Tiny garden

主任とルーキー、大団円(6)

「頼みがある」
 私の目を短い間だけ見て、正面を向く。横顔が照れ笑いを堪えるように映る。
「この間も言ったが、『主任』って呼ぶの、止めにしないか」
 それ自体は確かにこの間も――先月にも言われていて、だけど私はどうしても、好きな人のことをずっと口にしてきた呼び方でしか呼べなかった。その時は主任も、今日のところはと看過していてくれたはずだった。
 先月の出来事は思い出すと気恥ずかしさが込み上げてくる。でも同時に、そうすべきなんだろうともわかっている。私が俯くと、頼み事をする声も追ってきた。
「しょうもない話なんだがな」
 と前置きして、
「勤務中に呼ばれると、駄目だ。どうしても思い出す」
 今度は困ったように言われた。
「他の奴に呼ばれてもそうだから、お前に呼ばれた時なんて、一気に仕事が手につかなくなる。かと言って勤務中はそう呼んでもらうしかないしな」
 仕事が手につかなくなる主任の姿はそれこそ想像つかない。私は更に驚いたけど、やがて気付いた。
 もしかして、安井課長の言っていた『元気のなさ』の理由は、このことなんだろうか。
「だからせめてプライベートでは、違う呼び方をして欲しい」
 主任の頼みに、私は様々な意味で困惑していた。急に言われてもなかなか難しいことだと思うし、私の呼び方のせいで主任のお仕事にまで影響が出るのなら申し訳なくも思うし、そんなに影響が出るほどなんて意外にも思う。もし、私のせいで主任が、元気をなくしていたのだとしたら。そしてそれを私がずっと知らずにいたのだとしたら。
「あの……私、ご迷惑を掛けてましたか」
 恐る恐る尋ねた。
 ゆっくり歩く春の夜道、霞んだ月明かりの中で、主任の表情は苦笑に変わる。
「迷惑ってほどじゃない」
 ポケットから慎重に抜き出した右手で髪をかき上げ、それからぼそりと付け足された。
「ただ、お前があんなに呼ぶからだ」
「え……」
 あんなに、と言われて更に困惑した。だって私は他の呼び方をしたことがない。私が『主任』と呼ぶだけで、ずっと迷惑を掛け続けていたなら、それは随分前からということになるのだろうし、そんなに長い間となればさすがに責任を感じずにもいられない。
「や、やっぱり私のせいですよね。私が主任に酷くご迷惑を――」
「何か誤解してないか」
 狼狽する私を遮って、大きく溜息をつく主任。
「俺の言ってる意味、ちゃんとわかってるか?」
 多分わかってないだろうなと言いたげな口調だった。
 実際、私も自信がなかった。恥じ入りつつも問い返す。
「ええと、わかっていないような気がします。一体どういう意味ですか」
 たちまち主任の横顔が居心地の悪そうな、いろんなものをまとめて噛み潰したような面差しに変わって、早口気味に言われた。
「思い出すってのはな、先月の十三日のこと。お前に『主任』って呼ばれるだけであれこれ甦って駄目になる。だからせめて勤務時間外は他の呼び方をしてくれ。じゃないとずっと、仕事が手につかない」
 先に足を止めたのがどちらだったかは判然としない瞬間。
 ぼんやりした頭には、水銀灯の唸る、ぶうんという音が聞こえた。
 気付いた。
「――や、やだ、変なこと言わないでくださいっ」
「変なことじゃない、事実だ。こっちは本気で差し支えてんだよ」
「そんなこと、きゅ、急に言われると困ります!」
「だから言ったろ、素面じゃ無理だって。俺だって自分がここまで重症とは思わなかった。もう大変なんだからな、瞼の裏っ側にお前の顔がちらちらしてて」
 苦しそうに肩を落とす主任。その様子は本当に、元気のないように見えた。言われた内容は何と言うか、反応に困ってしまうものだったけど、私のせいであることには変わりない。
 私、そんなに呼んでたかなあ。思い返すことすら、出来ない。
「じゃ、じゃあ、安井課長のおっしゃってたのって……」
「多分そういうことだろうな。誰かに呼ばれる度に、お前のことを思い出して、他まで構ってられなかった」
 意味を把握したら恥ずかしさで溶けそうだった。困った。アルコールの回った頭がぐるぐるする。
 でも主任だって困っているには違いない。わざわざ私に頼み込んでくるくらいだ、相当差し支えているんだろう。好きな人の頼みだ、絶対に何とかしなければならない。
 頬が熱い。立ち止まり、向き合って、手を繋いだまま、お互いに真っ赤な顔をしている。
「どうお呼びしたらいいでしょうか、その……」
 ここまで言われると、最早『主任』とは呼べない。かと言って他の呼び方がするりと出てくる状態でもないから、私は尋ねようとした。
「何て呼びたい?」
 そこへすかさず尋ね返されたので、考える。年上の方だから呼び捨ては絶対駄目、だとするとさん付けになるんだろうか。
「ええと、い、石田さん……とか」
 答えたら、ものすごく嫌そうな顔をされてしまった。
「そんな他人行儀な呼び方、へこむから止めてくれ」
「いけませんか」
「駄目。却下だ」
 となると残る選択肢は、一つくらいしか浮かんでこない。
「お名前で呼んだ方がいい、ってことですよね」
「そうだな」
 今度の質問にははにかまれた。
「そっちの方が恋人らしい感じがする」
 うれしそうな言葉だった。
