Tiny garden

想われる人と想う人(2)

 溜息が出た。
「はあ」
 時間通りの昼休みに入れても、気分がすっきりしない。もちろん二日酔いじゃない。
 私はなんて浅はかで未熟でせっかちなんだろう。そんな思いでいっぱいだった。単に主任のことを好きでいたいから、一人前になりたいなんて考えてるだけなんじゃないだろうか。仕事もろくに出来ないくせに好きな人が出来たなんて、学生気分が抜け切れていない証拠じゃないだろうか。一度考え出すと堂々巡りの思考になる。
 石田主任はやっぱり大人だ。私みたいな新人にも、あんなに優しくて冷静な意見をくれる。私の思い上がりにも似た意気込みを穏やかに制してくれる。いい上司に恵まれたと思う。尊敬している。
 どうしてそれだけの気持ちで留めておけなかったんだろう。
「……はあ」
 もう一度、溜息が出た。
 社員食堂のAランチを前にして、割り箸も割らずにぼんやりする。頭の中は自己嫌悪でいっぱいだった。

「――小坂さん」
 柔らかいトーンの声が、ふと私を呼んだ。
 顔を上げれば、霧島さんが食堂のトレーを手に立っていた。私が一人で座るテーブルを、笑顔で見下ろしている。
「相席してもよろしいですか」
 霧島さんに尋ねられ、私は大急ぎで頷く。
「はいっ、あの、どうぞどうぞ!」
「ありがとうございます」
 にこやかに言って、霧島さんは私の真向かいの席に着く。トレーの上にはきつねうどんの丼が載っていた。すぐに手を合わせて、いそいそと食べ始める。
 霧島さんは同じ営業課の先輩だ。眼鏡の似合う、真面目で温厚そうな人。実際温厚そのものの人だと思う。石田主任の二年後輩とのことで、歳が近いせいなのか、主任とはすごく仲がいいみたいだった。
 最初はそのことを不思議にも思った。だって主任と霧島さんは似ても似つかない性格だ。二人とも新人の私にも優しいけど、石田主任をやんちゃと形容するなら、霧島さんはおっとりとしか形容出来なかった。男の人でこんなに物腰柔らかな人がいるとは思わなかった。新人の私にさえ敬語で話しかけてくるくらいだもの。それでも石田主任と話している時だけは、やっぱり男の人なんだなと思わされることもあったけど――。
「今日は元気がないですね」
 不意に、霧島さんが言った。
「え?」
 飛び上がりそうになる私の手の中、割り箸はまだそのままだった。慌ててそれを割ると、霧島さんも小首を傾げてみせる。眼鏡の奥の眼差しが気遣わしげだ。
「小坂さんはいつも元気だなと思っていたのですが、今日は何だか落ち込んでいるようでしたから。少し気になっていたんです」
「す、すみません。ご心配をお掛けしまして」
 私は項垂れた。上司だけじゃなく先輩まで優しい職場。にもかかわらず、私は相変わらずだ。悔しい。
「仕事のことでしたら、いつでも聞いてくださいね」
 そう言って、霧島さんは微笑んだ。
「俺でよければいくらでも相談に乗ります。石田先輩ほど頼りにはならないと思いますけど」
 霧島さんは主任のことを『先輩』と呼ぶ。名前を出されてどきっとしたけど、表向きは冷静に答えたつもりだった。
「ありがとうございます、でも平気です。大したことじゃないんです」
 本当に大したことじゃない。くだらないことだ。私がしっかりすれば済むだけのこと。
 いくら霧島さんがおっとりした人でも、こんな相談をぶつけられたって困るだけだろう。そう思い、私はかぶりを振った。
「そうですか。何かあったらお声を掛けてください」
 さらりと霧島さんは言い、それから手元のうどんに集中し始めた。突っ込んで聞こうとしなかったのも気配りなんだろうな。出来た人だ。
 私もAランチに手を付け始める。お昼休みは刻一刻と残り少なくなっていくのに、ご飯は一向に減らない。美味しいはずなのに。

