Tiny garden

八年目と一年目(5)

 犬って、初めて言われた。
 と言うか、二十三年の人生の中で動物に例えられた記憶があまりなかった。強いて挙げるならお母さんに『食べてすぐ横になると牛になるよ』とか言われたくらい。それだって別に、私が牛のようだと言いたかった訳じゃないだろうし。
 でも主任にはそう言われた。わざわざ動物に例えられてしまった。食べ終えたお弁当の蓋を閉じた後、目の端で私を見ながら続ける。
「言われたことないか? 犬っぽいって」
「ないです。そんなに似てますか?」
「似てる。小坂もよく肉を食べてるしな」
 しみじみと顎を引く主任。手の中の唐揚げ弁当が途端に恨めしくなる。のり弁当にしておけばよかった。
「前から思ってたんだよな。小坂は犬に似てるって。道端で会ってちょっと構ってやったら、尻尾を振りながらじゃれついてきて、結局家までついてくるような犬」
 しかも野良だ。野良犬に例えられてる。
 さっき女の子扱いされたばかりだったのに。
「主任は、犬を飼っていらっしゃるんですか?」
 打ちひしがれたい気持ちで聞き返したら、石田主任はすぐに否定してきた。
「いいや。飼ってないし飼ったこともない」
「あ、そうなんですか……」
「でも、お前見てると、犬を飼いたがる奴の気持ちもわかる気がする」
 花火が上がる。目映い光を背にした主任は、ことのほか楽しそうな顔をしていた。普段は鋭い目が、今はくるくると踊っているように見えた。
 見つめられると緊張してくる。――そりゃあ犬扱いされてるだけだけど。別にいい雰囲気とかそういうことではないし、むしろ面白がられてからかわれているだけなんだけど、無闇に動悸が速くなる。
 さっきまで真剣な考え事をしていたはずの頭は、たちまち違うことでいっぱいになる。一つのことにしか集中できないからだ。主任って、近くで見てもやっぱり素敵だなあと思っている。三十歳、大人の男の人。
 なのにその顔が口にするのは、まるで冗談みたいな言葉ばかりだ。
「今の顔、『待て』をしてるように見える」
 ぎくりとした。
 確かに待ってはいた。主任は次に何を言うんだろうなと思っていた。犬扱いは不本意なくせに、何を言われるかをじっと待っていた。反面、花火が上がるのはもう待っていなかった。
「そ、そうでしょうか」
 私は逃げるように目を伏せる。そして考える。
 待てをしている顔と言うと、舌を出してはっははっは言っている姿しか思い浮かばない。そんな間の抜けた顔はしていないはず。多分。
 慌てて、別の表情を作ろうと試みる。真面目な顔でいたら犬っぽく見えないかな、そう思って唇を結んだら、たちまち主任が吹き出した。
「可愛いな、お前」
 笑いながら、その上ものすごいことを言われた。すぐ後に花火が上がったせいで、辺りの空気ごと何もかもが震えた。
 可愛いって言われた。
 他でもない、石田主任に。
「あ、あの……」
 聞き返そうとしたのか、そんなことないですよと言おうとしたのか、自分でもよくわからなかった。よくわからない声が出た。それすら直後の花火の音に全て掻き消されてしまった。
 ぱらぱらと光の散る音が続いた。私はそれが全部止んでしまうまで、待っていなくてはならなかった。その間ずっと、主任に愉快そうに見つめられていた。
 主任に、可愛いって言われた。
 でも、犬っぽいとも言われた。
 それはつまり犬みたいだから可愛いという形容になる訳で、当然喜んでいいものじゃないだろう。少なくとも異性として可愛いと言ってくれた訳ではないのだし。むしろ七歳の年の差を強烈に意識したくなるような言葉だった。主任から見れば、私はまだ『可愛い』存在なんだ。つまり、あくまで部下、それもルーキーの扱いなんだ。
 犬っぽいって言うのももしかすると、犬ぐらいの仕事しか出来ないって意味なのかもしれない。お弁当の買い出しとか備品の補充、賢い犬なら出来そうだもの。だけど車の運転は出来る。そこは犬よりすごいはず。あ、でも、犬ぞりとかあるからスピードはどっこいどっこいかな。……どうしよう。本当に私、犬っぽい。て言うか犬以下かもしれない。
 落ち込みたくなったけど、ちょうど花火の音が止んでくれたから、私は気持ちを奮い立たせて告げた。
「で、でも私っ、せめて犬以上には仕事が出来るようになりたいですっ!」
「は?」
 主任が釣り上がった目を、最大限丸くしてみせた。だから私は、言いにくいことを自分で口にしなければならなくなった。
「だってその、そういう意味なんですよね? 犬程度の働きしかまだ出来ていないっていう……」
「誰がそんなこと言った?」
「違うんですか?」
「違うだろ。可愛いって言ってるんだぞ」
 なぜか、主任と話が噛み合わない。恐る恐る問い返す。
「ですからそれは、犬のように可愛い、ということなんですよね?」
「ああ」
「だから私はてっきり、犬並みの仕事しかしないと思われているのかと……」
 そこまで言うと、主任が目を瞬かせた。そして次の瞬間、大声を上げて笑い出した。
「何だそれ! どこをどう捻ったらそういう解釈になるんだよ!」
「何だって言われましても」
 どうして笑われるんだろう。今度は私のほうが目を瞬かせる番だった。おかしな解釈してたんだろうか。でも、犬っぽいって言われたからにはてっきりそういう意味だと思ってた。違ったんだ。
「どこがどう、おかしかったんでしょうか?」
 ベンチの上、お腹を抱えて笑い続ける主任に、私は呟くように尋ねた。主任が笑い止むまでは答えが聞けないんだろうなと思いつつ、その間もずっと花火を見る気にはなれない。
 主任の笑顔も素敵だ。
 笑っている理由が私の至らなさでなければ、もっとよかったんだけど。
「教えてやらない」
 ひとしきり笑い転げた後で、主任はきっぱりと言ってきた。
「えっ、そんな」
 戸惑う私をよそに、意味ありげな視線が夜空に向かって投げられる。黒とも青ともつかない空に、花火はぱらぱら上がり続けている。
「詳しく説明したら、小坂は仕事が手につかなくなりそうだからな」
「主任っ、あの、訳がわかりません!」
「残業終わって、家に帰ってからじっくり考えろ」
 にやっとした主任が、私の肩を叩く。大きな手が触れてきたのは一瞬、だけど動悸の激しさはしばらく続いた。主任の言う通り、今は仕事のことだけ考えた方がいいのかもしれない。
「とりあえず今は仕事優先だ。待っててやるから弁当片せよ」
 そう言われて、私は唐揚げ弁当がまだ途中だったことをようやく、思い出せた。

