Tiny garden

ジンクスとチョコレート(6)

 十三日は午後四時に、駅前で待ち合わせをしていた。
 お互いに事情があった。石田主任は部屋の片付けをするので少し時間が欲しいと言っていた。私は外泊をすることを家族に告げた以上、家まで迎えに来てもらうのは何と言うか、照れた。電車で行きますよと申し出てみたけど、主任は迎えに行くと主張して聞かなかった。だから夕方、家から少し歩いたところにある駅の前で待ち合わせをした。

 今日は、デートなのだと思う。
 いつもより長い時間一緒にいるだけで、いつもと違って、今日のうちに家に帰る必要がないだけで、これまでに何度もしてきたデートと本質は変わらないのだと思う。そういう風に思っておく。それ以上のことは、今は考えない。考えたら前に進めなくなってしまうから。
 いつもより荷物も多い。コートの下はデート用のおめかしスタイルだけど、提げた鞄は大きめのボストンバッグ。中には着替えも、お化粧品も入っている。いくら恋人といえど主任の前でパジャマを着るのは失礼に当たるだろうから、見た目の可愛いルームウェアを買い揃えて持参している。それとは別にバレンタインデーのチョコレートを入れた紙袋も提げている。全部を持つとずしりと重く、今日は何もかもが特別な気がしてくる。やっぱりどうしても緊張してしまう。
 でも、大丈夫。逃げたりはしない。

