Tiny garden

ジンクスとチョコレート(1)

 恋人同士になったからといって、何もかもが大きく変わる訳でもない。
 ――と言うよりもむしろお付き合いをする前から恋人っぽかっただけかもしれないけど、とにかく以前と変わらず、勤務後に主任の車で家まで送ってもらうことがあった。毎日一緒に帰れるような仕事をしている訳ではないから、時間の合った時だけ、車高の高さにもすっかり慣れたあのSUV車にお邪魔している。
 そういう時に石田主任が言う建前も、以前とちっとも変わってない。

「あくまでも偶然だからな。たまたま帰る時間が一緒になったから、ついでに送ってやろうとしてるだけだ」
 帰り道の方向からして違うのに、その点を本題にしないところも相変わらずだった。
「冬のうちは特にな。寒いから、送れるなら送ってやりたいんだよ」
 二月の初め、午後八時過ぎ。確かに少し冷え込んでいて、車内が暖まるまでの時間で手を繋いでいたりする。今は運転中だから、主任のひんやりした手はハンドルを握っているけど。
「だからお前が気に病む必要なんて全くない」
 運転席の主任はいつも言い切るけど、私としては気に病まない訳にもいかない事柄だ。何せ会社からは交通費を支給していただいて、それで定期券を購入している身分だ。
「会社へは電車通勤だって申請してるのに、いいんでしょうか」
「お前も変なとこ気にするよな」
 苦笑の後で言われた。
「そりゃ行きも帰りも送ってもらって、交通費をそっくり浮かしてるっていうなら問題だがな。お前の場合はちゃんと定期買ってるんだし、帰りも毎日送られてる訳じゃないだろ。問題ない」
 それはわかるんだけど。定期を使ってない日の分はちょっともったいない気がするし、そもそもその分は主任に対して、足代としてお支払いするべきなんじゃないかな、と思う。気にするのは変かなあ。
「ただ、主任にご負担が掛かってるんじゃないかなって……」
「いつも言ってるだろ、負担なら端から送ってない」
 私の問いを軽くあしらう主任。横顔が笑っている。
「お前がそこまで気にするんだったら、いっそ行きも一緒に通うか? 会社にもそう申請して」
 時々さらりと意味深長なことを言い出すのも相変わらず。そういう時に私がどぎまぎしてろくに反応も出来なくなるのだってやっぱり以前の通りで、まごついている顔を横目に見られて、また笑われた。
「わかりやすい顔してるよな」
「……すみません」
 だって、顔に出る方なんです。ばればれなんです。
 それに主任と一緒にいる時間が増えて、恋人同士でいることすら現実になった今、以前では考えられなかったような未来まで想像してしまう時がある。
 いつかは主任のことを、別の呼び方で呼ぶようになるのかな、とか。
 いつかは、一緒に暮らすようになるのかな、とか。
 ――考えた後で心拍数が急上昇して慌てて止めるのもよくあること。主任がまだにやにやしているので、とりあえず話の矛先を変えてみようと一息つく。切り出してみる。
「あの、せめて私が車を持っていたら、順番に送りっこ出来たのかもしれないですね」
「車か。そういえば、小坂は車持たないのか」
 主任が興味深げに尋ねてくる。
 私は免許こそあっても、車はお父さんのしかない。そしてうちのお父さんも会社へはマイカー通勤しているので、私もするとなったらまず車を買わなきゃいけない。そして『欲しいから買う!』なんて即決出来るような買い物でもない訳だから。
「欲しいとは思っているんですけど、まだまだ余裕がなくて」
「じゃあ、将来的には欲しいってとこか」
「はい。今のところは、他にお金を使うべき箇所もありますし」
 あればいいなとは思う。通勤以外にもお買い物とか旅行とか、いろいろ便利になるし、欲しいんだけどな。
 でも社会人一年目の私に贅沢なんて出来るはずがない。限られたお給料の中から使途を吟味して、計画的に使っていかなくてはならない。車はまだ先の話。今月だって早速使うべき行事予定があるのだし。

 二月になったら、一番気になるのはバレンタインデーだ。
 めでたくも恋人いない暦二十三年にピリオドを打った今年度。私みたいなすっとこどっこいの恋人になってくれた人の為、初めて迎えるバレンタインデーは何か、贈り物をしたい。去年のクリスマスは食べ物を選んだけど、次に贈るものはもう少し、何と言うか、形に残るものがいいと思っている。始終身に着けてもらえるような、そういうものが。
 ただこれにも問題はあって、石田主任は三十歳であり、私よりもはるかに大人の男性である。つまりルーキーがなけなしのお給料をはたいて買った品すら、主任にとっては安物になってしまわないかという心配が。そりゃあプレゼントはお金じゃないと言うけど、せっかく差し上げたものを使っていただくのに不都合があるようでも困る。そして一番の問題として、私は魚と小豆と電化製品以外の主任の好きなものを知らない。お酒も相当詳しいに違いない、でも詳しい人に詳しくない人間がそれを贈るというのも難しい。あと猫よりは絶対犬の方が好きなんだろうとも思うけど、贈り物には出来ない。当たり前。
 きっと、主任に欲しいものを尋ねてしまうのがてっとり早いのかな。主任なら『気は遣わなくていい』って言いそうだから、そこをあえて遣わせていただく方向に押していくのが。