 六人掛けのテーブルに、私と霧島さんは二人で座っている。
 社員食堂はざわざわと賑やかで、なのにこのテーブルだけがしばらく静かだった。
「そういえば」
 箸を止めた霧島さんが、何気ない調子で口を開くまでは。
「昨日は石田先輩の誕生日でしたよね」
「――えっ。あ、あの」
 びくりとしたのに気付かれただろうか。私の動揺をよそに、霧島さんは平然と続ける。
「小坂さんは何かお祝いをなさったんですか」
「え? いえ、あの、私……」
 どうして私がお祝いをすると思ったんだろう。激しくなった動悸のせいで、上手く問い返すことも出来ない。そんな私を見てか、霧島さんも気まずそうな顔をしている。
「野暮な質問でしたか」
「えっと、野暮と言いますか、そのっ」
「すみません、聞いちゃまずかったんですね」
「ま、まずいと言うほどでもないんですけどっ」
 不思議ではあった。真面目そうな霧島さんにそんなことを聞かれるとも思わなかった。主任とのことを営業課の人に突っ込まれたりはなかったし、そもそも石田主任は、昨日までは個人的に会うことさえない相手だった。何か気付かれてるとは思えない。
 でも――そういえば私、ばればれだとよく言われた。小学生の頃から中、高、大学時代までずっと。好きな人が出来たらすぐわかるって。
 と言うことは。
「も……もしかして、ですけど」
 Aランチの味はとっくにわからなくなっている。私は箸を置き、差し向かいの先輩に尋ねた。
「私って、ばればれ……だったりしますか?」
 レンズの奥で瞬きを繰り返し、霧島さんは言った。
「隠してたんですか、小坂さん」
 いたって真面目な口調。
 その瞬間、どかん、と心臓が弾け飛んだ。
「か――隠してたって言うか、あの、その、ばれてないと思ってっ!」
 頬が熱くなるのと同じタイミングで背筋がぞくぞくした。ばれてないと思っていた。全く、気付かれてないと思っていた。だけど思えば根拠なんて何もない。学生時代からばればれだと言われ続けていた私が、今の想いをも隠し遂せているなんて、一体どうして思えるだろう。
 テーブルの向こうでは、霧島さんもようやく慌て始めていた。
「すみません、ごめんなさい、あの、何と言うか、もちろん広めるつもりはありませんから」
「是非お願いします!」
 何だか泣きたくなる。もちろん霧島さんが悪い訳ではなく、自業自得なんだけど。そりゃあ当の主任にだってばれるよね。ばればれなんだもの。
「もしかして、営業課の皆さんは全員ご存知なんでしょうか」
 おずおずと尋ねれば、なぜか不自然に目を逸らされた。
「ど、どうでしょうね。俺はその、てっきり小坂さんは、オープンにしていらっしゃるものだとばかり」
 まさか! そんなこと、オープンに出来るはずがない。
「違うんです」
「そうだったんですか……」
「はい……」
 私たちは示し合わせたみたいに俯く。
 恥ずかしさに息が詰まる。穴が欲しかった。埋まる為の穴が。
 営業課の皆さんにはどう見えてたんだろう。主任のことが好きだとばればれだった私は、新人のくせに恋愛にうつつを抜かしてる不真面目な奴と思われていたかもしれない。公私混同してるって思われたかもしれない。なのに皆さん、優し過ぎる。

 またお互いに黙り込み、テーブルは静かになる。
 社員食堂は騒々しく、そのせいで一層気まずさが募った。何か言わなくてはと思い、視線を上げてみる。霧島さんは慌しくうどんを食べている。
 ここまで来ると自棄だった。私は改まって切り出した。
「あの、霧島さん。一つうかがいたいんですけど」
「は、はい。何なりと」
 たちまち霧島さんも背筋を伸ばす。生真面目そうなその表情に問いかけた。
「仕事と恋愛って、両立出来ると思いますか?」
「仕事と恋愛……ですか?」
 怪訝そうな顔をされ、今更みたいに気恥ずかしくなる。でもここまで来たら引き下がれない。どうせばれているんだし。
「私、分不相応な気がして仕方がないんです。まだ新人なのに……その、好きな人が、出来てしまって」
「ああ、なるほど」
 頷かれて、頬が燃えるように熱くなる。霧島さんに対してこの調子では、当の本人にはずっと言えそうにない。
「も、もちろん、どうこうしようって気持ちはないんです。今のままで、見つめていられるだけで十分だって思っているんですけどっ」
 声が裏返った。
「でも……好きでいるだけでも、仕事に差し障りそうな気がするんです。ただでさえろくに仕事が出来なくて、これからたくさん覚えていかなきゃいけない身分なのに、他のことに気持ちを向けている余裕なんてないのに。そんな自分が罪深い人間のような気がして仕方ないんです」
 主任のことが好きだった。たった数ヶ月でいつの間にか、こんなにも好きになってしまった。周りの人たちにさえばればれなくらいに。叶わなくてもいい、ただ、この気持ちをコントロール出来るようになりたい。
 せめて一人前になるまでは、と思う。
 それまで、この想いを抱えたままで、私は成長していけるんだろうか。

 私は、私なりに真剣に打ち明けた。
 深刻な悩みだと思っていた。でも。
「考え過ぎじゃないでしょうか」
 次の瞬間あっさりと、霧島さんはそう言った。
「両立出来ますよ、必ず」
 ごく軽い口調で言われた。
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