 西日のきつい二月の夕暮れ。駅舎の外で待っていたら、やがて駅前のロータリーに見慣れたSUV車が乗り込んできた。路肩に寄ったところへ私も近づき、ドアを開けながら挨拶をする。
「……こんにちは、主任」
 声がかすれた。夕方の挨拶ならこんにちは、で間違いないはずだけど、私服姿の主任はハンドルを握ったままで笑う。
「こんにちは」
 それから、私が乗り込んでシートベルトを締める間に言ってくる。
「外で待ってるとは思わなかった。寒くなかったか?」
「平気です。日が差してましたから」
「その割には頬っぺた、赤くなってるな」
 指摘されて、ぎくりとする。頬が赤くなっているのだとしたら、寒さだけのせいではないように思う。そういう違いは主任にならすぐにばれてしまいそうだ。
 実際、寒くはなかった。外に立っていても暑いくらいだった。車の中にいるとのぼせそうにさえなってくる。発進する時の揺れには心ごと大きく傾いだ。
 今日はデートだけど、特別な日にもなりそうな気がする。
「ところで、その紙袋は何だ」
 走り出してしばらくしてから、主任が訝しげに尋ねてきた。目の端に見た横顔は苦笑いをしている。
「また変に気を遣ったんじゃないだろうな」
「気を遣ったつもりはないんですけど、バレンタインデーのチョコレートです」
 今回は以前に持参したような手土産とはまた違う。初めてのバレンタインだからちゃんとしておきたくて、一応用意しておいた。
 それでも、主任には困ったように笑われてしまったけど。
「金も使わなくていいって言っといただろ」
「そんなに高いものじゃないです。それに、私も一緒に楽しめるものをと思って選んだんです」
 言い添えた内容は少なからず興味を引いたようだ。僅かな間があり、聞き返された。
「へえ。美味しいのか、それ」
「ばっちりです。チョコはチョコでも、チョコレートリキュールです」
 本当はちょっと迷った。形に残るものにしたいなって考えていたから。
 だけど高価なものを贈れば主任にはかえって気を遣われるだろうし、七つも年上の人に安っぽいものなんて贈れない。それなら二人で一緒に楽しめる品がいいと思った。チョコレートなら一度食べたらなくなってしまうけど、チョコレートのリキュールなら数回は楽しめるだろうし、きれいな形の瓶を取っておくことも出来る。主任はお酒が好きな人だし、私だってそうだ。そして、何かと緊張してしまいそうな夜には、アルコールの力だってきっと必要になる。
「ああ、知ってる。美味いよな」
 主任はチョコレートリキュールの味をご存知のようだ。反応が良かったのでひとまずほっとした。
「美味しいですよね! 私はアイスクリームに掛けるのが特に好きです」
「アイスか、それは試したことないな」
 呟いた後で思い切り笑んで、主任が切り出してきた。
「じゃあ途中でどっかに寄って、アイスも買っておくか」
「はいっ」
「どうせ夕飯の買い物もしようと思ってたんだ。スーパーにでも寄ろう」
 夕飯。その言葉に私は口を噤み、少しの間ためらう。
 ここはやっぱり、作りますって言った方がいいだろうか。二択だけど。カレーか豚汁がせいぜいだけど、私に作らせてくださいって申し出るのが筋だろうか。
 そんなことを考えていたら、主任に吹き出されてしまった。
「何でお前、そんな硬い表情してんだ?」
「あっ、それはその、晩ご飯のことで……」
「どうした? 飯がそんなに心配か」
「心配と言いますか、こういう時は私が作りますと申し出るのが筋なのかなって思いまして。あの、そんなに上手くはないですけど」
 正直に話したら、運転中だというのにげらげら笑われた。今更笑われるのが嫌だなんて思っていないけど、別に面白いことを言ったつもりもなかったので、呆気にとられてしまった。そんなにおかしかったかなあ。
 真っ直ぐ前を向いたまま、散々に笑った後で主任が言う。
「お前は本当に気を遣う性分だよなあ。別に一人で作らせようなんて思ってないよ」
 私は迷う。ほっとしていいのか、それでも頑として作りますと言い募った方がいいのか。そこへ更に言われたことは、
「せっかくだから二人で一緒に作るってのはどうだ」
「ふ、二人でですか?」
 とっさに声が裏返ってしまった。
 だって、主任と二人で料理なんて、緊張するけどすごく楽しそうな気がする!
「うちにホットプレートがあるんだよ、ちょっと年季は入ってるが十分使える。やろうと思えば何でも作れるぞ、お好み焼きでも、焼きそばでも、焼肉でもな。一度、霧島たちと餃子を焼いたこともある」
 ホットプレートなんて、主任も随分と家庭的な品をお持ちなんだなと思った。いやそれよりも、――餃子? 霧島さんたちと?
 好奇心はみるみるうちに膨らんだ。思わず尋ねた。
「つかぬことを伺いますが、餃子は、どなたが包んだんですか」
「そこを気にするか。……全部三人でやったよ、その頃はまだ、霧島にも彼女がいなかったからな」
 石田主任と霧島さんと安井課長が、ホットプレートを囲んでせっせせっせと餃子の皮を包むところを想像してみた。いつものように賑々しくやり合いながら包んだのか、それとも包み始めたら三人揃って無口になってしまったのか、どっちにしてもすごくいい画だ。微笑ましい。
「にやにやするなよ」
 すかさず突っ込まれたので、にやけつつ謝る。
「すみません。でもそういうのも素敵ですね」
「そうでもない。で、お前は何がいい?」
 翻って私の場合。餃子もいいけど、包み始めたらやっぱり夢中になって、無口になってしまいそうな気がしてならない。二人で作るものだから、もう少し手順の少ない、お喋りしながらでも作れるものがいいな。
 そう思って答える。
「じゃあ、お好み焼きがいいです」
「わかった。アイスと一緒に材料も買っていこう」
 主任は頷いてから、ちらっとだけこっちを見た。
「お前、案外と笑ってるよな」
「え?」
「もっとがちがちに緊張してくるかと思ってた」
 私もそのつもりだったけど、言われてみればいつの間にか解けてしまった心に気付く。はしゃぎたくなるような気持ちでいる。主任と一緒にお酒を飲んだり、ご飯を作ったりすることが、今は楽しみで楽しみでしょうがない。
「俺としては、笑ってくれてた方がいい」
 力強く笑んで語る主任に、私もつられて、にんまりしながら応じた。
「はい。笑っているようにします!」

 それから二人でスーパーに立ち寄って、お好み焼きの材料とアイスクリームとを選んだ。買い物かごは主任が持ってくれた。その時に、新婚さんみたいだよなと言われて、反応に迷い黙っていたら、スルーするなとおでこを弾かれた。痛かったけど、ちょっとうれしかった。
 お好み焼きの粉はいくつか眺めて、一番美味しそうに見えるのを買った。ソースは好みのメーカーが合致していて、俄然テンションが上がった。キャベツの他には相談し合って、こんにゃくとネギ、それに豚肉を使うことに決めた。アイスクリームはバニラで、五百ミリの大きなものを選んだ。うちなら普段は買わないちょっと高い奴。主任もちょっと奮発したと言っていたから、きっと今日は特別なんだろう。

 特別な日はこんな風に、楽しく、笑いながら始まった。
 好きな人の為にも、ずっと笑っていられたらいいなと思う。
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