Tiny garden

ジンクスとチョコレート(4)

 私と霧島さんの奥さんは、帰り支度を済ませた後、連れ立って会社を出た。
 二月の夜はコートを着ていても肌寒い。風は切るように冷たくて、無防備にしてる耳の辺りがちりちりしてくる。一人で帰る時はあまり気にならないけど、今は知らず知らず肩を竦めて歩いていることに、少しばかりの照れを覚えた。
 霧島さんの奥さんは姿勢がいい。そして歩き格好も決まっている。もしかするとそれも秘書課の、そして受付業務の賜物なのかもしれない。私も見習わなくちゃなと、とりあえず胸を張ってみる。
「お買い物は、二駅先のショッピングセンターでしようと思います。小坂さん、構いませんか?」
 ビル街の歩道を駅に向かって歩く。口を開くと息が白い。
「はい。私も電車で通ってますから、駅の傍ならどこでも大丈夫です」
「ありがとうございます。理想はデパートだったんですけど、この時間ならぎりぎりになっちゃいますからね」
 霧島さんの奥さんは、笑い方も可愛い。おっとりした感じは旦那さんと似ているような気がするけど、同い年という感じはあまりしない。……って言ったら霧島さんに失礼かな。
「何だか勢いで誘ってしまったみたいでごめんなさい」
 その奥さんに笑顔で謝られて、私はかぶりを振る。
「いえ、私もご一緒出来てうれしかったです!」
「そう言ってもらえると心強いです」
 短く笑い声を立ててから、奥さんはふと何かひらめいた顔をする。
 月光に似た水銀灯の明かりには、肌の色が透き通ったように映る。営業課のアイドルという呼び名に相応しい人。可愛い上にきれいだなんて、すごく羨ましい。
 私がぼんやりしているうちに、言われた。
「小坂さん」
「はい」
「あの、良かったら、名前で呼んでもらえませんか」
「……え?」
 隣を見ると、目が合った時の表情があどけなくも見えた。石田主任と安井課長が揃って言っていたことを思い出す――この人が誰かの奥さんだとは、とっさに考えつかないかもしれない。それでも霧島さんの隣にいたら、すごくお似合いのお嫁さんだと思うけど、不思議な共感を今更覚えた。
 場違いなことを考えたせいで、反応が少し遅れた。すると霧島さんの奥さんはにこっと笑って、付け足してくる。
「ゆきの、です。小坂さんにはそう呼んでもらえたら、うれしいなあって」
 そんな言葉が無性にどぎまぎした。隣を見ながら歩くのが難しくなるくらいに。
 でも急いで言ってみた。
「……ゆきの、さん」
「はい」
 私のたどたどしい呼びかけにもとびきりの笑顔で答えてくれる。
 それからもう一つ、言われた。
「じゃあ私も、『藍子さん』って呼んでもいいですか」
 この瞬間、私は長谷さんが営業課のアイドルと呼ばれる所以をまさに、目の当たりにしたように感じた。こうやって笑いかけられたら、確かに何だかいいことがありそうな気がする。
 自分でもびっくりするくらいにどぎまぎしながら返事をした。
「あ、あの、さん付けなんて全然、結構です! 是非呼び捨てにしてください!」
「なら、ちゃん付けでも構いませんか? 藍子ちゃん、で」
「ももも、もちろんですっ」
 名前呼びでしかもちゃん付け。うれしくてしょうがなくなる。
 そういえばこんな風に仲良しを作ること、ここ最近はなかったな。子どもの頃はこれだけですぐ友達になれた。だけど大人になったら、名乗るより先に名刺を貰うようになった。出会った人を呼ぶ時は名字で呼ぶし、話すのは仕事のことが多くなった。年賀状もバレンタインデーのチョコレートも仕事用ばかりになってしまった今、こんな機会があるとは思ってもみなくて、しみじみと懐かしさを覚えている。
 くすぐったさも一緒に込み上げてくる。うれしい。
「これからもよろしくお願いしますね、藍子ちゃん」
「こちらこそです、ゆきのさん!」
 歩きながら名前を呼び合って、笑い合っているのが幸せ。いつの間にか寒さも感じなくなって、私もゆきのさんにつられたみたいに姿勢良く歩いていた。
 胸のどきどきが落ち着いてから、そっと告げてみた。
「それにしても、ゆきのさんが私の名前を知っててくださったなんて、うれしかったです」
「存じてます」
 と、ゆきのさんが目をくるくるさせる。可愛い。次いで言われた。
「だって以前から、石田さんがそう呼んでましたから」
 危うく、そうなんですかーなんて暢気に相槌を打つところだった。
「――え! しゅ、主任がですか!?」
 ビル街に響く声。慌てて自分の口を押さえたけど、とっさに叫んでしまったものは仕方ない。
 もちろん主任は私の名前を知っているはずだ。だって上司だもの。契約書を始めとする各書類にも当然、フルネームで書いているから、知らない訳はない。でも。
 名前で呼ばれたことはない。
