Tiny garden

カメラマンとその恋人(7)

 私は主任に連れられて、海岸通り沿いにあるお店へと入った。
 二階建てのその建物は、本当に海のすぐ傍に建っていた。一階はお食事がメインのダイニングで、お目当てのバーは二階にあるとのこと。狭い階段を上がった先、分厚いドアを開けると、照明の控えめな店内が広がる。
 それほど広いお店ではなかった。小さなカウンターの他はテーブル席が数えるほどあるばかり。テーブルは全席が窓際に面していて、夜の海がぐるっと見渡せる。結婚式では海を見ている暇なんてなかったからちょうどよかった。
 テーブル席に座ると、彎曲する汀線の向こうに小さく灯台が見えた。そこから長く伸びる光が、空を覆う雲と海面とを薙ぐように照らしている。月も星も見えない夜だけど、灯台の明かりが薙ぐ度に雲や波間の模様が見えて、これはこれでとてもいい眺め。

 冷える夜だった。私も主任も温かいお酒を飲もうと一致して、私はカルーアミルクのホットを、主任はカフェロワイヤルを頼んだ。カフェロワイヤルはバーテンダーさんが卓上で、角砂糖に火を点すところまで見せてくれた。カップとスプーンの上にきれいな青い炎が上がったから、私は大慌てで携帯電話を取り出し、写真を撮った。主任にもバーテンダーさんにも少し笑われたけど、化学の教科書みたいにきれいな画が撮れた。ただ、写真だとブランデーのいい匂いまでは残しておけないのが残念。
 角砂糖が溶けて、カップの中に落とされたところで、本日二度目の乾杯をする。
「今日はお疲れ様でした」
「お疲れ。何だかんだでいい式だったよな」
「はい、とっても」
 温かいカルーアミルクは甘くて、美味しかった。ふうふう言いながら少しずつ飲んでいたら、向かい合わせに座った主任が、なぜか小さく吹き出した。
「そういえばお前、水割りの似合う女になりたいって言ってたな」
「……言ってました。でも、ちょっと諦めかけてます」
 十一月の取引先との飲み会で、水割りがあまり口に合わなかった私。あれ以来機会があれば飲んでいて、どうにか慣れようと頑張ってみてはいるものの、未だに美味しさがわからない。うちのお父さんは水割り、すごく美味しいと言っているけど。
「あれはまさに大人の飲み物という感じがします」
 私が正直な思いを呟くと、また笑われた。
「当たり前だろ。酒なんだから」
 確かに。もっとも過ぎて恥ずかしくなったけど、あえて反論してみる。
「あの、でも、お酒の中でも特に大人っぽい印象がありませんか? ビールとか甘いカクテルとは一線を画してるように思います」
 水割りの似合う女の人って大人っぽくて素敵だ。私もお酒自体の味がわかるって胸を張れるようになりたいのに、今はまだ炭酸や甘味頼り。それでもカルーアはすごく美味しいから、水割りが飲めるようになっても、甘いお酒を好きでいることは変わらないだろうけど。
「酒は好きなもの飲むのが一番楽しいんだって。無理するなよ」
 主任にはたしなめるような口調で言われた。それから、
「そうでなくても、今のお前は酒の似合う女になってる」
 とも言い添えられたから、私は自信なく小首を傾げる。
「だといいんですけど、この間、中学生の子みたいだって言われちゃいましたから」
「俺はこの間、大人にしか見えないって言ったぞ」
 強調された言葉には覚えがあった。主任はつり上がった目を眇め、どことなく満足げな顔をする。
「特に今日はいいな。連れ歩いてても鼻が高い」
 それは褒め過ぎじゃないだろうか。
 言われて私は、普段とは違う格好をしていることを妙に意識したくなる。テーブル越しに向けられる視線は心なしか熱っぽく、お酒の温かさともあいまって、私まで熱せられたように感じた。慌ててグラスに視線を落とすと、主任の声が捕まえにくる。
「さっき、一人で何を考えてた」
 やっぱり聞かれた。
「た、大したことではないです。今日の、結婚式についてで……」
 途端しどろもどろになってしまう。もちろんありのままには言えないから、どうにかして誤魔化したいところだけど、
「本当か? どうして一人で、あんなににやついてた?」
「あんなにって、そんなに顔緩んでましたか?」
「ああ。もうでれでれだった」
 でれでれとは。せっかく普段と違う格好をしているのにでれでれって、穴があったら入りたい気分だ。今度から、考え事一つするのにも気を引き締めよう。
「そ、その、本当に結婚式のことを考えてたんですよ。嘘じゃないです」
 こちらの言葉を受けて、意味深長に主任が問う。
「俺との?」
 ――いい読み。
 息を呑む私。一瞬間を置き、低く笑い出す主任。
「それは隠すべきことじゃないだろ。よしよし、そのうち結婚しような、小坂」
「駄目ですそんな、私まだ全然不束者ですし!」
「その台詞こそ気が早いぞ、ちゃんと新婚初夜に言ってもらおうか」
「いえ、違うんです、違うんですってば……」

