Tiny garden

ジンクスとチョコレート(5)

 二月十二日は予定通り、ビジネス的なバレンタインデーとなった。
 私も用意したチョコレートを持参して、外回りの際に配って歩いた。いつもよりも得意先を多く回るよう、ルートとスケジュールの調整もしておいた。
 主任に言われた通り『可愛く、若さを武器にして』配れたかどうかは怪しい。当初意気込んでいたほどチャンスを生かせてもいなかったと思う。でも得意先の皆さんには笑顔で受け取ってもらうことが出来た。用意したのは小さめの、模様つきの板チョコレート。捻りはないけど好みだってあるだろうし、主任も、好き嫌いのあまりなさそうな品にしろとアドバイスしてくれていたから、なるべくプレーンなのを選んだ。
 本当言うと、迷惑がられはしないかと緊張もしていたんだけど、大抵の会社ではこの手の営業チョコを貰い慣れているようで、断られることはおろか困った顔をされることもなかった。ホワイトデーにはお返しをするからね、なんて今日のうちから言ってくださった方もいたし、それどころか窓口のお姉さんが、私にまでチョコレートをくれたりする会社もあった。何でも性別には関係なく、毎年あった来客には挨拶代わりに配っているのだそう。思いがけず甘いものをいただけて、うれしかった。
 ビジネス的なバレンタインデーというのも、なかなか捨てたものじゃない――なんて食べ物にはあっさり釣られてしまったりして。ロマンチックではないかもしれないけど、何だか優しい気持ちになれる日だった。

 私がいただいたチョコレートは一つきりだったけど、営業課の皆さんはそれはもう、たくさん貰ってきたらしい。
 営業チョコもこれはこれで気を配らなければいけないもののようで、どの企業の誰々さんからどの程度の品をいただいたのかを、ホワイトデーに備えて記録しておかなければいけないのだとか。皆、外回りから戻ってくるなり手帳を開いて、紙袋やスーパーの袋にいっぱいになったチョコレートを検めている。皆がいつもと違う、同じ行動を取っている光景がちょっと面白い。……あ、私も来月のお返し、忘れないようにしようっと。
 そんな中でも、新婚である霧島さんは相変わらずからかいの的となっている。
「大漁だな霧島。こんなに持って帰って、奥さんに不安がられたりしないか?」
 皆と同じようにチョコを検分している霧島さんへ、石田主任がちょっかいをかけている。結婚以来ずっとそうだけど、今日は皆にことさらからかわれている新婚さんが、今もうんざりした顔で応じた。
「大丈夫ですよ。全部仕事上の付き合いだってちゃんと言ってありますから」
「お、何だ。結婚したら急に亭主関白になったのか」
「なってないです! それと、この間から言ってますけど勤務中にそういうこと言うの止めてください!」
 突っ込まれて噛み付く霧島さんに笑い声が沸き起こる。こっそり、亭主関白という言葉からは掛け離れた人だと思う。どっちが偉いとか強いとかじゃなくて、ゆきのさんと二人、肩を並べて歩いていくイメージ。
 もちろん、主任だって本気で『亭主関白』なんて言った訳じゃないだろうけど。多分。
「そんなことを言うなら、先輩こそどうなんですか」
 と、霧島さんが切り返そうとする。
「あんまりたくさん貰って歩いたら、出来たばかりの彼女に愛想尽かされるんじゃないですか?」
 揶揄する物言いはもちろん主任へ向けられたものだったけど、傍で聞いていた私も、どきっとした。書類と向き合うふりをして、顔は上げずにいたものの。
 主任はどう答えるのかもちょっと気にしていたら、呟くような答えが聞こえた。
「あいつは、やきもちを焼く性格じゃない」
 え、そんな。私だって一応は、少しくらいはやきもち焼いたりするのに。そりゃあ今日の件についてはお仕事の一環だと思っているし、チョコレートの十個二十個でへこんだりもしないつもりでいるけど、何だか買い被られているようでそわそわしてくる。
「そうでしたね」
 霧島さんにもすんなり納得されてしまった。そう見えるのかな。
「むしろ先輩の方が妬いてるんですよね。彼女があちこちにチョコを配って歩くから、朝から心配で心配でしょうがないって顔を――いたっ」
 言葉は途中で小さな悲鳴に取って代わり、その後は話題も足を踏んだ踏まない蹴った蹴ってないという実に微笑ましいやり取りへと移行した。お二人の小競り合いを顔を上げずに聞いていた私も、笑いを噛み殺すのに一苦労だった。
 主任も少しくらいはやきもちを焼く人のようだけど、あんまり心配させずに済んだらいいなと思うし、その為にも信頼されたいなとも思う。
 今日だってちゃんと、営業用としてチョコレートを配ってきたつもりだ。心配されるようなことは何にもない。胸を張って言える。そういう私を、主任には見ていてもらいたい。

