Tiny garden

ジンクスとチョコレート(8)

 主任が出してきたホットプレートは確かに年季が入っていた。だけど油の染み込んだ感じが、かえって美味しそうにも、頼もしげにも見えるから不思議だ。
 それをリビングのテーブルに置くと、二人で挟むように向き合って座る。鉄板に油を引き、豚肉を敷き、肉がいい感じにかりかりしてきたところへ生地を流し込んで焼いていく。キャベツの他はネギとこんにゃくが覗いていて、次第にいい匂いが漂ってくる。
 焼き慣れているのか、主任はとても手際が良かった。焼き色の付くタイミングを計るのも上手ければ、生地を裏返すのだってすごく上手だった。右に割り箸、左にフライ返しでひょいときれいに引っ繰り返す。その鮮やかさに驚いていると、笑いながらやってみるかと尋ねられ、まごまごしているうちに挑戦することとなった。
 私もお好み焼きが初めてという訳ではないけど、割り箸で引っ繰り返すのは難しかった。まだ液状の表面を崩さないようにと思っても、裏に割り箸を差し込んだ拍子、ぐずぐずと端から裂けてしまう。
「わ、わ」
「慌てるな、ちょっとくらい崩れてもいいから」
 あたふたする私に優しい声が掛かる。
 それで意を決して、えいやと踏み切ってみる。片側の緩い生地を乾坤一擲、フライ返しでどうにか支え、多少形を崩しながらも無事に裏返すことが出来た。
「お前も上手いじゃないか」
「そ、それほどでも……やはりこれは、主任のご助言のお蔭です!」
「俺だって大したこと言ってないだろ」
 何が面白かったのか、肩を揺らして笑う主任。私もほっとしながら笑っておく。
「あとは、美味しく仕上げられたらいいんですけど」
「お好み焼きなんてそうそう不味く出来るもんじゃない。心配するな」
 石田主任は優しい。そんなことはもうずっと前から、好きになり始めた頃からわかっていた。ルーキーが相手だろうと分け隔てなく優しくて、誰かの為に動ける、頑張れる人だった。
 そういう人を時々怖いと思う私は、ちょっとおかしいと思う。一緒にいるだけで楽しくて、幸せになれる人なのに、時々怯えたくなる気持ちは場違い過ぎる。ずっと楽しいまま、幸せなままで接していられたらいいのに。
 もう少し、今みたいに笑っていられたらいいのに。
「飯時になると目の輝きが違うよな」
 主任も笑っている。と言うか、にやにやしている。テーブルとホットプレートの煙越しに私の目を見つめてくる。輝かせているつもりはなかったので、控えめにだけ反論しておく。
「ご飯の時だけではないつもりなんですけど」
「そうか?」
 短く問い返されると、そうでもないのかなと自分でも思えてくる。でもそれにしたって、主任は健啖家な私をことさら強調し過ぎてはいないだろうか。
「先日、安井課長からもうかがいました。主任が私のことを、食べさせ甲斐があると表現していたって」
 おずおず切り出せば、何やら不満そうな顔をした主任が応じる。
「あいつ、どうしてまたそんな話を」
「どうしてって思うのは、その、失礼ながらむしろ私の方です。そんな話、どうして安井課長にまでするんですか?」
 言われた時は困ってしまった。食い意地が貼ってないなんて主張するつもりも今更ないけど、その一面ばかり強調されて広まってしまうのはいくら私でも恥ずかしい。
「自慢したいから」
 きっぱり、主任はそう答えた。
 数秒呆気に取られてしまった。
「じ、自慢になってないですよっ。私がいかに食いしん坊かなんて!」
「なるよ。俺にはこんな可愛い彼女がいるんだって言い触らしたいんだよ」
 実に幸せそうな顔をされる。言っていることには異論が山ほどあったけど。
「お前の一挙一動が可愛くて可愛くてしょうがない。俺一人で抱え込んでるとどんどん膨らんでって破裂しそうだから、あいつらにも聞かせてやってる」
「破裂……ですか?」
「ああ。いつもいつも、どっかにぶつけなきゃ気が済まないくらいだ。あいつらも適当に聞き流すことに掛けちゃ上手いもんだからな、お蔭で堂々と惚気られてるよ」
 今日までずっと、主任はどうして私の恥ずかしい話を安井課長たちに打ち明けちゃうのかなって不思議だったけど、ようやくわかった。つまりあれだ。王様の耳はロバの耳。
 ついこの間も、ゆきのさんからいくつか聞いていたっけ。
「そういう訳だからどんどん食え。俺はそんなお前の一挙一動を眺めて、またあいつらに惚気てやるから」
「わあ、止めてください! そんなに見ないでください!」
 動機がわかったとしても恥ずかしいのには変わりない。焼き上がったお好み焼きを皿に盛ってもらったものの、視線を感じていては食べにくい。じゅうじゅう音のする焼きたてを前に、私はためらい、主任はにやにやしている。
「食べないのか、小坂」
「……恥ずかしいんです」
「何だよ、照れることないだろ? しかし、そうやってもじもじしてる姿もこれはこれでいいもんだな。可愛くて」
 でれでれの口調で言われてしまうと、反論も異論も唱えにくい。可愛いと思われることが嫌な訳でもないから。……主任の言う私の可愛さってイコール食欲なんだろうなと、再認識もしたけど。
 ともあれ、せっかく一緒の晩ご飯だ。私の食欲よりもお好み焼きそのものを堪能してもらいたい。なのでそっと提案してみた。
「私は、主任と一緒に食べるご飯がいいです。きっと美味しいですから」
「確かにな。お前と二人で食べるものが不味いはずもない」
 了解も得たので、そこからしばらく歓談と食事の一時を過ごした。お好み焼きは熱かったけどすごく美味しくて、二人でぺろりとたいらげてしまった。足りなかったので一旦キッチンへ引き返し、またキャベツを切ったり生地を作ったりもした。恥ずかしさは食欲によって淘汰され、気が付けば随分いっぱい食べてしまった。私の心はいろいろと単純な仕組みだと思う。

