Tiny garden

ジンクスとチョコレート(2)

 その後も私は、石田主任から営業におけるバレンタインデーについてのレクチャーを受けた。
 先にも聞いたように、チョコレートは立派なものではなくていいこと。特に理由がないなら会社ごと差をつけたりはしないこと。日持ちのする、好き嫌いのあまりなさそうな品にすること。それから、
「今年のバレンタインは十二日だからな」
 特に、その点は強調された。
「忘れるなよ、十四日までなんて待ってたら休業日で渡せなくなるぞ」
「はいっ」
 今年の二月十四日は日曜日だ。十三日の土曜日もお休みなので、チョコを配るのは金曜日、十二日となる。日付を間違えて、うっかりチョコを用意してなかった、なんてことになったら大問題。ちゃんとスケジュールを都合しておかなくては。
 あと、十二日中に回れそうな得意先もリストアップしておくことにする。いつもよりも足を伸ばして、なるべくあちこちに配れるように。お世話になっているところの担当者さんには尚更だ。
 それにしても、年賀状と言いバレンタインのチョコと言い、社会人って大変だなあとつくづく思う。桁からして変わってくるんだから。
「主任も三月は、お返し代が大変そうですね」
「ああ。一体どこの誰がホワイトデーを十四日に定めたんだろうな。せめて給料日の後にしてくれりゃいいものを」
 私の場合はバレンタインだけど、心底同意。
 もちろん予算だって組んではあったものの、それはあくまで本命用の――主任の為に何か買おうと思って取っておいたお金なのに。だから仕事の為に手をつけるのは嫌だな。何か別のところを切り詰めよう。
 で、主任への贈り物をどうするかだけど。
 お金の話が出た手前、切り出しにくくなってしまった。この流れで欲しいものなんて聞いたら、むしろ主任の方が気を遣っちゃうだろうな。困ったなあ。先に懐具合を宣言しておく方がいいのかな。
 迷いつつも言ってみた。
「でもあの、予算の方はばっちりですから!」
「は?」
 主任が前を向いたままきょとんとしたので、慌てて言い添えておく。
「その、バレンタインの話です!」
「そうか、そりゃ良かった」
 多分伝わってない感じで笑って、
「社会に出るといろいろ大変だよな、交際費とか。小坂ならしっかりしてそうだから問題もなさそうだが」
 と、主任は私を誉めてくれた。
 しっかりしてそうだなんて滅多に、誰にもなかなか言われないフレーズだった。それで私は、言ったことがまるきり伝わらなかったにもかかわらずうっかり舞い上がってしまっていて、気が付いたらフロントガラスの向こうには見慣れた佇まいの住宅街が。
「ほら小坂、着いたぞ」
 サイドブレーキを引いた主任が、助手席を覗き込んだ後で訝しそうにしてみせる。
「どうした、妙な顔して」
「い、いえ……」
 せっかく家まで送ってもらったのに、肝心な話が出来なかった。へこんだ。
 だけどもう既に二月、今夜を逃したらあっという間にバレンタインデーが来てしまう。そうでなくても今年は二日も早い十二日なんだから、早めに確認しておくのがいいかもしれない。
 夜の住宅街は車どころか人通りも至って少ない。路肩に停めた車が邪魔にならない程度に、私は主任にお願いをしてみた。
「すみません、もうちょっと、あと五分だけお時間いただけますか?」
「ん?」
 エンジンの掛かったままの車内、主任は怪訝そうにした後で、私の家のある方向をちらと見た。それから笑んで、答えてくれた。
「そういうおねだりなら大歓迎だ。……名残惜しくなったか?」
 家の前でそういうこと言われるのは困る。どんな顔して帰っていいのかわからなくなってしまう。別れ際の寂しさも今に始まったことではないけど、仕事の後じゃ言いにくい。それに今回は、もっと大事な用件もある。
 主任の手がエンジンを切ると、車内は急速に静かになり、ゆっくりと冷え込んでいく。あまり長居をしてはそれこそ風邪を引かせてしまうから、急いで語を継いだ。
「実はバレンタインについて、お話ししたいことがあるんです」
「何だ、まだ質問があったか?」
「そうではなくて……あの、仕事じゃない方のバレンタインです」
 はっきり言うのも照れるので、私はぼそぼそと告げてみた。こういう時は主任も勘が冴えているみたいで、すかさず察してくれるのがうれしくもあり、くすぐったくもあり。
「ああ」
 腑に落ちた顔で頷かれた。
「今年は上手い具合に日曜日だもんな。何か考えてたか?」