 信号が赤になるのを待って、私はさりげなく口を開いた。
「ところで、あの、もうじきバレンタインデーですよね!」
 ものすごく意気込んだ切り出し方になってしまい、ちっともさりげなくはなかったように思う。自然と背筋も伸びてしまう。ばればれなのは顔だけじゃなかった。
「ああ」
 からかってくるかと思った主任は意外と普通の声で応じてから、何かに気付いたように早口になった。
「そうだ、バレンタインな。お前に言っとかなきゃと思ってたんだ」
「は、はい!」
 私に言っておかなくてはならないことって、どんなことだろう。もしかしてプレゼントを指定してくれるのかな。だったらありがたいな。
 そんなことを暢気に考えていたら、
「得意先へのチョコレート、忘れず用意しとけよ」
 勤務中の表情になった主任が、ふとそう言った。
「……え?」
 思わず聞き返すと、しょうがないなと言わんばかりに笑われる。
「え、じゃなくて。バレンタインだろ、売り込みのいい機会だろ」
「でも、ええと、そういうのって、配ってもいいんですか?」
「どこでもやってるよ。義理チョコならぬ、営業チョコだ」
 営業チョコ。なんて現実的な響き。
 義理にしたって、そう親しくない相手にまであげたことのなかった私には、なかなか予想外の発言だった。
「そんなに立派なのじゃなくていいからな。小さい奴でいい、年賀状と一緒で気持ちが伝わればいいんだから」
 信号が変わり、ギアをセカンドに入れながら主任が語る。
「お前みたいに若い子が配ったら、先方の心証だって良くなるだろうしな。絶対喜んでもらえるから可愛く配ってやれ」
 可愛く、というところが一番難しい気もするんだけど、ともあれ営業チョコは用意しておくべき品のようだ。ルーキーの私は当然こういうのも初めてだから、何だかびっくりしている。
「もしかして、主任もお配りになられるんですか」
「何でだよ。俺が配ったって誰にも喜ばれないだろ」
 尋ねたらすかさず突っ込まれてしまったけど、そういうものなのかなあ。
「あの、営業チョコって言うから、てっきり営業職の人なら皆配っているのかと……」
「ないない。俺らは貰う側だ」
「あ、じゃあ取引先でも用意をしているってことなんですか」
「向こうだっていい機会だからな。バレンタインなんてのは最早ビジネス的チョコが行ったり来たりするイベントへと成り代わってるんだよ」
 ロマンのかすむ発言をした後で、主任は力のない苦笑を浮かべる。
「お蔭でホワイトデーが近くなると面倒でしょうがなくてな。お返し一つにも気を遣うし、男にとっちゃ厄介でしかないイベントだ」
「大変なんですね」
 と、慮るのも何だか筋違いかもしれない。私も一応贈る側となる訳だし、先方にどう思われるかはいささかの不安が。『要らないのに取引先だから断れない』なんて思われたらどうしよう。
「もっとも、お前の場合はチャンスだと思っていい」
 私の不安をよそに、私に営業の仕事を教えてくれた人が力強く言う。
「公然と若さを武器にしていい機会なんてそうそうないぞ。頑張って気を引いてこい」
「わ、わかりました!」
 バレンタインデーなんていうロマンチックな行事にすら仕事が絡んでくるとは思わなかった。ちょっとだけ、正直、複雑。
 だけどチャンスといえばやっぱりチャンスなんだろう。だって女の子だけの特権だ。うちの営業課の中でも、バレンタインデーに営業チョコを用意出来るのは私だけだ。そしてこれが次の契約に結びつくなら、チョコの十個や二十個、別に高いものでもないはず。それこそ年賀状を用意した時と同じ気持ちで買い揃えておこう。よし。
 気を取り直して新たに意気込んでいれば、
「……一つだけ注意しとくが」
 不意に主任が、ぼそりと言った。
「渡す時は営業用だって念を押せよ。間違っても、本命だと思われないように」
「え?」
 また聞き返してしまった私は、運転席になぜかふくれっつらの、勤務中ではない主任の横顔を見た。

 ビジネス的なバレンタインデーが複雑なのは、女の子に限った話じゃないみたいだ。  
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