Tiny garden

ジンクスとチョコレート(10)

 うろたえながらもアイスを食べ終え、空の小鉢をテーブルの上に置いた、直後のことだった。
 再び背後から抱きすくめられた。
「ひゃ……っ」
 思わず声を上げたけど、それだけでもなかった。他の反応を取る前にあっさりと抱え上げられ、視界が勝手に動いていく。ソファーが離れる。リビングを離れてしまう。リビングにあるキッチンではない方の戸口、ずっとドアが閉じたままのそちらへ、足早に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
「もう十分過ぎるくらい待った」
 私の言葉にそう応じると、主任は私を抱えたまま、肘と肩でドアを開ける。
 その向こうにあるのはひんやりした空気の、明かりが消えた部屋。さっきまで明るい場所にいたので目が慣れない。どこに何があるかわからない。青みがかった薄闇の中、主任は部屋の一番奥、ブラインドの下りた窓の傍で足を止め、ゆっくりと私を下ろした。
 背中が柔らかく着地する。それでもぎしっと、微かな軋みを立てた。
 そして主任の顔が私の視界を遮った時、もう一度ベッドが軋んだ。
 唇が塞がれる。アイスのせいか少し冷たい。反射的に目を閉じたけど、背筋が震えていた。やっぱり怖くなった。
「――藍子」
 僅かにだけ離れた唇が、私の名前を呼ぶ。
 つまり、今が、主任の思う『絶好の機会』なんだろうか。
 初めて呼んでもらったにもかかわらず、私は声すら出せなかった。開けっ放しのドアからリビングの明かりが差し込んできて、かろうじて主任の表情が見て取れる。思いのほか笑んでいる。うれしそうに。
「藍子。……ようやく、呼べた」
 ようやくという割にはごく自然な、慣れているみたいな呼び方に聞こえた。私に覆い被さる格好で、ベッドに肘をついている。指先で私の髪を梳きながら、黙っている私に対して、改めて笑む。
「誰から聞いた?」
 向けられた問いもとっさに意味を測りかねた。
「誰か、ばらしてたんだろ? 俺がお前のこと、陰では名前で呼んでたって。誰から聞いてた?」
 意味を掴んだ時はさすがに声も出た。
「え、どうして……」
「そりゃわかるよ。お前、ちっとも驚いてないもんな」
 主任は喉を鳴らして笑い、更に続けた。
「俺だってばれないとは思ってなかった。聞いてるのも無口じゃない連中ばかりだしな。ただ、ありのままを話されてたら困るとこもある、だから聞いてる」
 吐息が唇に落ちてくる。くすぐったかった。
「教えたのは霧島か? それとも安井か? 霧島ならまだいいが、人事課長殿ならいろいろと厄介だ。――他にも俺について、聞いてることがあるだろうから」
 残念ながらと言うべきか、そのどちらでもなかった。その話を教えてくれたのはゆきのさんだ。だけど当のゆきのさんからは秘密にしてと言われていたから、答えられない。
「誰から聞いた?」
 繰り返し、主任は尋ねてくる。髪を梳いていた指先が耳に触れる。くすぐったい。
「何か、他に聞かされたか? 例えば、お前の口からじゃ言いにくいこととか」
 尋ねるトーンは落ち着いていたけど、表情にはどことはなしの焦りもうかがえた。もしこの件を霧島さんや安井課長から聞かされていたら、他にどんな打ち明け話がくっついてきたんだろう。気になりつつも、主任を安心させてあげたいのもあって、言葉を選びながら答えた。
「誰から聞いたのかは言えません。約束、しましたから」
「俺にもか」
「……はい」
 おずおず頷いたら不満そうにされてしまった。でもしょうがない。内緒って言われたもの。
 代わりに付け加えておく。
「でも、他に聞いたのは別におかしな話でも、悪い話でもなかったです。主任が私のことを幸せそうに語っている、っていう話だけです。それを見ていたらその人も、幸せな気持ちになってくるんだって」
 そう聞いた時、私まで幸せになった。主任がどのくらい私を好きでいてくれているのか、怖さもあったけど、知っておかなくちゃいけないと思った。だから今日は、前に進まなくちゃと思って、
「そこまで言ったら、誰から聞いたのかばればれだ」
「え!? う、嘘、冗談ですよね?」
 苦笑した主任の言葉に私が声を上げれば、返ってきたのは宥めるような物言い。
「嘘でも冗談でもない。……でもまあ、俺も知らないふりをしといてやるよ。そこまでわかれば十分だ」
 しっとりした指先が私の耳をなぞる。身を竦めたくなる。
「くすぐったい、です」
 逃げるつもりで頭を動かしたら、頬擦りするみたいに追ってきた。
「くすぐったい? 違うだろ」
 面白がるように言われたことが、なぜだか怖くなってくる。脅かされた訳でもないのにぞくぞくしてくる。本当に、違うのかもしれない、そう思えてくる。
 薄々感づいていたことではあったけど、怖いのは主任ではなかった。優しくて、格好よくて、だけど次の瞬間には何をしてくるかまるで読めない人のことを、私は怖いと思っていない。
 知らないことが怖いのだと思う。
 私は、私の内に潜む、好きな人に対する感情の全てをまだ知らない。そこには考えたこともないような想いが隠れていて、私を怖いくらいに驚かせるのだと思う。
 差し込んでくる明かりは動かない。ただひたすらに見覚えのないこの部屋と、怖くない大好きな人を照らしている。それから私の気持ちも、意外なほどくっきり映し出している。
「あの……」
 私は震えながらも口を開く。
「本当は、その、笑っていられたらよかったんでしょうけど、無理みたいです。ご、ごめんなさい……」
 お互いのジンクスは知っていた。せっかく主任が笑ってくれているのに、そういう風に表情を動かせなかった。ともすれば唇まで震えてくるのをどうにか、堪えているので精一杯だ。
 その唇に軽くキスをしてから、主任は言う。
「気にするな。明日、ちゃんと笑ってくれてたらいい」
 明日まではあと何時間あるんだろう、もうわからなくなってしまった。いつ明日が来てもいいように、笑おうとする意思は持ち続けていたいと思う。
「そ、それと、あの」
 伝えたいことが胸の奥で溢れ返っている。順番に告げようと思っても、たちまち次の心配事に飲み込まれてしまう。なかなか形になってくれない。
「私、このルームウェア、今日の為に買ってきたんです」
 子どもじみた報告になったけど、主任は笑わなかった。むしろ満足げに顎を引いてくれた。
「良く似合ってる」
「あ……ありがとう、ございます」
「少し、もったいないくらいだ」
 名残惜しそうに言われた意味は、おぼろげにだけどわかった。
 伝えたいことは次から次へと浮かんでくる。これは言っておかなくてはと思うことも。切り出すのは恥ずかしくも、怖くもあったけど。
「お、お気付きかもしれないですけど私、その、あんまりスタイルのいい方では、ないです」
 ずっと私を見てきてくれた人に言うのも今更かもしれない。見ればわかる、と思ったんだろうか。今度はさすがに笑われた。
「馬鹿。そんなことまで気に病むなよ」
「気に病んじゃいます、だって」
「俺はお前なら何でもいい。せいぜい揉めるだけあればいい」
 ものすごく明け透けな、だけど非常に主任らしい言い方をされた。
 それだけ、果たしてあっただろうか。虚を突かれた私がつい真剣に考えていると、吹き出しながら確認してきた。
「他に、言っておきたいことはあるか、藍子」
 多分、たくさんあるはずだった。でも全てを考えて口にしていたらそれこそ明日になってしまうような気がする。ぐずぐずしていたら前に進めない。これで最後にするつもりで言う。
「ええと、私――主任のことを、主任って呼んだままでも、いいですか?」
 鼻先がくっつきそうなほどの眼前、私の恋人になってくれた人が、幾分か残念そうな顔をした。
「せっかくだから名前で呼べよ」
「む、無理です、全然無理ですっ」
 もちろん私は、私の上司でもある人のフルネームを知っている。言えないのはそこに使うべき勇気を、もう他で使い果たしているからだ。それに今日は、ずっと好きだった人を、ずっと口にしてきた呼び方で呼んでいたい。
「それに私、主任って呼ぶの、好きです」
 不器用な言葉も、その人にはどうにか伝わった。笑ってもらった。
「わかった。今日のところはその呼ばれ方、堪能しとくか」
 すぐ後にされたキスはもう冷たくも、軽くもなかった。
 怖かったけど、知らなかった感情を見せ付けられるのがすごく、すごく怖かったけど、縋らせてくれる人がいたから――逃げずにはいられた、と思う。


