Tiny garden

ジンクスとチョコレート(3)

 バレンタインの約束をした夜以降、私は毎日悩んでいた。
 聞いておけば良かったと思うのはパジャマに限った話じゃなかった。何せ初めてのことだから全てにおいてわからない。例えば、晩ご飯をどうするのか。泊めていただく以上は私が作った方がいいんだろうか。バレンタインデーのチョコレート代わりに夕飯を、と言いたいところだけど、私が自信を持って作れるのはカレーと豚汁くらいだった。そのどちらかで良ければ……うん、やっぱり、チョコを用意しとく方がいいかも。
 一晩中も一緒にいたら、話題が尽きてしまわないかも心配だ。私も決して無口な方ではないけど、主任と二人でいる時は、主任の方が話を振ってくれることが多い。でもいつもより長い時間を過ごすなら、少しは私も振れるだけの話題を提供しなくてはいけないと思う。主任にも、一緒にいて楽しいと思ってもらえるように。一泊二日の間に、一度として退屈されることのないように。
 それから――すごく気になっているのは、ここまであれこれ考えておいてこんなこと思うのもどうかしてるのかもしれないけど、やっぱり――こういうのってまだ早いんじゃないかなあ、とも、漠然と思う。
 二十三にもなって、恋人の家に泊まることの世俗的な意味がわかってない訳でもないけど、逃げたい気持ちがあった。怖かった。二人きりでいるだけでも時々無性に怖くなってしまうのに、更に長く一緒にいたらどうなってしまうんだろう。
 好きな人と一緒にいられるのに、同じように好きになってもらったのに、怖がるなんておかしい。そうとわかっていても、未知の事柄に対して恐怖を抱くのも人間心理としては間違ってないはず。二十三年生きてきても私は知らないことだらけだ。一方で主任は三十歳で、私よりも知っていることがたくさんあって、そして私の知らないことすら当たり前だと既に捉えているような人だった。私だけが怖くなったってしょうがない。

 しょうがないと思うだけでは、前に進めないこともわかっているけど。
 営業課にいると、一日一度は目が合ったりする。そういう時、主任はいつもいい笑顔を向けてくれるけど、私の方はまともに笑い返すことさえ出来ずにぎくしゃく会釈をするだけだった。勤務中とは言ってもあまり感じのいい応対ではないと自分でも思う。約束のことを考えたら、普通にしているのも難しくなる。
 一番いいのは、当の主任に気持ちを打ち明けてしまうことなんだろう。ためらいたくなる気持ちも、逃げ出したい衝動も、底知れない怖さも全部話せたらいいんだろう。でも気恥ずかしさのせいか、あるいは怖さのせいか、切り出すのにはいつよりも何よりも勇気が要りそうだった。更に間の悪いことには約束をした晩以来、一緒に帰る機会はなかなか訪れなかった。それでもメールのやり取りはしていたけど、主任はいつものように日常的な話題に終始していて、文中にバレンタインの件が持ち出されることもなかった。もしかすると私のそぶりにも気が付いていて、あえて直前まで黙っていてくれるつもりなのかもしれない。気を遣ってもらっているのだとしたらそれも悪い気がする。
 本当に、どうしたらいいんだろう。

