Tiny garden

意識と無意識(9)

「ところで小坂、今日の門限は何時までだ」
 主任が尋ねてきたのは、コンビニの駐車場を出てから大分経った頃のことだった。
 車は既に通りを走り始めている。
 何せ私はシートベルトを締めっ放しだった。急な発進にも慌てることこそなかったものの、主任の運転する車がどこへ向かっているのかはまるでわかっていなかった。てっきりこのまま帰るのかと思った。流れる景色をただただぼんやりと見送っていた。
 質問の内容から察するに、帰る訳ではないみたいだ。ちょっとだけほっとする。実は私も、今日はもう少し主任と一緒にいたかった。
 初めての恋人が出来た日、のはずだから。
 ちらと隣を見る。運転席の主任はこっちを見ていないから、堂々と横顔を眺めていられた。三十歳の、すごく大人っぽい面差し。フロントガラスを見据える鋭い目つき、真剣な表情。笑顔も素敵だけど運転中の横顔も素敵だ。この人が私の恋人だなんて、今更だけどどきどきしてくる。
 初夢か何かじゃないといいんだけどなあ。
 恋人いない歴が二十三年で終わるなんて、少し前までは思いもしなかったな。
「――おい、聞いてるか」
 言語に絶する横顔がそう声を発して、
「は、はいっ! あああの、すみませんでした!」
 私は助手席で姿勢を正す。聞いてはいたけど、まるで考えていなかった。と言うかすっかり見とれていた。ばれていたらしく、主任にはおかしそうに笑われた。
「だから運転中は止めとけって。時間さえあれば、後でじっくり見せてやるから。な?」
 お言葉から察するに、どうやら相当じっくり見ていたらしい。我が事ながら恥ずかしい。
「で、どうなんだ。今日は門限あるのか」
「あ、ええと、一応は夕飯までに帰ると言ってあります。明日からは勤務ですから、遅くならない予定だからと」
 そこでぽつりと、懇願するみたいな声音で言われた。
「遅くなっちゃ駄目か、今日くらい」
 切実な響きに心臓が跳ねた。
「えっ、あの」
 駄目なんだけど、迷いたくなった。どうしよう。
 戸惑う私に更に追い討ちが掛かり、
「俺はもう少し、お前と一緒にいたい。何なら明日、二人で一緒に出勤したっていい」
 迷いの針は否の位置に吹っ切れた。
「な、何をおっしゃるんですか! 駄目ですよそんなの!」
 慌てふためく私に対し、主任は多少驚いた様子だ。
「小坂でも意味、わかるのか」
「それはその、私も二十三ですし、何となくですけどわかりますっ」
「じゃあ、どうして駄目なのかを説明してもらおうか。わかってるなら言えるよな?」
「……どうしてって、それはその、つ、付き合ったばかりですから」
 もごもごした答えになる。初日からそんな、そういうのは駄目だと思う。倫理的に。
「付き合ったばかりって言ったって、俺たちは以前から付き合ってたようなものだったんじゃなかったか」
 主任は笑いながら言って、ちらと横目で私を見る。
「まあいい。今日も親御さんに見送ってもらってたしな、さすがに帰さない訳にはいかないから、門限遵守と行くか」
 その言葉に私は、今日の出掛け際のことを思い出す。
 質の少し変わったグリーンノートを感じ取る。
 気分が落ち着いてくる。お正月らしい厳粛さが心のうちにふと過ぎる。
「あの、主任」
「どうした、小坂」
 ハンドルを握る横顔が返事をして、私は恐る恐る語りかけてみる。
「実はその、もう一つお話ししておきたいことがありまして」
「ん?」
「両親に、話をしました」
 ある意味、告白そのものよりも緊張しつつ、
「主任のことを、です」
 そう打ち明けると、短い沈黙の後、主任が怪訝そうにしてみせる。
「何て話した?」
「えっと、お付き合いしたい人がいるって……」
 たちまち怪訝そうな顔に照れの色がにじむ。
「そういう言い方をしたのか」
「ま、まずかったですか?」
「まずくはない。ただ『付き合ってる人がいます』じゃなくて『付き合いたい人がいます』って話す辺りが、意外とオープンだなと思っただけだ」
 照れ笑いする主任を見て、そういえば主任のご両親はどんな方なのかなと思いを馳せてみたりもする。いつか私も、お会いする機会があるだろうか。