 私だって、好きな人の望むことは叶えたいと思うし、幸せにしたいとも思う。恋人のフルネームを知っている。だから後は、呼ぶ為に必要なものは何かを真剣に考えるべきだ。先月だって思った、この人の為なら何でも乗り越えられるって。
 だから、
「あのっ」
「どうした、藍子」
「ええと……」
 目が合ったら心臓がひとりでに跳ねた。続けようとした声は喉元で止まる。こういう時の記憶中枢はやけに脆くて、頭に浮かんでいた固有名詞はあっさり雲散霧消する。以前にいただいた名刺の文面を思い出し、掴まえて再び引き戻すのに数秒掛かった。
「あの……」
 固有名詞が浮かんでいても、言葉が続かない。
 立ち止まったまま、逃げ出したくて、項垂れたくなる。
「その……」
 ためらってばかりの私の右手を、大きな手がぎゅっと握ってくる。それでまた心臓が跳ねた。
 だけどこの手の為にも、握ってくれた今の気持ちの為にも、一番大好きな人の為にも、乗り越えなくちゃと思った。強く思って、私は次の瞬間、力一杯息を吸い込んだ。
 言った。
「た、隆宏さんっ」
 酷い声になった。引っ繰り返って、甲高くて、そのくせ震えた不格好な声。さっきの深呼吸で間違ってヘリウムガスでも吸い込んじゃったのかもしれない。そのくらい無様な呼び方になった。
 ちらと主任を見たら、目が合った瞬間に吹き出された。
「わあ、笑わないでくださいっ」
「いや悪い、可愛いなと思ってな。本当だって、馬鹿にして笑ってる訳じゃないぞ」
 そう言いながらげらげら笑っている。
 でも私も、主任になら笑われるのは嫌じゃなかった。今の不格好さは自分でもわかっていたから、もうちょっと頑張ろうかな、とも思えてくる。
「私、家でも練習してきますから」
「は? 家でって、何をだ」
「主任のお名前を呼ぶことです」
 笑うのを止めた主任が、今度は口をぽかんと開ける。その表情に向かって私はしかと頷く。
「淀みなく、自然に、ちゃんと呼べるように練習してきます。それまでは不格好な呼び方かもしれませんけど……」
「練習ってお前な。そこまで大した話じゃないだろ」
「大した話です。主任が私のこと、『藍子』って呼んでくれたみたいに、私も自然に呼べるようになりたいです」
 私だってどうせなら、好きな人の名前を呼ぶ絶好の機会を狙いたい。そういう時に噛んだり、声が上擦ったり、呼び間違えたりするのは嫌だ。ちゃんと呼べるようになっていたいから、練習してこようと思った。
「主任だって私の呼び方、私のいないところで練習してくださってたんですよね」
「いや、あれは練習って訳じゃないんだが……似たようなもんか」
「だから私も頑張ります」
 私が頼み込むと、やや戸惑ったような顔をされてしまう。考えるような間があり、少ししてからその顔が苦笑いに変わって、言われた。
「いつまで待てばいい?」
「え、ええと、じゃあ、年度末までには!」
 今年度中に決着をつけるべきだと思う。だけど恋人がいることさえ初めてで、その人を名前で呼ぶのも初めてだから、やっぱりちょっとだけ用意が必要だ。だから決めた、ルーキーとして最後の日を、タイムリミットにしようと。
「結構掛かるな」
「す、すみません。でもその日までには、完璧に呼べるようになってきます」
「わかった。――だったら俺も、ホワイトデーのお返しは三十一日にする」
 上着のポケットに右手を突っ込んだ主任が、目の端でちらと私を見る。ポケットの中には何かを、大切そうに隠し持っているようだった。私が気付いた時、そっと言い添えられた。
「お前の頭の中、既に一杯みたいだからな。今は渡さない方が良さそうだ」
 でも私は、その事実だけでも更に一杯になってしまった。びっくりした。
「お返し……用意してくださったんですか?」
「ああ」
「そんな、だって、営業課でも皆さんからいただいてました」
「俺は個人的にも貰ってただろ? そっちのお返しだよ」
 まさか個人的にいただけるとは思っていなかった。私のあげたものは例のチョコレートリキュールだけなのに。さすがに恐縮したくなる。
「あ、あの、ありがとうございます。すみません、お気を遣わせてしまったみたいで」
「別に遣ってない。それに渡すのは今日じゃないからな、礼はその時でいい」
 主任は笑う。
「俺を待たせるからには、しっかり練習してこいよ」
「はい。もちろんです」
 頑張る。絶対に。
 繋いだ手が軽く引かれて、またゆっくりと歩き出した。
 さっきよりも距離が近い。時々、肩がぶつかった。その度に謝っていたら、いいからと笑われてしまった。
「どうせ、今日も帰る気なんだろ?」
「えっ、それもその、もちろんですけど」
「泊まってけって言っても聞かないだろうな」
「わあ、む、無理ですよ! だって私、何にも用意してきてないです!」
 化粧品も着替えもあの可愛いルームウェアだって持ってきていないのに、泊まりになんていけない。そう思って答えたら、主任は案の定というそぶりで頷いた。
「わかってる。用意が必要だよな、何事も」
 春の月光を浴びた表情は、当たり前だけど大人っぽくて、余裕ありげだった。
 三十歳って数字は、今でもすごく、偉大に思える。

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