Tiny garden

想われる人と想う人(3)

 あまりにあっさりと言われたので、聞き返したくなった。
「え……ほ、本当ですか?」
 私の声は引っ繰り返っている。
 驚いていた。霧島さんがそう答えるとは思わなかった。真面目な先輩に、社内恋愛を肯定されるとは思わなかった。しかもこんなに容易そうに。しかも半人前の私のことなのに。
「そうです」
 事もなげに顎を引き、霧島さんは続ける。
「そんなに難しいことではないですよ。どちらも一生懸命やれば、必ず結果はついてきます」
「一生懸命……」
「ええ。ひたむきでいられたなら、必ず」
 石田主任とは違う意味で、その言葉は優しかった。それでいてしっかりとしていた。心の中の不安を拭い去っていくような説得力があった。
「罪深いことだなんて考えては駄目です、決して悪いことではありませんから。せっかく好きな人が出来たのに、悪い方向に捉えてしまっては辛いだけです」
 じっと聞き入っていると、声に照れたような響きが混ざる。
「そもそも、一つのことだけを集中して行うというのも大変なものですよ。どこかでくたびれてしまったり、集中力が途切れて気が抜けてしまったりするものです。そういう時にもう一つ打ち込めるようなものがあれば、気持ちがとても楽になります。そういうことってありませんか」
「あります。よくわかります」
 私も頷く。
「優先順位のあることなら、それは遵守すべきです」
 穏やかに、霧島さんは続けた。
「だけど、働いていたら恋愛が出来ないなんてことはありませんよ。むしろ仕事の息抜きに恋愛をしたらいいと思います。仕事に疲れたら恋愛に打ち込んで、仕事への活力を補充すればいいんです。前向きに捉えられるなら、その両立はきっとプラスになります」
 すごく、納得のいく言葉だった。
 そうなのかもしれない。仕事の合間に恋をして、それで仕事を頑張る気になれたら、それでいいのかもしれない。
 思えば仕事を頑張りたくなる時、理由の一つには石田主任の存在があった。主任に迷惑を掛けたくないから。主任が教えてくれたことを無駄にしたくないから。心配させたくないから。笑っていて欲しいから。他に理由があったとしても、主任のことは常に心の片隅にあったように思う。
 上司を好きになったんだもの、仕事は頑張らないといけない。それは簡単なことではないだろうけど、でも出来ないことでもないはずだ。少なくとも頑張れないはずがない。想いが叶わなくてもいいからせめて、石田主任を好きになって、そのお蔭で気づけたこと、身についたこともたくさんあるんだって思いたい。好きになってよかったって思いたい。
 恋愛的には――ばればれな以上、失うものだってない。後は仕事を頑張って、そのまま、石田主任を好きでいられたらいいんだ。