 ――いや、うん。気が早過ぎるよねそういうのって。それこそ初日のうちから考えることじゃない。止めとこう。
 我が家の話に戻る。
「実はその、うちの両親にもばればれだったみたいなんです」
「……なるほど。わかるような気がした」
「今日、香水をつけてみたら、余計に怪しく見えたみたいで。直球で聞かれたので、結局素直に答えてしまいました」
 両親からすると、私が香水を買ってくるとは思えなかったらしい。色気づいてきたのか、もしくはプレゼントなのかと問われ、後者であることを告げた。そしたら、ばれていたことがわかった。
 私が時々話していた『優しくて立派な主任さん』がその贈り主だということもすぐに看過されてしまった。両親の慧眼、恐るべし。
「話してみて、どうだった。家に連れて来いって言われなかったか?」
 と、主任もなかなかのご慧眼を発揮する。
「言われましたけど、あの、お気になさらないでください! うちの両親はもうすごくすごく話が長いですから! もう主任が相手でもきっと容赦なく根掘り葉掘り聞かれちゃいますから!」
「別にいいよ。必要があればご挨拶にだって行くし、話せるだけのことはお話しするつもりだ」
 私の狼狽とは対照的に、ごく平静なトーンで答えた主任。すぐに笑って、続けた。
「お前がそうやって話してくれたことがまず、うれしい。ありがとう、小坂」
 穏やかな声は私の気分まで、すっと落ち着かせてくれた。だからこれも素直に言い添えた。
「私もです。両親に嘘をつかずに済むのが、うれしいなって思います」
 今日帰ったら、もう一回打ち明けてみようかな。
 お付き合いしたいと思っていた人が、恋人になってくれたよ、って。
 でもまだちょっと恥ずかしいから、少し間を置いてからにしようかな。迷うなあ。
「しかし可愛い奴だな、お前は」
 一転、声を弾ませた主任が、笑みを噛み殺すような横顔になる。
「今日はしょうがないから門限で帰してやるが、その分じっくり可愛がってやるから、覚悟してろよ」
 告げられた台詞は不穏だった。
 反応に迷う私は、そういえば肝心な疑問が放ったらかしになっていることに気付いて、それを尋ねる。
「ところで、今はどちらに向かっているんですか?」
「決まってるだろ。俺の部屋だ」

 着くや否や、主任は私を急き立てた。
「ほら早くしろ、時間がないぞ小坂。とっとと靴を脱げ」
「は、はい。善処します!」
 二度目の訪問と相成った主任のお部屋の玄関先。感慨に耽る暇もなく、ブーツを脱ぐのにまた手間取る。
 ようやっと脱げたと思った瞬間、ひょいと抱きかかえられてしまった。
「わあ!」
「声が大きい。この部屋も意外と響くからな、よく覚えとけ」
「あの、すみません。でも私、重たくないですか? 何でしたら自分で歩きますから、本当に、全然お構いなくっ」
 まくしたてても返事はなく、そのまま運ばれていく。無機質なメタルラックに電子機器の並ぶ室内、懐かしささえ覚える景色がぐるり、反転したかと思うと、着地。
 照明器具の光を浴びた、白っぽい天井がまず見えた。
 直に、ソファーに横たえられたのだと察した。
 身を起こそうと試みる時間はなかった。衣擦れの音がしたすぐ後で、視界が主任の顔に、唇が何か柔らかいものに遮られる。
 息が詰まる。
 詰まらなくても、どうせ呼吸は出来なかった。
 苦しさと同時に体温と、動悸のテンポが上がってゆく。反射的に目を閉じていたけど、掛けられた体重と私のものではない体温を感じている理由も大体わかった。
 わかっていても、冷静になんてなれなかった。
「あの、待ってくださ――」
 唇が離れた時、私は声を上げようとした。なのに主任はそれすら許してはくれず、すぐにまた重ねてきた。
「ま、待ってくださいって――」
 息継ぎだけの間を置いて、私の言葉はかわされるばかりで、
「あ……主任、お願いですから……」
 ただ唇だけが繰り返し繰り返し、貪るみたいに重ねられた。
 何度目になるかわからないキスが終わると、酸素が足りないせいなのか、頭が痺れたようにぼうっとしていた。途中で意識も遠退きかけたような気がする。しまいには声も出なくなっていた私は、ぎゅっと目を閉じたままでいた。
 すると今度は瞼にもキスされた。