 冗談抜きで本当に不束なんだけどな。料理もそれほど得意じゃないし、一人暮らしもまだしたことないし、主任と一緒に暮らすなんてしたら、職場でもおうちでも始終迷惑掛けっ放しってことになっちゃいそうな気が。そんなの駄目、絶対駄目。それ以前に私は社会人一年目の未熟者、結婚について考えようなんて分不相応じゃないだろうか。
 今日の新郎新婦はもう立派な社会人でいらっしゃったし、三年間きっちりとお付き合いしてからのご結婚ということで、まさに相応という感じがする。時間を掛けてじっくり培ってきた関係は、きっと何物にも代えがたい。
 もちろん代えがたいのは、愛情に限った話ではないとも思う。
 今日の主任を見ていたら心からそう思えた。

「――あの、さっきも言いましたけど、今日は本当にお疲れ様でした」
 居住まいを正してから話題を戻すと、何やら苦笑された。
「話を逸らしたな、小坂」
「すみません、で、でもさっきみたいにでれでれになっちゃうと、恥ずかしいですから」
「そうだな。そういうのは本当に二人っきりの時にな」
 聞き流しがたい言葉が耳に留まったけど、
「とりあえず、今日はありがとな。いろいろ手伝ってくれて」
 私をよそに主任の方が、今度は話題を戻してみせた。
 もう一度居住まいを正してから、答える。
「お、お役に立てたなら光栄です」
「立てた立てた。小坂がいてくれて助かってる、感謝してるよ」
 優しい口調で言われると、一転して舞い上がりたくなるから困る。
 そんなに感謝されるようなことしてないのに。でもうれしい。主任にそういう風に言ってもらえるのがうれしくて、立ち上がって飛び跳ねたくなるくらい。
 こんな静かなバーですることではないから、しゃんとしているけど。
「いい画が撮れましたか?」
「ばっちりだ。それこそ今度上映会しような、新婚さんの新居で」
 新居という言葉が出てきたので、私は尋ねた。
「そういえばお引っ越しされたんでしたね、霧島さん」
「ああ、籍を入れてすぐにな。それだって今更みたいなものだが」
 この場にいない人をからかうような口ぶりの主任。だけどその主任が、霧島さんたちのお引っ越しのお手伝いに行ったことは聞いていた。手を貸しただけではなく車も出したのだそう。ご本人が言うには『三人の中で一番大きい車持ってるのが俺だから、しょうがなく出してやった』らしいけど。
 私は、主任のそういう優しさが好きだった。
「お引っ越しのお手伝い、私も行きたかったです」
 何だか遊びに行くような言い方になってしまったけど、思っていたのは事実だからそう告げた。同じように感じたか、主任にもすかさず突っ込まれた。
「行きたかったって、そんな面白いもんじゃないぞ。あんなのはくたびれるだけだ」
 カフェロワイヤルを一口飲んだ後、いくらか柔らかい声音で付け足された。
「俺が連中にお前を紹介したのは、そういうことをさせる為じゃない。美味いものを食べる時とか、飲み会の時は来てもいいが、こういうくたびれることはしなくていい」
「そんな、平気ですよ。こう見えても体力には自信ありますから」
 私は胸を張っておく。
「それに主任は、そんな『くたびれるだけ』のことをご友人の為になさっていて、とっても素敵だと思います。私も是非、見習いたいです」
「……いや、そんな大したもんでもない」
 急に照れた様子で、主任は頬っぺたを掻く。でも大したことだと思う。
 誰かの為に一生懸命になれるような人に、私もなりたかった。全世界の人の為、なんていうのは無理だから、せめて自分に出来る範囲内で。私の好きな人たちの為に頑張れるようになりたかった。石田主任みたいに。
 だから今日はうれしかった。皆で一緒に霧島さんたちをお祝いした。
 霧島さんたちの為に頑張っている主任の、お手伝いが出来た。
「あいつらとは、付き合いだけは長いからな。先を越されたのは悔しいが、こういう機会は一度で済んで欲しいし、だったらめいっぱい手を貸してやろうと思っただけで……おい、笑うなよ小坂。まだ話の途中だぞ」
「す、すみません。笑わないよう頑張ってみたんですけど……!」
 だって、語るに落ちたって感じなんだもん。明らかに素直じゃない感じの主任が、何だか可愛くて堪らない。可愛いなんて言うと失礼だから黙っているけど、本当はちょっと言いたかった。
「まあ、今日くらいは認めてやるか」
 拗ねてしまったのか、やや不満そうに主任が、それでも笑いを隠し切れない様子で続ける。
「あれこれ言ったって、結局はいい夫婦だよな、あいつら」
「はい。同感です」
「我が営業課のアイドルも、遂には結婚か。月日ってのはあっという間に過ぎるな」
 しみじみと語られた言葉にふと、結婚式の後、安井課長と交わした会話が甦る。
 課長の寂しそうな横顔も一緒に思い出した。
 営業課のアイドル。そう呼ばれていた長谷さんは、霧島さんの恋人になって、そして花嫁さんになった。でもアイドルだった長谷さんを慕っていたのは霧島さんだけじゃなかったはずだ。
 私の目の前、主任が懐かしそうな顔をしている。思いを巡らせるように言った。
「初めのうちは、純粋に疑問だったな。どうして霧島なんだろうって」
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