 ともあれ、営業課全体でチョコレートファウンテンが出来そうなほどの収穫だったビジネス的バレンタイン。ゆきのさんと私が用意したおかきの詰め合わせもなかなかに好評だった。
「やっぱり甘いものの後には、しょっぱいものが食べたくなるよな」
「なりますよね!」
 主任の言葉に全力で頷く私。そう、甘いものを食べた後にしょっぱいものを欲するのは人間の、至極当然の摂理なのだと思う。だからおかきというのは実にナイスなアイディアだ。
 ちなみに発案者のゆきのさんも、出来れば今日、営業課に顔を出したいと言っていたんだけど、秘書課は秘書課で他に配らなくてはいけないところがあるらしくて、休憩時間も忙しいらしい。だから営業課のアイドルからの贈り物は、責任を持って私がお預かりしていた。机の上に置いたおかきの缶の傍、メッセージカードも添えている。『皆さんでお召し上がりください』、可愛らしい字でそう書いた下にゆきのさんは署名を、私は自分の認印を押しておいた。その文面が効いたのか、プラスしょっぱいもの効果もあってか、おかきは業務中も飛ぶように売れていった。うれしかった。
「こういう、一味違うものだとありがたいですね」
 霧島さんもそう言ってくれたので、私は笑顔で応じる。
「ありがとうございます。実は、ゆきのさんが出してくださったアイディアなんですよ! チョコレートじゃなくって、何かしょっぱいものにしようって」
「へえ、そうなんですか」
「――『ゆきのさん』?」
 私の言葉に対する、霧島さんと石田主任の反応は全く違った。腑に落ちたように顎を引く霧島さんに対して、主任は俄かに眉根を寄せている。
 少しの間を置いてから尋ねてきた。
「小坂、お前、いつの間に霧島夫人を名前で呼ぶようになった?」
 聞かれるだろうなと思っていた。
「この間からです」
 答えつつ、笑いを抑え切れない。報告するのはくすぐったいけど、誇らしくもあった。
「そういえば、彼女も小坂さんのことを『藍子ちゃん』って呼んでました」
 霧島さんが思い出したように言って、にっこりする。
「二人で買い物に行かれたんでしたよね」
「はいっ。先日、仕事の後にご一緒しました。それからです」
「仲良くなるのが随分と速いな」
 主任には感心されたみたいだ。でもそうやってゆきのさんと仲良くなれたのも、巡り巡っては主任のお蔭だと思っている。主任のことを好きな人たちが皆で、私の背中を押してくれた。だから私は出来ないと思っていたことも出来るようになったし、きっと前に進めるようになっている。
 ゆきのさんは温かい言葉を私と、主任に対してくれた。二人だけの秘密になった打ち開け話は、幸せな気持ちと勇気をくれた。
 私だって同じように、――ううん、今なら言える。他の誰よりも主任が好きだ。怖いことはまだまだたくさんあるかもしれないけど、絶対に逃げたりはしない。なるべく、本当の気持ちを伝えたいと思うし、その後で一緒に、幸せに笑っていたい。
「ゆきのさん、すごく優しい方なんです。私がどうお呼びすればいいか迷っていたら、名前で呼んでくださいって言ってくださったんです」
 嬉々として報告したら、なぜか主任の方が照れた顔をしていた。
「そうか、よかったな」
「はいっ」
 私は頷く。それで主任はもう一度照れ笑いを浮かべた後、聞こえよがしにこう言った。
「奥さんもこれから旦那に対してあれこれ不満募らせるだろうからな。そういう時は愚痴でも聞いてやるんだぞ」
「何で不満持つのが当然みたいな言い方するんですか!」
 それにまた霧島さんが言い返して、また些細な小競り合いが始まる。本当に仲がいいんだなあ、と思ってしまう。
 私も、ゆきのさんとこんな風に仲良くなれるかな。そう考えてはみたけど――それでも絶対、足を踏んだり、蹴ったりはしないなあ。

 ビジネス的バレンタインデーが終わると、いよいよ約束の十三日がやってくる。
 もちろん本命チョコだって用意している。やっぱり緊張もするし、怖い気持ちだってあるけど、まずはちゃんと渡せたらいいなと思う。
 それから、とにかく楽しい時間を過ごせたらいい。
PREV← →NEXT 目次
▲top