさず意味深長に笑んでくる。
「合鍵だ」
「へえ……どこのですか?」
「どこのってお前、俺の部屋以外のどこが考えられる」
「……え!?」
 合鍵って、つまり、そういう合鍵?
 はっとする私に、隆宏さんは呆れたように説明をくれた。
「俺だって、何にも考えてない相手にこんなもの渡したりはしないからな。どういう意味かわかるだろ?」
「え、あの、その、えっと」
「結婚を前提に考えてるってことだよ」
 言葉が思考の上をつるっと滑っていく。何かすごいことを言われているような気がするけど、すごさしかわからない。いや、すごいことだとわかっているだけでも十分だろうか。
 合鍵なんて、恋人から貰ったのは初めてだ。自宅のは持ってるけど、それとは意味合いが全然違う。
「今度から、親御さんに聞かれたらそう言え」
 隆宏さんの言葉は続く。
「もちろん『必要とあらばいつでも挨拶に来させる』ってな。いい加減な付き合いだとは思われたくない」
 うちの両親ならそうは思わないはずだ。私の恋人が『優しくて立派な主任さん』だって知っているから。家に連れてきなさいよとは言われているから、ここは私も覚悟の決め時だろうか。隆宏さんが根掘り葉掘りされてしまうのは悪い気もするし、どうしよう。
「それから、俺のいない時に部屋に来てもいい。いつでもいいから、適当に荷物を運び込んでおけ」
「に……荷物、ですか? それって」
 何のですかと尋ねようとすると、釘を刺すような答えがあった。
「あの可愛いルームウェアとかな。俺の部屋に置いとけば、いつでも泊まりに来られるだろ」
「え、そ、そんなっ」
 そういう話題を振られると、どぎまぎしてしまうから困る。泊まりに行くのがこれからは普通になるのかな。そんな自分、ちっとも想像出来ない。
「こっちは一晩くらいじゃ足りないんだよ」
 呻く言葉が耳の中で響く。
「俺もようやく半同棲のありがたみが理解出来そうだ。――そういう訳だから藍子、結婚するまでは頻繁に通えよ。合鍵渡したんだからな、有効に活用しろ」
 私も、同棲と半同棲の違いがやっと理解出来たような気がする。
 さすがに自分のこととなると冷静ではいられなかった。手の中の合鍵にまで私の体温が伝わっている。きっと平熱よりも大分高め。頭がくらくらする。
「い、いただいてもいいんですか、本当に」
 確かめてみたら、軽く睨まれた。
「馬鹿。冗談でこんなもん作ってくるか」
「そうですよね……あの、じゃあ」
 この鍵は信頼の証だ。
 私にだって、それくらいはわかる。
「ありがとうございます。大切に、します」
 感謝を告げる。告げた相手にはにやっとされる。
「大切にするだけじゃなくて、ちゃんと使え」
「も、もちろんわかってます!」
「何なら休みごとに来てもいい。逆にあんまり来なかったら拗ねてやるからそこは肝に銘じておけ。金曜の夜にお前を攫って帰るくらいのことはするぞ、俺も」
 この人は優しいのか可愛いのか強引なのか、わからないなと今更思う。どれにしても好きには違いない。
 ただ一つ、私が身に染みて実感しているのは。
「何か質問その他、言いたいことはあるか」
 そう問われたから、恐る恐る言ってみた。
「私、隆宏さんには一生敵わない気がします」
 少なくとも追いつけはしない。七歳の差は大き過ぎて、引きずられていくのがせいぜいだ。
 だけど、隆宏さんは言う。
「俺に始終不意打ち食らわせてるお前が言うな」
 傍目には余裕ありげに映る面持ちがそんな言葉を口にするから、私はふと、三十歳から見た二十三歳ってどういう印象なのかな、と考えたくなる。案外、七歳の差の大きさを、同じように実感しているのかもしれない。
 愉快に思えてちょっと笑ったら、隆宏さんもちょっとだけ、何だか悔しそうに笑った。
 それから、改めての挨拶をする。
「今年度は大変お世話になりました」
「こちらこそ。お蔭で三十になってから、全くもって退屈してない」
「その……来年度も、これからも、よろしくお願いします!」
「ああ。よろしくな、藍子」
 向けられた笑顔はとびきり素敵だ。胸がどきどきする。

 そういう訳で、私のルーキーイヤーはどきどきしたまま、あたふたと終わってしまった。
 これからもこんな風に落ち着きなく過ぎていくんだろうけど、二年目も――明日からも、頑張ろうと思う。公私どちらも。石田主任の前でも、隆宏さんの前でもだ。
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