Tiny garden

カメラマンとその恋人(3)

 しんと静かな通路を辿り、建物の奥へと進む。
 階段を一つ上がった先、『新郎控室』とプレートの貼られたドアの前で安井課長が立ち止まる。軽くノックをすると、間を置かずに返答があった。
「どうぞ」
 落ち着いた、霧島さんの声。
 課長がドアノブに手を掛ける。その時主任がこっちを見て、何だかわくわくした様子で笑ってみせたので、私もつられて笑ってしまった。実際、花婿さんとお会いするのが楽しみでしょうがなかった。

 控え室はドアの大きさの割に広くない。窓がないから余計にそう感じるのかもしれない。
 アイボリーの壁紙と調和する大きな姿見と、アンティークのワードローブ、それから革張りのソファーに四角い黒檀のテーブル。目を引くものといえばそのくらいで、本当に控えているだけの部屋といった印象だった。
 もっともそこに、白いタキシードを着込んだ花婿さんがいたら、調度の印象なんて吹っ飛んでしまう。
「あ、来てくださってありがとうございます」
 ソファーから立ち上がった霧島さんは、いつものように穏やかな微笑を浮かべた。眼鏡を掛けた表情の優しさもいつもと変わらず、髪は勤務中よりも更にしっかりとセットされていて、そしてタキシードだ。これがものすごく格好良かった。フロックコートまではいかない、長めの着丈の真っ白なタキシード。これが霧島さんの知的で優しい雰囲気とよく合っていて、今日の石田主任が紳士なら、霧島さんは伯爵とお呼びして差し支えないような気がする。
 ――それ以前にそもそも、花婿さんであらせられるのだけど。
「おめでとう」
 主任がまずそう言ったので、私はそこで我に返る。と言うより、見とれていたことにその瞬間やっと気付いた。
「前に見た時より似合ってるな。なかなか決まってるじゃないか」
 うれしそうに付け加えた主任に対し、霧島さんはやや照れた面持ちで応じる。
「先輩に褒めてもらえる日が来るとは思いませんでしたよ」
「失礼な奴だな。いつも褒めてるだろ、仕事のことに関しては」
「プライベートの方が手厳しいですからね、石田先輩」
 そんなやり取りの後、主任と霧島さんがほぼ同時にこちらを向いた。
 つまりここが私のタイミングだと思って、すかさず口を開いてみる。
「あの、本日はご結婚おめでとうございます!」
 なるべく気負わず、がちがちにもならないように告げたつもりだった。声は裏返らなかったと思う。でも自然と『気を付け』の姿勢にはなってしまった。
 ともあれ、素敵な花婿さんは私にもにっこりしてくれた。
「ありがとうございます、小坂さん。祝っていただけてうれしいです」
「わ、私も、こんなおめでたい席にご一緒出来てうれしいです!」
 何だかおうむ返しみたいな物言いにもなってしまったけど、伝えたいことをちゃんと言えて少しほっとした。霧島さんがそこで幸せそうな笑みを浮かべてくれたから、もう一つ、添えてみる。
「今日の霧島さんは本当に、とっても素敵です」
 さっき主任も言っていた通り、以前に拝見した時よりもずっとよく似合っていたし、タキシードを着こなす姿にもどことなく風格と言うか、雰囲気の違いが表れているような気がした。これが安井課長言うところの『所帯持ちの自覚』なのかもしれない。
 でも所帯持ちの自覚っていう言葉はちょっと、ムードがない気がするなあ。別の言い方がいいなとこっそり思っておく。
「光栄です。小坂さんに褒めていただくと、何だか自信が出てきました」
 私の言葉に相好を崩す霧島さん。
 だけどそういう口ぶりでは当然、他のお二人が黙っているはずもなく、
「何だ霧島。俺が褒めたくらいじゃ自信もつかないってか」
「そうだぞ、俺だってさっきそれなりに褒めてやったじゃないか」
「そりゃあ……女性の目の方がこういうことに関しては、確かな感じがしますし」
「全世界の男に喧嘩売ってんのか、お前」
「奥さんに告げ口するぞ、式当日に若い子に鼻の下伸ばしてたって」
「売ってないですし伸ばしてないです。言い掛かりですよ!」
 控え室の中、三人でじゃれあい始めている。この辺りは式当日と言えど、実にいつものお三方らしいやり取り。私も緊張を忘れて、何だか吹き出しそうになってしまう。
 そうだ、奥さんと言えば――長谷さんはまだ着付けをしている最中なのかな。
 いや、それよりもむしろ、まだ『長谷さん』と呼んで差し支えないのかな。
 式よりも早く、既に籍を入れているという話は聞いていた。だから現在でも長谷さんはもう長谷さんじゃなくて、霧島さんになっている。ちょっとややこしいけど本当のことだからしょうがない。
 じゃあこれからは、長谷さんのことも『霧島さん』ってお呼びした方がいいのかな。それとも課長がそうしていたように『奥さん』とお呼びする方がいいのかな。でもちょっと照れるな、私が照れてもしょうがないんだけど。
「とりあえず撮影始めるから、霧島、何か気の利いたことでも言え」
「無茶な振り方しないでくださいよ先輩!」
「駄目だな、結婚生活には臨機応変さが一番大事だっていうのに」
 花婿さんをからかう主任と課長を眺めつつ、私が花嫁さんにお会いした時の対応を考えていると。

