Tiny garden

カメラマンとその恋人(8)

 どうしてその人なんだろうっていう感想は、ごくありふれたものだと思う。
 他人事じゃなく、私も誰かに思われているかもしれない。石田主任の恋人が、どうして私なんだろう、とか。
「前に、お話をうかがいました」
 相槌のつもりで切り出してみる。
「長谷さん――霧島さんの奥さんは、人の顔を覚えるのが苦手でいらっしゃったのに、霧島さんのことはすぐに覚えてしまったんだって」
「そうそう」
 主任は二度、顎を引いた。
「今となってはそんなもんだろうな、で片が付くがな。当時は不思議でしょうがなかった。霧島の奴、どんなこずるい手を使ったんだろうって安井と話してた」
 見たことないけど、その光景が浮かんでくるようだ。まだ主任じゃなかった頃の主任と、まだ営業課にいた頃の課長。それから、まだ恋人同士ではなかった頃の霧島さんと長谷さん。
「結婚式では、たまたま通勤の道が一緒だったから親しくなったってお話でしたよね」
 披露宴で付き物の馴れ初め紹介では、そんな説明がされていた。つい今月お邪魔したばかりの霧島さんのアパートは、駅から徒歩五分。その道の先には長谷さんのお住まいがあって、お二人はよく一緒に帰っていたのだそう。
 同じ道を一緒に辿るのって、いかにもお二人らしいと思う。今日だってそう。チャペルの中のバージンロードを、寄り添い合って共に歩いていた。
「俺たちはそこに、更に何かあったんじゃないかって睨んでたな」
 意味ありげに打ち明けてくる主任。
「更にって、どういうことですか?」
「あいつらの出会いのきっかけ。同期だから、道が一緒だったからってこと以上に何かあって、それで霧島の奴は顔を覚えてもらったんじゃないかと思ってる。でもあいつ、未だに口を割らないんだ」
「ふうん……」
 霧島さんが秘密にしたがっているのなら、きっと素敵なきっかけがあったんだろうな。そういう出来事ほど他の人には黙っていたくなるものだ。二人だけで共有していたいって思うものだ。
「ともあれ、その何がしかのきっかけで、霧島が長谷さんの心を捕まえたんだろうな」
 ぼやくように言って、主任は口元を緩めた。
「そういうもんなんだよな、つまり」
「そうなんでしょうね」
 私も思う。運命って一言で片付けちゃうと安易かもしれない、でもそういうめぐりあわせは必ずあって、長谷さんには霧島さんじゃなくちゃいけなかったのだと思う。もちろん逆も然りで、お二人はちゃんと出会うように決まっていたんじゃないかなあ。
 結婚式に参列すると、そういうめぐりあわせを信じたくなってしまう。私、つくづく単純。
 でも私だってもしかすると、何がしかのめぐりあわせがあったから、こうして主任と二人でいられるのかもしれない。
「昔のこと、もっとお聞きしたいです」
 そうお願いすると、主任は少し困ったように笑んだ。
「他に面白い話なんてあったかな。結構くだらない話も多いし」
「構いません。どんな話でも絶対面白いです、私にとっては」
 私は、入社する前の主任がどうだったのかはちっとも知らない。主任がどんなルーキーで、どんな風に歳を重ねて、どんな風に過ごされてきたのか、いくつかお話は聞いたけど、見ていた訳じゃないから。
 安井課長が営業にいた頃、一緒にお仕事をしていた主任を。皆のアイドルだった長谷さんをジンクスにしていた主任を。ルーキー時代の霧島さんをずっと支えてきた主任を、もし叶うのなら見てみたい。――だけどそれはどうにもならないことで、あのデジカムに私の知らない主任が映っていることはない。
 私がこの目で見ているのは入社してからのことだけ。もうじき三十歳になろうとしていた『優しくて立派な主任さん』と、三十歳になってから少しずつ距離を縮めて、遂には恋人にしてもらえた好きな人の姿。ちょうど目の前で、懐かしむように笑んでいるその様子。
「あいつらの馴れ初めなんて、俺が知ってるのはこのくらいだ。あとは――」
 視線がこちらへ流れて、ためらいがちに私へ留まる。