「目を開けろ」
 主任の声も、呼吸が荒かった。その言葉には従えず、それどころか身動ぎ一つ出来ない私に、次は微かな笑い声が降ってくる。
「怯えてる方が余計に可愛くて、どうしてやろうかって気になるんだぞ」
 そう言われても困る。
 急いで私は目を開けたけど、薄闇の落ちたすぐ眼前、本当に鼻先十センチ以内のところに主任の笑んだ顔があって、ヒューズが音を立てて吹っ飛んだ。気恥ずかしさと言い知れない恐怖とを覚え、思わず近くの何かへしがみつく。
 しがみついた先が視界を遮る主任の肩だったことには、後から気付いた。
「怖いか」
 広い肩の持ち主に問われた。私の背とソファーの間に手を差し込み、がしがしと撫でてもくれる。大きな手の優しい感触に意識が戻ってくる。答えようとすることは出来た。
「あんまり、びっくりさせないでください」
 かすれた答えを口にすれば、吐息交じりに返された。
「それはお互い様だ」
 ――そうだったっけ。
 むしろ先に不意を打ったのは私の方だったようだ。となるとこれは、主任なりの仕返し、三倍返しのつもりだったんだろうか。
「心配するな。今日のところはキスしかしない」
 言ってから、頬っぺたを軽く噛まれた。くすぐったかった。
「だが俺の気持ちも察してくれ。お前にどれだけ惚れてるか、そしてどれだけ長い間待たされて、お預け食らって、焦れた思いでいたかも、二十三のお前なら想像つくだろ?」
 大体は。私が小さく顎を引くと、動きだけでわかったのかこう言われた。
「だったら黙って、されるがままになっとけ。ちゃんと門限までには返してやるから」
 その後、喉元に噛み付かれそうになった。びくりとして思わず広い肩を押し留める。
「で、でも、その、ほどほどにしてくださいっ」
 かさつく声で訴える。
 途端、不満げに鼻を鳴らされた。
「何でだよ」
「だって、あ、明日は仕事始めで、あんまりすごいことされたら私、明日主任とどんな顔を合わせていいか、わからなくなっちゃいます」
 必死になって続ければ、微妙な沈黙を経て、思い切り吹き出されてしまった。
「本当に可愛い奴だ。待った甲斐もあったな」
 主任が身体ごと笑う。振動が体温と一緒に、服越しに伝わってくる。
「これで怯えた顔してなけりゃもっといいんだがな。笑えないか、小坂」
「む……無理です、全然無理です」
 笑う振動や熱い吐息や、撫でられた背中はくすぐったかったけど、それで笑おうとするのは難しかった。かぶりを振る私を、主任はやや不満げに見下ろしてから――。
「だったら強硬手段だ、こうしてやる!」
「きゃっ! やめ、止めてくださいっ! わあ!」
 脇腹や顎の下辺りをいきなり、くすぐられた。
 そのくすぐったさと来たらこれがもうさっきまで感じていたものとは次元が違っていて、
「やっ、駄目です、本当に勘弁してくださいっ!」
「どうだ参ったか。参ったら俺をどう思ってるか言ってみろ!」
「くすぐったい、じゃなくて、わあごめんなさい間違えました、好きです、大好きです!」
 自棄になってがさがさの声で叫んでも、くすぐり攻撃は収まらない。私は逃げようとして身を捩り、主任はそれを力づくで捕まえようとし、ソファーの上でしばらく揉み合った後、二人いっぺんに転がり落ちかけた。
 すんでのところで留まったものの、揃ってひやりとしたのもあって、顔を見合わせてしまった。
「あ、危なかったですね……」
「本当だ。初っ端からお前に怪我させたんじゃ、洒落にならないからな」
 溜息をつき、さっきまでのくすぐり攻撃とはうって変わって、私を優しく抱き寄せてくれた主任。
 そして、
「俺も好きだ、小坂」
 とろけるような言葉を耳元に貰った。
 私もそれでようやく、いろいろなことを実感して、幸せな気分を噛み締める。ソファーから落ちなくて良かったって気持ちと、くすぐったいのが終わってほっとした気持ちと、好きな人に好きって言ってもらって、本当に、本当にうれしかった気持ちと。
 それらを全部混ぜ合わせたら、初めての恋人に、ぎこちなくだけど笑った顔を見せることも、叶った。
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