 恋人同士になってからだって、一度も。
「はい。……え?」
 私の驚きに気付いてか、ゆきのさんも怪訝な顔をした。すぐに尋ね返してきた。
「石田さんは普段、何て?」
「『小坂』って、名字で呼ばれてます」
「へえ……そうなんですか。意外ですね」
 ものすごくびっくりした様子で、白い息をつくゆきのさん。その後でちょっといたずらっぽい顔をして、
「映さんたちとお酒を飲む時は、いつもそうなんですよ。石田さん、お酒が入ると藍子ちゃんのことを『藍子』って呼ぶんです」
「わあ……!」
 声が出た。何と言うかこう、びっくりの上に、非常に面映くて。
 私の前では一度も呼んだことがないのに、どうして私のいないところでそんな風に呼んでいるんだろう。そんなの変だ。しかもお酒の入った時って、他に恥ずかしいこととか言ったりしてないかな。ちらほら他の方からもうかがってたような記憶もあるけど、私のいないところではすごく惚気る人らしいから、私だけが知らないことがまだまだたくさんあったりして。どうしよう恥ずかしい。知りたくないけど知っておかなくちゃまずい気もする!
「でも面と向かってはまだ呼んでないなんて、ちょっと面白いですね」
 ゆきのさんは首を竦めて笑う。
「きっと石田さんのことですから、名前で呼ぶ絶好のタイミングを計ってるのかもしれないですよ」
 絶好のタイミングと聞いて思い浮かぶのは――。
 十三日の約束。
「だって、ずっと前からでしたから」
 ここ最近の悩み事を甦らせた脳裏へ、まるで正反対の朗らかな声が響く。我に返って、私はおずおず口を開いた。
「ずっと前……っていうのは、主任が、私の名前を……」
「はい。お付き合いされるずっと前からです」
 すんなりと頷かれて、それはそれで驚いたりもする。
 一体、どのくらい前からなんだろう。
「映さんや安井さんには始終突っ込まれてましたよ。まだ彼女じゃないんだからって。でもそういう時、石田さんはいつもむきになって言い返すんです。もう決まったようなものだからいいんだって」
 いつから、なのかな。主任の中では、いつ『決まったようなもの』だったんだろう。
「その通りにお二人が上手くいって、私、本当に良かったなって思ってるんです」
 うれしそうに、ゆきのさんは言う。
「藍子ちゃんのこと、あんなに幸せそうに語る石田さんを見てたら、誰だってそう願っちゃいます。上手くいくといいなって」
 目の前の笑顔と記憶の中の笑顔とを、私は呆然と見つめていた。私のことを幸せに語る石田主任の姿は、見ていなくても想像がつくような気もするし、だけどまだてんでわかってないのかもしれない。
 主任がどのくらい私を好きでいてくれているのか。いつから、どんな風に想ってくれていたのか。何にも知らないでいるのが申し訳ない気持ちになる。恥ずかしいなんて足踏みしている場合じゃない、ちゃんと知っておかなくちゃいけないことだ。見て見ぬふりをするのも、そこから逃げ出したりするのも、酷く失礼なことだ。知ることが怖いなんておかしい。知らないままでいる方が余程怖い。
 私はたったの二十三歳で、未熟で、物を知らなくて、すっとこどっこいの駄目なルーキーだけど、それでも今は間違いなく石田主任の恋人だ。その私が主任の気持ちをまだ良く知らないなんてこと、やっぱりおかしい。
 前に進まなくちゃいけない。
「……ありがとうございます、ゆきのさん」
 冷えた空気に白い息は溶けたけど、声は溶けてしまわないように、はっきりと言った。
「今のお話を聞いたら、私もすごく、幸せな気持ちになりました」
「いえ、こちらこそです。いつも幸せにさせていただいてます」
 ゆきのさんもなぜかお礼を言ってきて、それからこっそり付け加える。
「だけど今の話、石田さんには内緒にしてくださいね」
「はい」
 もちろんそのつもりでいる。私自身が知っていかなくちゃどうにもならないことだから。

 沿線にあるショッピングセンターに着いたのは午後七時頃。平日の夜でもそれなりにお客さんが入っていて、夜道とはうって変わった賑々しさだった。
 催事コーナーではバレンタインセールをやっていたけど、ゆきのさんはチョコレートじゃなくて、違うものにしようと提案してきた。曰く、
「ほら、営業課の皆さんは、たくさん貰ってくるみたいですから。甘いものじゃない方がいいんじゃないかなって。どうでしょうか」
「ナイスアイディアです!」
 私も諸手を挙げて賛成。甘いものの後にしょっぱいものを食べたくなるのは自然の摂理だ。
 という訳でゆきのさんと二人、おかきやおせんべいを見て回った。出ていた試食も一緒につまんで、一番美味しかったのを選んで、お金を出し合って買った。たったそれだけのことが楽しくて、悩み事なんて本当にどうでも良くなってしまった。
PREV← →NEXT 目次
▲top