 ――そうか、営業チョコは金曜日のうちでなくてはならないけど、そうじゃないチョコは当日に渡してもいいんだ。どうして思いつかなかったんだろう。
「はい。私、主任に何かプレゼントをしたいなって思ってたんです」
 話しながら考えておく。主任はきっと遠慮をするだろうから、そこはぐいと押してみよう。それからバレンタイン当日にお買い物に誘って、プレゼントを一緒に選んでもらおう。うん、名案。
「プレゼントなんていいよ、別に」
 案の定、主任には気遣わしげな顔をされた。
「今月はチョコ用意するのに金かさむだろうし、別に張り切らなくたって」
「予算については大丈夫です。ばっちりです!」
「そんなこと言われたってな……」
 困ったように視線を外され、私も一瞬、押しどころに迷う。本当に大丈夫なんだけど、そう連呼するとかえって危なっかしく見えるだろうか。どう伝えたらいいかな。
 考えているうちに、つり目がちの眼差しが戻ってきた。何か思いついたような顔をしている。
「だったら、なるべく低予算で済むプレゼントにしてくれ」
 おもむろに言われた。異論は当然あった。
「お気遣いなく。主任にはいつもお世話になっていますし、それにクリスマスの時とはまた別の、形に残る贈り物がしたいんです」
「まあな、鮭も美味かったが、今度は違うものがいい」
 思い出したのか主任が笑う。私もちょっと照れる。
「ですよね。今度は食べ物以外でって考えてます」
「むしろ買ってくるような物じゃなくてもいいだろ? 俺は小坂がいてくれればそれで十分だからな」
 さらっとどぎまぎすることを言ってきた主任は、その後で声を潜めた。エンジン音のとっくに止んだ車内は耳が痛くなるほど静かで、抑えた言葉もよく聞こえた。
「十三日、泊まりに来ないか?」
 そう聞こえた。
 私はぽかんとする。十三日っていつだっけ、と頭の隅っこで思う。
「上手い具合に日曜だからな、バレンタインデー。どこか旅行に連れ出すのもいいかと思ってたんだが」
 向けられた眼差しは鋭利だ。ぼんやりしていたら簡単に貫かれてしまう。
「今のお前の張り切りようを見るに、遠出でもしようものなら日中だけで電池切れそうだからな。最初はもう少し落ち着いて過ごすのがいいんじゃないかと思った。どうだ?」
 どうと聞かれても答えられない。
 もちろん質問が聞こえなかった訳でもなく、理解していなかった訳でもない。ただその、さらっと言われるような台詞以上にどぎまぎさせられているだけだ。だってまさか、泊まるって。
「え、ええと……」
 やっとの思いで声を絞り出す。質問を返す。
「主任のお部屋に、ってことですか」
「ああ」
 事もなげに頷く主任。もう一つ聞いてみる。
「二人だけで、ですか」
「当たり前だ。他にいたら邪魔だろ」
 答えながら笑われてしまったけど、一緒になって笑うことは出来なかった。
 やっぱり、二人きりなんだ。
 主任のお部屋に泊めてもらう、ことになるのかな。どうしよう頭がついていかない。恋人がいるのも初めてなら、こういう機会も初めてだ。どう答えていいのかちっともわからない。
「嫌か?」
 まごまごしているのを認めてか、覗き込む姿勢で聞かれた。いつの間にシートベルトを外していたんだろう。顔を近づけられると身動きが取れない。そういえば私はまだシートベルトをしたままだ。
 見つめられるとどきどきする。私は主任の目の形も好きで、そこに小さな光が揺れているのがわかると不思議な気持ちになる。義務感に似た、だけど少し違う感情が怯える心を叱咤する。
 とっさにかぶりを振った。
「い、いいえ。そんなことはちっとも、ないです」
 言い切ったものの、私はその後に続ける言葉があるような気もして、一度視線を落とす。嫌じゃないのは本当。嘘でもない。
 だけど、
「じゃあ決まりだな」
 主任は急かすそぶりでこの件を決定事項にすると、両手で私の頬を挟んで、少し強めに上を向かせた。
 また目が合う。どきどきする。
「十三日と十四日。忘れるなよ、小坂」
 言い聞かせる口調の時、表情はすごくいい笑顔だった。どんな約束をしたのかさえ吹っ飛んでしまいそうなくらい。

 車を降りて、テールライトの赤が曲がり角の向こうへ消えてしまった時、ようやく思った。
 主任の前でパジャマを着ても失礼じゃないかな。
 聞いておけばよかった。
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