 煩悶しながら迎えた二月の第二週。
 決算のあった先月とはうってかわって、今月に入ってからは早めの退勤が続いていた。私より仕事の多い主任とは時間が合わないままだ。話をする機会を逃していることに漠然とした不安を抱きつつ、どこかで安堵もしている自分が、嫌になる。
 タイムレコーダーが表示している退勤時刻は午後六時二十分。にもかかわらず私は溜息をつく。
 とそこへ、霧島さんへお弁当を届けに来た長谷さんが、営業課のドアからするりと出てきた。私を認めると笑いかけてくれたし、声も掛けてくれた。
「小坂さん、お疲れ様です」
「あっ、お疲れ様です、長谷さん」
 と応じて、私ははたと気付く。
 そうだ、長谷さんはご結婚されたからもう長谷さんじゃないんだ。
 主任や安井課長は既に『奥さん』とか『霧島夫人』なんていう呼び方をしている。だけどそれがちょっとばかりのからかいを含んでいるものだから、霧島さんがしょっちゅう真っ赤になっている。ちなみに新婚の霧島さんは営業先でも散々からかわれているらしく、せめて営業課内では止めてくださいと冷やかし禁止の嘆願をしていたものの、かろうじて守っているのは私だけなので、実質無意味と同じことだった。
 閑話休題。その奥さんに対し、慌てて言い直す。
「ええと、き、霧島さん……」
 照れながら呼ぶと、一度きょとんとされてから、小さく笑われた。
「ごめんなさい。呼びにくいですか」
「いえ、これから慣れるようにします!」
「旧姓で呼んでいただいても構わないですよ」
 と話す霧島さんの奥さんは、まだ受付の制服姿でいる。ネームプレートは既に新しい名字へと書き換わっていた。そういう方に対して旧姓でお呼びするのも失礼じゃないかなあ。大体、私が照れることでもないんだけど、何となく照れてしまうのが自分でも解せない。
「早いうちに慣れておきたいんです」
 これからもお世話になるであろう方々だ、そう思って私が言うと、霧島さんの奥さんはまたくすっと笑った。その後で声を落としてくる。
「ところで小坂さん、もう上がりですか? 少しだけお時間いただいても構いませんか?」
「はい、大丈夫です」
 即答したものの、どんな用件なのかすぐには思い当たらなかった。何だろう? 不思議に思う私のスーツの袖が軽く引かれる。可愛らしい引き方だった。
「じゃあ、ちょっとこっちへ。来ていただけますか」
 言いながら袖を引かれたので、営業課の前を離れて、ちょっと距離を置いた廊下の端へ。定時を一時間ほど過ぎた廊下は、まだ人の行き来も多く、ざわついている。
 そこでも抑えた声のまま、こう切り出された。
「バレンタインデーの話なんですけど」
 前置きには一瞬だけ、どきっとしてしまったけど、
「小坂さん、営業課の皆さんにはもうチョコを用意しました?」
 次の瞬間には違う意味で心臓が跳ねた。
「営業課に? ――あっ」
 忘れてた。
 むしろ、あげるものだという頭がまるでなかった。
 言われて初めて気付いた。得意先には件の営業チョコを配るつもりでいたのに、日頃から大変お世話になっている仕事仲間の皆さんはスルーだなんて恩知らずな話かもしれない。主任からレクチャーを受けた時、どうして思いつけなかったんだろう。
 営業チョコ自体は既に、休日のうちに用意を済ませていた。でもまた買いに行かなくちゃいけないな、ああもう本当にすっとこどっこいで困る。
「忘れてました」
 愕然としながら答えると、霧島さんの奥さんは小首を傾げてみせる。
「だったら、一緒に用意しませんか? 実は私も、営業課の皆さんに何かお贈りしようと考えていたんです。先月は大変お世話になりましたから」
 最後の一言がはにかんでいたのは、お世話になったというのが結婚式についてを指すからだろう。あれからまだ一ヶ月経っていないけど、時々情景ごと思い返してしまう。いい結婚式だったなあ。
「小坂さんにも大変お世話になりました。ありがとうございます」
「い、いえいえ! こちらこそおめでとうございました!」
 深々と頭を下げられたので、急いで下げ返す。同じタイミングで顔を上げたら何となく、お互いにえへへと笑ってしまった。それだけで仲良くなれた気がするのは思い上がりでしょうか。そうじゃないといいな。
「そのご恩返しと言ったらおこがましいですけど」
 ウェディングドレスも、受付の制服も似合う霧島さんの奥さんが、おどけた口調で語を継いだ。
「営業課の女の子は小坂さん一人だけですし、皆さんの分のバレンタインデーの用意するのは大変ですよね。一緒に買って、ちょっとお得に上げちゃいませんか」
「名案ですね!」
 お得に上げる。何という現実的かつ合理的な響き。
 私は思わず挙手をする。
「営業課の分はすっかり忘れていたので、お話をいただいて助かりました。是非一枚噛ませてください!」
「噛んでいただけます? 良かった、じゃあ決まりです」
 言ってから奥さんは腕時計を見て、もう一度こちらを見た。
「ところで、小坂さん」
「はいっ、何でしょうか」
「今日はこれからお時間ありますか? 良かったら二人でお買い物に行きませんか?」
 人懐っこい笑顔が目に眩しい。
「せっかくですから一緒に選びたいですし、それにほら、小坂さんとはまたゆっくりお話ししてみたかったんです」
 そんな言葉と笑顔を向けられて、断る理由なんて全然なかった。もちろん即答でご同伴あずかることにした。
 ここ最近のもやもやした悩みも、ちょっと晴らしておく必要がある。十三日まではもう一週間とないんだから、せめて気分転換して、前向きな気持ちになっておこう。そういう意味でもこの度のお誘いは絶好の機会だった。
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