 格好いい人は、どんな風体でいたって格好いい。
 私はその事実を、迎えた『明日』でも改めて実感していた。
 目が覚めたらすぐ眼前に広い背中があった。肩甲骨の浮き出た背中を見つけた途端、寝起きの頭もしゃっきりしてしまう。ベッドの上に腰掛けた主任は、こちらに背を向けたまま、ペットボトルのお茶を喉を鳴らして飲んでいた。私よりもずっと先に起きていたんだろうか、動作は機敏で、寝惚けている様子もまるでなかった。
 ブラインドの隙間から、白っぽい光がすり抜けてくる時分。その光を受けた背中を、私はしばらく黙って見つめていた。喉を潤した後で大きく息をつく姿も、それから微かにだけ笑い声を立てて、照れたように肩を揺らした姿もずっと見ていた。そうしたら今更みたいに泣きたくなってきた。
 好きなんだなあ。
 今までも散々実感してきたくせに、何回思えば気が済むんだろう。でも思う。むちゃくちゃに好き。この人の為なら、いつか何でも乗り越えていけるんじゃないかって思うくらいに。
 と、主任が振り向いた。
 目が合いそうになって、私はとっさに布団の中へ隠れようとした。だけど見つかってしまったのか、腕を伸ばして布団を掴まれた。顔を覗き込もうとしてくる。
「こら、隠れるな」
「す、すみません。でもあの、何だかすっごく恥ずかしくって……!」
 何でも乗り越えられそうだと思った傍からこうだ。込み上げてきた気恥ずかしさに、顔を寄せられても目が合わせられない。ものすごく、気まずかった。
「『明日』には、笑ってくれるんじゃなかったのか」
 主任に言われて、その気まずい記憶も気恥ずかしい記憶もいっぺんに甦ってしまう。それらをまるごと乗り越えるのには時間にして一分近く掛かったけど、好きな人の為にと思ったら、どうにか辿り着けた。
「あ、あの……おはようございます、主任」
「おはよう、藍子」
 お互いに照れながらも、笑顔でバレンタインデーの朝を迎えていた。
 ジンクスで言うなら、すごくいい日の始まり方。
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