 不意にノックの音が、控え室に響いた。
 三人が一斉に話すのを止め、霧島さんが一人、答える。
「どうぞ」
 それでドアがゆっくり開いた。ドアノブを掴んでいるのは白手袋の、ほっそりとした女性の手だった。直にひょい、と顔が覗いて、
「あの……お取り込み中、失礼します」
 長谷さんが。
 ――花嫁さんが現れた。
 前に携帯電話で撮った画像を見せていただいた、あの時のドレスだった。その姿でするりと戸口に立っていた。
 細い肩を出すデザインで、幾重にもレースを重ねた優雅なスカートで、スパンコールがちかちかと身動ぎする度にきらめいていて、そしてきれいにまとめられた髪には透けるベールが、とても大切なものを包み込むようにふんわり掛けられている。
 全てが真っ白で、今日の粉雪みたいにきれいな花嫁さんだった。
 思わず溜息が出た。
 何と言っていいのか、とっさには、全然わからなかった。
 多分わからなかったのは私だけじゃなかったと思う。その時、他の誰もが口を利かなかったから。控え室の中は水を打ったように静まり、私のついた溜息一つさえ場違いに思えた。
 花嫁さんがはにかみ笑いを浮かべる。
「ええと、おかしくないですか? この格好」
 おかしいはずがない。私は、かぶりを振ることだけには成功した。
 そんな私の横を、白いタキシードの花婿さんがすり抜けていく。機敏な動作で戸口へ近づくと、ほっそりした腕の代わりにドアを支えた。そして真顔で尋ねた。
「ゆきのさん、その格好でここまで歩いてきたんですか? 大変だったでしょう」
「真っ先に言うことがそれか!」
 すかさず主任に突っ込まれていたけど、それは私も、さすがにその通りだなと思った。こんなにきれいな花嫁さんを目の前にして、一番先にすることが心配だなんて、いかにも霧島さんらしい。らしくていいのかな。
 もちろん花嫁さんがそういう霧島さんらしさを意に介した様子はまるでない。朗らかに答えた。
「着付けの方からはあんまり暴れちゃいけないって言われているんですけど、でもこっちの部屋から楽しそうな声が聞こえてきたから、つい様子を見に来たくなっちゃったんです」
「……あ、うるさかった、かな?」
 課長が気遣わしげに問う。花嫁さんはベールごと、ふるふると頭を揺らす。
「お気になさらないでください。もともと肩肘張った式にしようとは思っていませんから、楽しんでいただけたらそれで十分です」
 そして花婿さんと一瞬だけ、視線を交わし合ってから、私たちに向かってこう言ってくれた。
「石田さん、安井さん、それに小坂さん。今日は来てくださってありがとうございます」
 その瞬間の花嫁さんの笑顔に、早くもじんとしてしまった。主任と課長に並んで、私の分まで名前を呼んでもらえたのも、うれしかった。

 式までちょっとだけ時間があるそうだったので、主任がカメラを回すことになった。
 せっかくだから新郎新婦と並んでいろと言われてそうしてみたものの、私はどういう姿勢でいればいいのかわからなくて、ずっと直立不動でいた。そうしたら、写真じゃないんだからなと突っ込まれて、皆に笑われた。少し恥ずかしかった。
 その後、せっかくだから主任も霧島さんたちと一緒に写るのがいいんじゃないかなと思って、恐る恐る撮影の交替を申し出てみた。
「私、よかったら撮りましょうか?」
 主任は一瞬怪訝そうにしたけど、直に笑んで、私にデジカムを預けてくれた。
「そんなに難しいもんじゃない。後で編集も出来るから、好きなように撮れ」
「了解しました!」
 いそいそと液晶モニターを覗き込んでみる。小さな枠の中、カーペット敷きの床と、そこに掛かる複数の人影とが映っている。
「足元撮ってどうする。もっと上向け、上」
 言われて私はデジカムごと上を見てみる。床の模様が白い色に切り替わる。白いタキシードの裾と白いウェディングドレスの裾が映り込み、そこから更に上を目指せば、程なくして花婿さんと花嫁さんの和やかな表情が過ぎって、少し戻ってちゃんと留まった。
「今はこんな小さなカメラで動画が撮れるんですね」
 モニターの中の花嫁さんが興味深げに呟けば、
「文明の発展はまさに日進月歩ですね」
 と花婿さんもしみじみ応じる。
 そこへ主任と課長が、略礼服の装いとは裏腹の笑顔で割り込む。
「つくづく、ほのぼのしたカップルだよなあ」
「結婚に漕ぎ着くまでは牛の歩みよりも遅かったくせにな」
「早ければいいってものでもありませんから」
「ちゃんと時期を見てたんですよね、映さん」
 私はそんなやり取りをカメラ越しに見ている。小さなモニターの中にぎゅうっと詰め込まれた最高の笑顔を見ている。四人ともすごくすごくいい表情をしていて、これは動画じゃなくて写真でもよかったなと思ってしまう。写真だったらここでシャッターを切って、それから大きく引き伸ばして現像して、展覧会の一番いいところに飾っておきたくなるような素晴らしい画だった。
 見とれてしまったし、ほんの少し、泣きたい気持ちにもなった。
 並ぶ四つの最高の笑顔を、誰よりも先に見ることの出来た私は、やっぱり最高に幸運だと思う。胸が一杯でもう何にも入らないような気がしていたけど、式が始まったらもっと一杯になってしまうんだろうな。

 ちなみに、花婿さんと花嫁さんがいつの間にか名前で呼び合っていたという事実には、控え室をおいとましてからようやく気付いた。
「何で急に赤くなってんだ、小坂。のぼせたのか?」
「い、いえ、全然何でもないですっ」
 ――映さんとゆきのさん、かあ。
 これからしばらくは、呼び合うお二人を見ただけでどぎまぎしちゃいそうだ。
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