Tiny garden

ジンクスとチョコレート(7)

 お邪魔するのはまだ三度目の、主任の部屋に入れてもらった。
 玄関で靴を脱いでいる時から少しどきどきしていたけど、室内に踏み入って、背後でドアが閉まった時は一層どきどきした。直後、後ろから抱き締められると息が出来なくなった。
 背中が温かい。回された腕も温かい。寄せられた頬だけが冷たく感じたけど、それは私の頬が熱いせいだ。
「あ……」
 こんなに早く抱き締められるとは思っていなかった。びっくりした。
 ――だけど、早くはないタイミングで抱き締められることは予期していた。今日は特別な日になるのかもしれない、そう思っていた。苦しい呼吸の下、意外なくらいに冷静でいる自分自身にも驚いている。
 大丈夫、怖くない。
 目の前にはまだ三度目なのに、大分見慣れてきた秘密基地みたいなリビングが広がっている。心臓が速くなる。
「今日はお前を帰さずに済む」
 頬擦りをしながら主任が言う。ほんのちょっと、ざらついている。
「待ち遠しかったぞ、この日が」
 言葉通りのうれしそうな声。喜んでもらえたなら私だってうれしい。デートの後、帰り際の寂しさは以前にも感じていたことだ。あれが今日のうちにはないというだけでも確かに、幸せな気分になる。
 この間、思った。離れがたいって。一緒の部屋に帰れたらいいのにって。
 今日はそんな風には思わない。だって離れずに済むんだし、帰る必要もないんだから。好きな人とずっと一緒にいられるんだから。
「私も、うれしいです」
 正直に答えて笑んでみたものの、あまり上手くは笑えていないらしい。顔を覗き込まれた途端、苦笑いされてしまった。
「本当か? 頬っぺた引き攣ってるじゃないか」
「そ、それはそのっ、いつものことですから!」
「まあな。……それにしたって、もう慣れてもいい頃だろ。一ヶ月過ぎたんだぞ」
 一ヶ月くらいじゃ全然まだまだ。入社して一ヶ月なんてまだコピー用紙の保管場所さえ知らなかった頃だもの。至らないルーキーの私は、恋人としてのあり方すら全くの初心者であり、未だ抱き締められている間も直立不動でいる無様さ。これでも前よりは慣れた方だ。
 うれしいと言いつつ棒立ちになっている私を見かねてか、やがて主任は腕を解いた。それからまた顔を覗き込んできて、ふと尋ねる。
「そうだ。お前、風呂はどうする?」
「え?」
「一応きれいに掃除しといたから、抵抗ないなら沸かしてやる。無理にとは言わないがな、俺はどっちでも構わない」
 もちろん抵抗はない。主任のお部屋はいつでもきれいだと思うし、きっとバスルームだってきれいだろう。そういう意味での抵抗は全くない。
 でも、主任の部屋のバスルームだ。おばあちゃんちで借りるお風呂なんかとは違う。普段から主任が使用されているお風呂ということで、何と言うかその、お借りするに当たっても普通じゃいられないと言うか、いろいろ考えてしまいそうで困ると言うか――別に変な想像をしている訳じゃないけどとにかく、どぎまぎする。
「何を考えてる?」
 すかさず主任にも突っ込まれ、私は慌てふためいた。
「え、いえ、その、変なこと考えてる訳じゃなくてですね……」
「そうか。変なこと考えてたんだな」
「ち、違いますよっ」
 言い当てられて声が裏返る。そこへにやにやしながら主任が、
「じゃあ、一緒に入るか」
 と提案してきたので、息を呑み過ぎてむせそうになった。
 一緒に。
 って、お風呂に!?
「むむむ、無理です! そんなの駄目ですっ」
「何でだよ、普通だろ。付き合ってんだから」
「ええ!? だって、まずいですよ!」
「お、だったらどうまずいのか説明してみろ。じっくり聞いてやるから」
 また主任は無理なことを言う。
 大体、普通じゃない。むしろ私が普通じゃいられない。主任と一緒にお風呂だなんて目のやり場に困るし、それに賭けてもいい、絶対のぼせる。変な想像してる訳じゃないけどとにかく、絶対駄目。
「無理です。倒れちゃいます」
 必死の思いと震える声でそう訴えたら、嘘ではないと察してもらえたらしい。主任は含んだ顔で、私の肩を宥めるように叩く。
「しょうがないな、わかった。二人で入るのは次の機会にしような」
「いえ、あの、次って」
「で、どうする? 今日は一人で入るのか入らないのか」
 そういえば、当初はそのことを聞かれていたんだった。
 私もやっと我に返り、改めて考えてみる。バスルームをお借りするのはやっぱり、いろいろ考えてしまうのもしょうがないと思うけど、それはそれとして身ぎれいにしておきたい。好きな人の前だし、今日はずっと一緒にいるんだから。
 あと、パジャマ代わりのルームウェアをさりげなく着るタイミングも欲しいところだ。放っておくと着替えるタイミングもないまま寝てしまいそうな気がする。主任の部屋で、ちゃんと寝付けるかどうかはともかくとして。いや寝付けるかどうか以前に問題なのは、――今は、考えないことにしておいて。
「小坂?」
 主任が私を呼ぶ。読心術でも使ったみたいにおかしそうな声をしている。今、心を読まれていたら大変困ったことになっただろうけど、そうではないはずだと必死に言い聞かせながら答える。
「あ、の、そういうことでしたら、お借りします」
「そういうことって、何がだ」
「じ、自分でもよくわかりません。もう何が何だか」
 お風呂に入る前からすっかりのぼせてしまって、主任にも笑われた。声を立てて笑われるとなぜだか少しほっとする。そして恥じ入りながらも胸の奥に言い聞かせておく。
 大丈夫、怖くない。

