Tiny garden

ジンクスとチョコレート(9)

 格好いい人はどんな風体でいても格好いいものだ。
 言ってしまえば当たり前のことだけど、私はそれを湯上がり姿の石田主任によって実感していた。
 主任はパジャマを着ないらしい。私と同じ理由で気を遣おうとした訳ではなく、普段から着ていないのだそうだ。上は長袖のTシャツ、下はジャージという実にラフないでたちでリビングへと戻ってきた。
 問題なのは服装よりも髪型だ。洗った後の髪は水分を含んでつややかに見えた。勤務中に前髪を上げている時とは違う、しっとり落ち着いた印象。その髪が頬に張り付いているのを見たらどきっとした。それでいて、大きな手とバスタオルがわっしわっしと髪を拭いているのを見た時も、どきっとした。好きな人のことだから何でも格好よく見えるというのも当たり前なのかもしれない。でもとにかく、心臓がテレビよりも騒々しい。私も頭にバスタオルを被って、髪を拭いているふりをしつつ、隙間から覗くように見ていた。
 微かに、同じ匂いがした。
 シャンプーもボディソープも同じものを使ったからだ。
「チャンネル、好きに替えてよかったのに」
 ふと、主任が言う。
 どうやらテレビを見ていなかったことを悟られたらしい。ばればれだろうと自分でも思う。
「お、お構いなく」
 床に座ったままで私は答える。どうせどの番組を点けたって頭には入ってこなかった。もう既に一杯だから。
 少し考えるような間があって、それから尋ねられた。
「消してもいいか?」
 あまりよくない気もしたけど、頷くしかない。見ていないのに点けているなんてもったいないもの。
「……はい」
 答えてすぐ、テレビはぱちんと消えてしまった。
 二人きりのリビングは暖房の音だけになる。静かになる。どきどきしている私の傍には主任が自然に腰を下ろし、心臓の音が聞こえはしないか不安にもなる。
「そんなに緊張するなよ」
 主任がタオル越しに私の肩を叩く。
「無理です」
 ぼそっと私が答えれば、その顔には苦笑が浮かんだ。ほんのちょっと気遣わしげな。
「髪、ちゃんと乾かしたか」
「……はい」
「じゃあ、タオルももういいな?」
 よくなかったけど、頷くしかない。私がぎくしゃく顎を引けば、主任は私の頭からバスタオルを払い除け、そのまま自分のと一緒に持っていってしまった。
 開けた視界の中、主任の部屋を眺めている。見慣れたメタルラックと消されたばかりのテレビ。少し視線を転じれば、キッチンやバスルームに通じる戸口があり、やがてそこから主任が戻ってきた。タオルの代わりにチョコレートリキュールの瓶と、ガラスの小鉢を二つ、手にしている。
「悪い、小坂。これテーブルの上に置いてくれ。アイス持ってくから」
「は、はいっ」
 慌てて立ち上がり、主任の手から瓶と小鉢とを受け取る。私がそれらをテーブルの上に置いた時、キッチンからは冷凍庫の開く独特の音がしていた。
「きっと美味いぞ、奮発したからな」
 何やら得意そうに、五百ミリアイスを持ってくる主任。格好いい人は、奮発したアイスにうきうきしている顔だってもちろん格好いい。おかしいのはその顔に、アイスよりもずっとときめいてしまう私自身だ。
 おかしな私をよそに、主任によって着々と支度がされていく。ガラスの小鉢に銀色のスプーンがバニラアイスを盛り付ける。さすが奮発しただけあって、バニラビーンズが点々としていて香り高い。更にそこへ、栓を空けたばかりのリキュールが掛けられると、辺りには二月らしい甘い香りが漂う。
「ほら、美味そうだ」
 早速、小鉢の一つを手渡された。私は頭を下げる。
「ありがとうございます」
 お礼を言うのさえぎこちない。そんな自分が、だんだんともどかしくなってくる。