 食後の片付けを済ませてからはお風呂を沸かしてもらって、順番に入ることにした。
 この順番でまたちょっと揉めた。
「小坂、先に入っていいぞ」
 主任に勧められた私はとんでもないとかぶりを振る。
「いえ! 主任より先に入るだなんて出来ません!」
「客は一番風呂に入るもんだろ」
「そ、そうかもしれませんけど、年功序列で考えるならやはり……」
「つべこべ言ってると無理矢理一緒に入るぞ。いいのか」
 そんな風に脅かされてはつべこべ言い続ける訳にもいかない。私は唯々諾々と意見を翻して一番風呂の権利を賜った。そして初めて、バスルームに立ち入った。
 きれいに掃除をしたというだけあって、バスルームは本当にぴかぴかしていた。オレンジがかった照明の下では白い壁も浴槽もお湯も柔らかく、温かく感じられた。入浴剤は冬らしい柚子の香りで、お湯に浸かると自然に溜息が出た。
 シャンプーやボディソープは一種類しかないそうで、それでもいいなら自由に使えと言い渡されていた。私としてはお借り出来るだけで大変ありがたかったのだけど、それ以前に一種類しかないシャンプーやボディソープというのはつまり、主任が普段使っているものだという事実に気付いて、じゃあこれを私が使うと主任と同じ匂いがするのかななんて考えたらもうどぎまぎしてきてあっという間に駄目になった。早速うっかりのぼせかけた。
 初めて泊まった日にお風呂でのぼせて倒れたりしたら恥ずかしいどころの騒ぎではない。私はカラスもかくやという速度で入浴を済ませ、この日の為に購入したルームウェアに身を固めて足早にリビングへ舞い戻った。
 リビングでテレビを見ていた主任には、さすがに怪訝そうにされた。
「思ったより速いな。のんびりしてきても良かったのに」
「その、倒れたらいけないと思いまして」
 正直に答えたら笑われた。
「何で倒れるんだよ」
 理由は言えない。のぼせるから。
 それから主任は立ち上がって、高速湯上がり姿の私をしげしげと眺めた。フリースのルームウェアは上着の丈が長くて、視線を向けられた際にも安心感がある。ただそれでも仕事用でもデート用でもない服装を見られるのは初めてだったから、緊張した。まして化粧も落としてきているし、髪も乾かしてないし、観賞に堪えうる自分になっている自信は全くもってない。
「その服、いいな」
 肩に落ちていた、湿り気を含んだ髪を払うようにして告げられた。
「いつもそんなに可愛いの着て寝てるのか」
「いいえ、普通のパジャマだと失礼に当たりますから、思い切って買ってきました」
「今日の為に、か?」
 尋ねてくる主任は心なしか満足げだ。頷く私の濡れた髪に触れ、隠そうとしている頬っぺたまで覗こうとする。視線を感じたらそれだけで眩暈がした。
 今日の為に用意をしてきたことが、他の何よりも気恥ずかしく思える。すごく張り切っているって思われてそう。事実、その通りなんだけど。
「少しだけ待ってろ」
 吐息が熱く、頬に触れる。
「その間にちゃんと、髪を乾かしておくようにな」
 ただのありがたいご助言が、今は判決を言い渡されたみたいに響く。本当に大したことは言われていないのに、頭の中がぐらぐらしている。
「俺が上がったらアイス食べるぞ。楽しみにしてろよ」
 私の内心に気付いているのかいないのか、主任はそんな言葉を残してバスルームへと消えた。いつもならアイスに心弾ませているはずなのに、弾むどころか弾け飛びそうだった。
 リビングのメタルラックの中、テレビが点いたままになっている。時刻は夜の七時半過ぎ、土曜の夜のバラエティ番組が騒々しい声を立てている。耳には届くのに頭の中まで入ってこない。そのくせ扉を二枚隔てた向こうの、雨にも似た水音だけはいやにはっきり聞こえてくる。
 私は床に座り込み、バスタオルで髪を拭いた。急き立てられるようにひたすら拭いていた。
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