 熱を帯びた視線だった。触れられたようで少し、ちりっとした。
「お前がいてよかったって思う」
 昔話のはずなのに、そんな風に呟かれた。
「私、ですか?」
「ああ。お前がいなかったら、今日の結婚式はもう少し違う気分で参列してたかもしれない」
 語りながらおかしそうに笑っている。
 酔っているのかもしれない。
「俺が前に話したの、覚えてるか? 『好きな人』のいる恋愛なんて久しくしたことがないって」
「……はい」
 覚えていた。
 その時は想像出来ないと思った。好きな人のいない恋愛ってどういうものかまるでわからなかった。三十歳になったらわかるのかもしれないけど、私はまだ二十三だから、今でもよくわからない。
「俺は当時からそう考えてた。好きな人なんて作ってだらだら片想いしてるのは時間の無駄で、可愛い子がいたらまず、あわよくばと考えるのが常だった」
 あわよくばって、いかにも主任らしい物言いだ。
 私が思わず吹き出すと、主任ははっとしたように瞠目して、慌てて添えてきた。
「昔の話だからな」
「え? あ、存じてます」
「本当か? 今、妬かなかったか?」
「ええと……多分、大丈夫です」
 曖昧に答えた私も、酔いが回り始めているみたいだ。
 冷静に考えたら、主任があわよくばと考える女の子がいたなんて、ちょっと切ないはずなんだけど。昔話に嫉妬する気持ちはさらりとどこかへ消えてしまって、今は知りたい気持ちの方が強かった。そういえばカルーアミルクって結構度数がきついんだっけ。
 アルコールに取り込まれた空気の中、主任がぎくしゃく背筋を伸ばす。
「とにかく、昔の話だ。その頃の俺はそう思ってた。いい具合に歳も食ったし、悠長な恋愛してる暇もないってな」
 話が戻る。
「だから、霧島が長谷さんに惚れて、なのにだらだらと何もしない時間を過ごしてたのを横目に見てた頃は、あいつはどうかしてるんじゃないかと思った」
 霧島さんたちの話に辿り着く。
「そりゃ霧島は俺より二つ若いし、その分だけ時間の感覚も違ったのかもしれないがな。ぼんやりと片想いなんかしたって意味ないし、付き合ってからだってずっとのんびりしてるのには呆れた。とっとと結婚すればよかったのに、どうして三年も掛けてるのかってこっちが焦れた」
 主任が笑う。照れを含んだ笑みだった。
「でも、最近わかった」
 眼差しはやはり熱い。私を捕まえてしまっている。
「好きな奴がいるって、何もかもが楽しくなるってことなんだよな」
 打ち明けられて、そうかもしれないと酔いの回った頭で思う。
 好きな人がいるのって幸せなことだ。ちょっとしたことでどきどきしたり、うれしくなったり、頑張ろうって思えたりする。私はそれだけでもいいくらいだった。ずっとそれでいいって思ってきたけど、でもその価値観が少し前に変わった。
「お前が傍にいる時もいない時も、事あるごとに楽しい気分になってる。お前のことを考えるだけで愉快で、どんな話をしようとか、どんな風にして過ごそうとか、どんなメールを送ってやろうとか、そういうことに頭使うのが楽しくてしょうがない」
 それから主任はちょっぴり悔しそうな笑い方をして、
「霧島もこんな気持ちでいたから、あんなに時間掛かったのかって、そう思うようになった。そりゃじっくり味わいたくもなるよな、毎日のように笑ってられるんだから」
 更に、思い出したように鼻を鳴らした。
「だからって俺は、三年も掛けようとは思わないがな。そんな余裕はない」
 でも、その後にはやっぱり笑んだ。それこそ楽しそうに声を立てて。酔いのせいか、笑う声まで熱っぽい。
「ただ、とりあえず今日は――あいつらが重ねてきた年月の意味、わかった気がする」
 私を捕まえている眼差しも熱い。
 見たことのない色が、表情にちらついている。
「お前のお蔭だ、小坂」
「……え」
 告げられた言葉に私は息を呑む。私、別に何もしてないのに。
「今夜は特に、お前がいてくれてよかった」
 熱っぽい声が呟いた。
「好きな奴と酒飲みながら思い出話が出来て、それで楽しいなんて、最高だよ」