 主任に促され、ソファーの上に並んで座った。肩が触れ合うほどの距離には意識せざるを得なかったものの、離れて座る必要性も感じなかった。
 チョコレートリキュールを掛けたアイスは確かに美味しかった。甘い香りの中、アルコールは緩やかに回り始める。いっそ酔っ払ってしまった方が気楽かなと思うけど、主任には一度、電話越しながら醜態をお見せしたことがあるので、酔い過ぎないようにはしたい。
 ただ、こういう時こそアルコールの力に縋りたいとも思う。素面のままでは言えないことを、ちゃんと伝えられる夜であって欲しい。
 今はまだ緊張している。時計を見れば、午後八時をとうに過ぎていた。冬の夜は長いはずだから、焦らず、気を落ち着けたい。
 私の緊張を斟酌してか、主任はアイスを食べながら話しかけてくれた。
「小坂は夜更かし平気な方なんだろ?」
「あ、はい。それなりに……」
「なら、映画でも観るか? お前の好みに合うかどうかはわからんが、いくつかあるぞ」
 それはとっても素敵な提案だと思ったけど、今日の私は面白い映画にさえ集中出来るかどうか怪しい。隣にいる人に集中するので脳内CPUが百パーセントに達している現状だ。まだ湿っぽい髪を無造作にかき上げている主任は、筆舌に尽くしがたいほど格好いい。
「あ、あの、お気遣いなく」
 錆びついた声で答えれば、主任はかえって気遣わしげに眉根を寄せる。しばらく思案を巡らせるようにしてから、不意に、
「しりとりでもするか」
「しりとり?」
 今度は予想外の提案がされた。びっくりする私の右隣、やたら自信に溢れた笑みを浮かべている主任。
「言っとくが俺は強いぞ。負けるのが嫌なら止めとけよ」
「えっ! そんな、嫌ではないですけど……」
 しりとりに強いとか弱いとかあるのかなあ。やっぱり言葉をたくさん知っているかどうかが鍵? だとすると七歳の差は何がしかの有利不利をもたらすんだろうか。
「やるなら全力で掛かってこい、小坂」
 何の勝負をするのか忘れそうになるほど真剣な声で告げられ、私もいくらか興味が湧いた。主任の強さを見てみたくて、とっさに頭を下げた。
「あの、よろしくお願いしますっ」
「よし。お前からでいいぞ」
 アイスを食べながらの勝負が始まる。先手を譲っていただいた私は、最初の言葉を切り出してみる。
「では、しりとりの『り』から、リス」
「鈴」
「ず、図画工作」
「葛」
「ず、ず……頭痛」
「渦」
「また『ず』ですか? ええと、じゃあ……ズッキーニ」
「ニーズ」
「――ちょっと待ってください主任、さっきから『ず』ばっかり回してませんか?」
 気付いた私が突っ込むと、にやにやしながら切り返された。
「これが俺のプレイスタイルだ。相手を一文字攻めで追い込んで、勝つ」
 プレイスタイルってそんな、たかがしりとりなのに。
 でもそう言われるとしりとりって高度な言葉遊びなのかなと思う。戦術があるくらいだから頭だって使うだろうし、頭のいい人が勝つものなんだろう。
 ただ、それにしたって、
「ずるいです、主任」
「ずるい、か。じゃあ、伊豆」
「しりとりじゃなくってです! ず、ず……もうっ、ずの付く言葉なんてそうそう思いつかないですよ!」
 考えてはみたものの既に弾切れの感がある私。こういう時に限って思い浮かぶのは図鑑とか、杜撰とか、ズボンとか、『ん』で終わる言葉ばかりだったりする。焦っちゃ駄目だと言い聞かせつつもちっとも頭が回らない。チョコレートリキュール掛けアイスのせいかもしれない。
「降参するか、小坂」
 うれしそうな顔で問われると、それは嫌だと思ってしまう。たかがしりとりなのに。負けるのは嫌じゃないって初めは思っていたくせに、ここで諦める気にはなれなかった。高度な言葉遊びにだってついていけるような大人になりたい。二十三だから、三十歳の人には敵わないなんてことないはず。負けたくなかった。
 考えた。全力で。
 そして天啓のようにひらめいた。
「ず、ズック! ズックって単語ありますよね?」
 私が声を上げると、主任にはちょっと苦笑された。
「お前、随分古めかしい言葉を持ち出してきたな。うちの親が良く言うよ、それ」
「うちも、祖母は未だに言うんです」
「……まあいいや」
 なぜだか複雑そうにされてしまったけど、さておき『ず』で始まる言葉が見つかった! 飛び上がりたくなるほどうれしかった。
 なのに次の瞬間、
「黒酢」
 主任はたった一言で、私の喜びを地の底へと叩きつけた。
 勝者と敗者が決まった瞬間でもあった。
「――参りました」
 項垂れる私の肩を、大きな手がぽんと宥めてくる。
「そうしょげるな。お前はよく戦ったよ、頑張った」
「でも、でも私……何だかすごく悔しいんです」
 たかがしりとり、されどしりとり。勝負事には変わりなく、敗北には一抹の寂寥感が付きまとう。
 もうちょっと善戦したかった、そう思う私に主任は言う。
「なかなか見込みのある戦いぶりだったぞ。もう少し粘られたらこっちの方が弾切れだった。次はお前の勝ちかもな」
「主任……! そんな、もったいないお言葉ですっ」
 気分がぱっと晴れていく。
 現金なもので、主任に認めてもらえただけでもうれしくなった。今日は負けてしまったけど、次こそは必ず勝とう。いつか主任の『ず』攻めプレイスタイルにも打ち勝ってやろう。胸の奥で固く誓った。
「やっと、笑ってくれたな」
 心底安堵したような口調で、主任が言った。
 目が合う。ガラスの小鉢を持った主任は、表情もやはりほっとしているみたいに見えた。
「今日はもう、笑ってもらえないんじゃないかと思ってた」
 そう言われて、私もさっきまでの緊張を思い出す。しりとりに夢中になるあまり、すっかり忘れてしまっていた。しりとりってすごい、さすがは高度な言葉遊び。
 いや、しりとりはもう済んだことだから置いておこう。
「お前が笑わないうちはどうしようもないからな」
 唇が動く。
 声の柔らかさとは裏腹に、向けられている眼差しは鋭い。たちまち捕らわれてしまう。身動ぎもせず、私は耳だけを傾ける。
「だがこれで、心置きなく手を出せる」
 そして聞き取った言葉に耳を疑う。
 びくりとしたタイミングで、更に言われた。
「アイス、溶けてるぞ。早く食っとけ」
「わ、わあ」
 小鉢の中身がいつの間にか液状化している。気付いて私は間の抜けた声を上げたけど、だからと言って迅速に片付けることは出来なかった。
 私の方こそ溶けかかっていた。
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