 午後五時半を回った頃、私と主任は晩ご飯の支度を始めた。私は包丁の担当を申し出て、すぐさま受理された。粛々とキャベツを切る作業から始める。
 初めて入ったキッチンはちゃんと片付いていて、きれいですねと言ったら照れ笑いを返された。
「そりゃあ頑張ったからな、昨日の晩から」
「お掃除をですか?」
「ああ、仕事終わってからすぐ取り掛かった。お前にだらしないとこ見せたくないし」
 お好み焼き粉をボウルに開けながら話す主任。私はキャベツをざくざく切りながら、そんなこと気にしないのになあ、と思ってみたりもする。逆の立場なら絶対言えないだろうけど。
「私の部屋よりはずっときれいだと思います」
 そう言ったら、興味のあるような顔をされてしまった。
「お前の部屋、そんなに散らかってるのか」
「始終散らかってる訳ではないんですけど、波があります。仕事の忙しさが部屋に表れてしまうみたいです。お恥ずかしい話です」
 実家暮らしでも掃除の恩恵まで受けられる訳ではなく、いかに私の部屋が散らかっていようとそこへ家族が介入してくることはない。ありがたい反面、繁忙期には部屋を散らかしっ放しにしているのが心苦しくもあった。
 仕事に振り回されていた社会人一年目ももうじき終わる。来年はもうちょっと器用にやれたらいいな。願望としては思っておく。
「それは皆一緒だよ。俺だってそうだ」
 主任はそう言ってくれたけど、やっぱり公私を両立させている人は違うなと、このキッチンの片付きようを見ても実感する。
「でも、もうちょっとしっかりしていたかったなって思うんです。今年度はずっと両親にも迷惑掛け通しでしたし」
「そうか。偉いな、小坂」
「ち、ちっとも偉くないですよ。全然です。来年度こそは挽回しなくちゃいけないことばかりですから」
 優しい声で誉められるとうろたえたくなる。実際、ちっとも偉くないことなので余計に。手元ばかり見ていたせいか、切ったキャベツがやたら細くなっている。
「お前を嫁に貰いたいって言ったら、ご両親には悲しまれそうだな」
 卵を割りながら、さらりとそんなことを言われてしまう。
 私は更にうろたえる。さすがに気が早いように思うんだけど、主任にとってはそうじゃないのかな。……確かに私だって、結婚するなら石田主任とがいいな、なんて考えてしまったことはあるけど。
 こうして並んでキッチンに立っていると、あらぬ想像だってしたくはなるけど。
「今日は、どう言って出てきた?」
 主任の問いは単語がいくつか省かれていたものの、今の私には容易に察せた。俯いたままで答える。
「外泊すると言ったら、一発で母に見抜かれました」
「反対されなかったか」
「いいえ、特には」
 私もいくつか省いて答える。事実はもっと面映いもので、事実を看過したお母さんは『お父さんには上手いこと言っておくから』と言って、優しくて立派な主任さんによろしくねと、快く送り出してくれたのだった。外泊を反対されていたとしたら大変だっただろうけど、応援されているというのも正直、むちゃくちゃ気恥ずかしいものだった。どんな顔して帰ればいいのやら今から気が重い。
「お前が大人扱いされてるってことなんだろうな」
 言われて首を傾げたくなる。そうなのかなあ、自分ではちっとも大人になれた気がしないけど。自立しきれていないし、仕事だってまだまだ手際も良くないし、恋愛だってなかなか前に踏み出せない。そんな私を大人扱いしてくれる人たちは貴重だと思う。
 ちらと上げてみた視線で、隣に立つ人の横顔を捉える。割り箸でボウルの中身を掻き混ぜている主任は、どことなく満足げに笑んでいる。
「なら、遠慮なく貰いに行けるな」
 そしてまた、あっさりした物言いで私を狼狽させる。わざとだろうか。抗議の声を上げたくなる。
「貰うって……その、からかわないでください」
「からかってない。本気だ」
 言葉の通りに冗談のない口調。
 その後で流れるような眼差しがすっと、こちらへ動いた。横顔を捉えたままの私を逆に捕らえる。目の端から鋭く。
「一人でいる時は、いつもお前のことを考えてる」
 瞬間、告げられた内容よりも、眼差しに動揺した。
「でも考えるだけじゃなくて、本当に一緒にいられる方が、ずっといい」
 そう語る主任はボウルを掻き混ぜている。私はキャベツを切る手を止めてしまっている。お互い、相手のどこにも触れていないのに、抱き締められたような息苦しさを覚える。とっさに逃げられず、逸らせず、声も立てられない。
 返事をせずにいたからか、主任はやがて軽く笑むと、手は割り箸とボウルから離さずに、首を伸ばすようにして私の唇に口づけた。ごく短いキスだった。だけど奇妙に背中が震えてしまって、私はとっさに笑い返せなかった。
 怖くない。
 大丈夫、絶対に怖くない。――おまじないみたいに唱えても、動悸はちっとも治まらない。
PREV← →NEXT 目次
▲top