 花火見物の時間は、あっという間に過ぎてしまった。
 大会そのものはまだ続いていたけど、私たちには仕事がある。屋上のドアに鍵を掛け、二人でエレベーターが来るのを待つ。空っぽになったお弁当容器を提げて、お祭りの後みたいな雰囲気を味わう。
「結局、あんまり花火見てなかっただろ」
 主任にそう突っ込まれて、私は内心どきっとした。実際、主任の顔ばかり見ていたような気がする。気がすると言うより、間違いなくそうだ。
「来年は連れてこれるかどうかわからないのに、もったいない奴だな」
「すみません……」
「別にいいけどな、他のことでも気晴らしになったって言うなら」
 屋上の鍵を揺らす音がして、私は主任の表情を盗み見る。
 以前、主任は私のことを『ばればれ』だと言った。霧島さんにも似たような意味合いのことを言われた過去がある。だとすると、花火見物という名の主任観察もやっぱり、ばればれだったりするんだろうか。
 気晴らしにはなった。むしろ目の保養になった。でも、どうお礼を言っていいのかわからない。だってばればれだって言うなら、ものすごく、言いにくい。
「小坂は本当にぶきっちょだよな」
 ふと、そんな言葉を投げかけられた。
「あの、そうみたいです」
 私が素直に認めると、ちょうどエレベーターのドアが開いた。主任はボタンを押しながら、私に乗るよう促す。二人、小さな箱の中に閉じ込められる。
 エレベーターはゆっくりと下降を始めた。そのタイミングで告げられた。
「教えてやろうか、両立のやり方」
 パネルの前に立った主任が、振り向く。鋭い視線に射抜かれて、私は答えに窮してしまう。
「えっと、な、何の両立、でしょうか」
 やっとの思いで尋ねた瞬間、肩越しの表情に含むような笑みが浮かんだ。
「自分で言ってただろ、この間。両立してもらわなきゃ困るんだよ」

 がくんと揺れて、眩暈がしたのかと思った。
 エレベーターのドアが開いて、眩暈じゃなかったことに気付く。だけど降りて、営業課のオフィスまで歩いていく足取りが覚束なかった。床が何だかふわふわしている。スポンジで出来てるみたいに。
「しっかりしろよ、小坂。まだまだこれからだぞ」
 主任の笑い声を背中で聞く。今夜の残業はまだまだこれから、そのことはちゃんとわかっているけど。
 仕事が手につかなくなりそうだから、それこそ、家に帰ってからじっくり考えればよかった。うっかり考えてしまったものだから、熱も汗もしばらく引かないままだった。営業課の皆には何だかにやにやされてしまって、どうしていいのかわからない。

 もしかすると皆には、私が振ってる尻尾が見えているんだろうか。
 今年の八月が妙に暑いのも、私が犬っぽいから、なんだろうか。
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