 カルーアミルクは結構アルコールがきつい。
 ちびちび飲んでいるうちにグラスが軽くなってきた。披露宴でも少しだけお酒を飲んでいたから、もしかすると私は酔いが回っているのかもしれない。
 頬っぺたが熱かったし、さっきからずっと主任のことばかり考えている。バーの落ち着いた照明の下、よくわからない色味の感情が胸に根付いて、私をどうにかしようとしている。視界の隅、窓の向こうで灯台の明かりがぐるりと薙ぐと、胸の奥でも何かがぐるりとした。
 今日は、恋人同士になってから初めてのデートだ。
 この間、言ってもらった。好きだって。
 そして恋人にもしてもらった。臆病で、迷ったり考え込んだり堂々巡りしたりしているルーキーの私を、それでも待っていてくれたし、手を差し伸べてもくれた。他の人と同じく、私の為にも一生懸命になってくれた。
 これからは誰かの為に頑張っている主任を私が映していきたい。デジカムよりは精度も悪いし頼りないけど、なるべくたくさんのことを覚えているようにする。
 そしてまたいつか思い出話がしたい。たくさんの思い出を作って、二人でお酒を飲みながら楽しく話してみたい。今夜のように。

「……主任」
 私は、恋人になってくれた人をそっと呼ぶ。
 お名前で呼んだことはないし、この先も多分呼べない。主任が主任じゃなくなったらどうしようというのが目下の悩みどころだ。
「小坂」
 主任は、私を名字で呼ぶ。
 名前で呼んでもらったことはない。この先、そういう機会があるだろうか。あるといいなと思うし、でもいざ呼ばれたら絶対どぎまぎするだろうな、とも思う。
 溜息交じりの声がふと、くすぐったそうに躍った。
「ああ、俺、酔ってるよな。何かすごく恥ずかしい話をしたような気がする」
「そんなことないです。いいお話でした」
「そうか? 酔いが覚めてから身悶えるかもしれない、後で気まずそうにしてたらそっとしといてくれよ、小坂」
 酔いを隠していない笑顔。胸の奥で放線状の光がぐるりと薙いだ。弧を描いて照らし出したのは、私自身の知らない気持ちだ。
 どうしよう。
 私、主任のことが好き。ものすごく、離れがたいくらいに好き。

 お店を出てからはタクシーに乗り込んで駅へと向かった。
 駅での別れ際、人気のないコンコースで頬っぺたにキスされた。私は酔いのせいにして幸せだけを噛み締めておく。酔いが覚めたら、お互いに気まずく思うことになりそうだ。
「ありがとう。お前のお蔭で楽しい夜だった」
 一人の部屋に帰る主任は、それでもちっとも寂しそうにしていなかった。楽しそうな顔をしていた。寂しがっていたのは私の方なのだと思う。
 いい夜だったからか、酔っているからか、幸せな結婚式に居合わせた後で人恋しかったからなのか。恋人になってくれた人と過ごした、最初のデートだったからか。
 一緒の部屋に帰れたらいいのにって思ってしまった。
 そんな大それたことを考えたのも、きっと今日が結婚式で、そして私が酔っているからだろう。今は欲張りにも思っておく。不束だからとか、分不相応だからとか、そんなことは後で存分に省みることにしよう。だから。
 今は思う。いつか、本当にそうなったらいい。
「……どうした、小坂?」
 人のいないコンコース。私の肩を捕まえたままの主任が、怪訝そうに尋ねてくる。
 私は酔いに任せて応える。
「あの、また是非、誘ってくださいっ」
 そうしたら主任は力一杯、当たり前だと言ってくれた。
 寂しさと幸せとよくわからない感情が混在する、初めての、とてもいい夜だった。
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