 さっきとは違う意味で、私は泣きたくなった。
 二十三年も生きているのに、知らないことが多過ぎた。何にも知らない私は子どもみたいだ。社会に出て初めて、いろんなことを教えてもらって、いろんなことを理解出来るようになった。無知さが悔しい。でも、学んでゆけるのはうれしい。
 二十三にもなってこんなことで泣くのはおかしい。だから笑って、霧島さんにお礼を言った。
「ありがとうございますっ! 私、頑張れそうです!」
「頑張ってください」
 霧島さんははにかみ笑いを浮かべている。優しい表情で、こう言い添えてくれた。
「でも、あまり気負い過ぎないでくださいね。一生懸命にやるのはいいことですが、無理はいけません」
「はいっ」
 そういえば、主任にもいつも同じことを言われている。気負うことはない、とか。頑張り過ぎるな、とか。私はまだ半人前だから、どこまでが無理でどこまでが無理じゃないのか、そのボーダーラインさえわかっていないのだと思う。
 だから、そういうところから少しずつ学び取っていきたい。一人前になる為に必要なこと。私に出来ることを。
「霧島さんに相談してよかったです」
 私がそう告げると、霧島さんはますます照れたようだ。ちらと視線を外す。
「いえ、それほどでもありませんが……」
 その言葉が途中で途切れた。
 直後、霧島さんの表情が変わる。何か思いついたようなそぶりをして、ぱっと席を立つ。うどんはまだ残っているのに。
「あ、すみませんが、俺はここで失礼します」
「え?」
 まだ、ご飯の途中なのに? 私より後に食堂へ来たはずなのに。
 訝しく思う私に向かって、霧島さんはなぜか、意味ありげに笑ってみせた。
「ちょっと、電話しなくちゃいけないんです。奥に移動します」
 らしくもない唐突さにぽかんとしていれば、今度は背後で声がした。
「何だ、霧島。彼女に電話か?」
 ――石田主任の声、だった。
 私はびくりとしたけど、霧島さんは驚いた様子もなかった。私の肩越しに反論を向ける。
「違いますよ。取引先に連絡するんです」
「長谷さんなら受付にいたぞ。こそこそしないで会いに行ってやれよ」
「こそこそなんてしてません、仕事なんですってば」
 霧島さんは珍しくしかめっつらになり、後には主任の笑い声が続いた。
「わかったわかった、そういうことにしといてやるから」
 それで霧島さんは何か言いたそうにしながらも、何も言わずにトレーを持ち上げた。私の方を見た時、ちょっと笑ったような気がした。気のせいだったかもしれないけど。
 まさか、気を利かせてくれたなんてことは――あるのかもしれない。
 食堂の奥へ向かう、霧島さんの後ろ姿を見送る。どぎまぎする私の隣には、石田主任が座る。一言も断らずに座ったので余計に緊張した。主任のお昼ご飯は焼き魚定食だ。手を合わせるのもそこそこに、箸でお魚をつつき出す。
 私も慌てて、Aランチの残りを口に運んだ。美味しさがわかるようになっていた。でも上手く喉を通っていかない。心臓がどきどきと速い。
「霧島の奴、わざとらしい態度だったよな」
 主任の口調はいつも通りだった。私が黙っていると、こちらに顔を向けてきて、言った。
「知ってるか、小坂。霧島の彼女は秘書課の長谷さんなんだぞ」
「秘書課の、ですか? ええと……」
「ほら、受付にいるだろ。笑顔の一番可愛い子」
 言われて一人思い当たった。エントランスにある受付カウンターで、いつもにこやかに挨拶をしてくれる人。笑顔の素敵な、きれいな人だった。
「へえ……! すごく、お似合いですね!」
 霧島さんの彼女。そう聞いて、私は心から納得する。霧島さんと長谷さんは雰囲気がよく似ていた。いつもにこやかで、優しそうで、おっとりしていて。
「似合うか? 霧島にはもったいない気もするけどな」
 石田主任は憎まれ口を叩いたけど、目が笑っている。内心はどうなのかな、と思う。
「似合いますよ、すごく」
 私は重ねて言い、更に続けた。
「じゃあ霧島さんは、お仕事と恋愛を両立されてるんですね」
 そのことも納得した。さっきの言葉はきっと、霧島さんなりの経験を踏まえたものだったんだろう。霧島さんには両立が出来たんだ。私には、出来るだろうか。出来るようになりたい。必ず。
「そんなの当たり前だろ」
 ふと、主任が隣で呟く。
 私が視線を返すと、呆れたように言ってきた。目つきが険しい。肩がぶつかりそうな距離だ。
「そのくらいも出来ないでどうするんだよ。両立してもらわなきゃ困る」
「え、でも、あの」
 すぐ隣で見つめられ、私は言葉に詰まる。
 釣り目がちな主任の向けてくる視線は、いつも鋭かった。痛みはなく、ひたすらどぎまぎしていた。困るって、見つめられて困っているのは私の方。
 それでも聞かずにはいられないと、すかさず尋ね返す。
「しゅ、主任はその、両立なさってる……ってことでしょうか?」
 途端に、石田主任の表情が険しくなる。
 箸を置くが早いか、人差し指と親指で、私の額をぱちんと弾いた。避ける暇もなく、鈍く小さな痛みが走る。
「いたっ」
 私はとっさに額を押さえ、抗議の声を上げた。
「何をなさるんですか、主任!」
「その物言いがむかついたから」
「そんな……ど、どうしてですかっ」
 むかつかれる覚えはない。ない……と思う。でも、あまり自信はなかった。もしかして、失礼な質問をぶつけてしまったんだろうか。それこそ聞いてはいけないこと、だった?
 石田主任は私を目の端で見ている。
 後に続く言葉は、やけに不満そうだった。
「小坂はやっぱり若いよな、いろいろな意味で」
「あ、あの、そうでしょうか」
「言っておくが、今回は誉めてないからな。こっちの苦労も察して欲しいもんだ」

 念を押すような主任の言葉に、私はただただうろたえた。
 皮肉を言われたらしいというショックと、今回以外はずっと誉め言葉だったのかもしれないという予感とで、頭の中がごちゃごちゃだ。落ち込んでいいのか喜んでいいのかわからない。そんなに苦労をお掛けしていたなんて……本当に、少しずつでも頑張らなくちゃいけない。
 ところで結局、主任の答えは聞けずじまいだった。今更聞けそうにはないけど、やっぱり気になっている。
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