Tiny garden

想われる人と想う人(1)

 昨晩はよく眠れなかった。胸がどきどきしていて。
 ちょうど子どもの頃、修学旅行で泊まった旅館でなかなか寝付けなかったのと同じだ。同じ部屋の友達はもう寝入ってしまっているのに、私だけ目が冴えて、ちっとも眠れなかった。明日はどんな楽しいことがあるんだろうって、旅先でも浮かれてばかりだった。
 でも、今は浮かれてない。と言うより浮かれてもいられない。
 何せ今日が楽しみで眠れなかった訳じゃないから。それどころか、今日という日が来ない方がいいんじゃないかとさえ思った。今日はまた出勤して、石田主任と顔を合わせなくちゃいけない。一体どんな顔を合わせたらいいんだろう。石田主任はどんな表情で私を見るだろうか。そんなことを考えれば考えるほど、会社へ向かう足は重くなった。

 もうばれてるのかもしれない。
 私が、主任のことをどう思っているのか。
 昨日、お誕生日祝いのデートの帰り、主任の物言いはまさにそんな感じだった。私の気持ちを知っていて、それでああいう風に……だとすると恥ずかしくて死にそうだった。穴があったら入りたい。なくても掘って埋まりたい。
 主任はその事実をどう捉えたんだろう。仕事もろくに出来ない半人前以下のルーキーが、出会ってたった数ヶ月の、しかも同じ職場の上司を好きになったなんて。分不相応にも程がある。むしろ公私混同と思われたって仕方がないくらいだ。大体、主任が私に優しくしてくれるのも私が出来の悪い新入りだからであって、これが違う課の人間だったら優しくしてもらう機会も飲みに誘ってもらえることもなかった。なのに勝手に主任のことを好きになってしまうだなんて、やはりどう考えても分不相応、公私混同の極みだと思う。
 だから本人には知られたくなかった。でも、多分。
 こうなったら早く一人前になるほかない。公私混同と言われない為にも主任のお世話になる機会を減らし、立派に営業課の一員としてやっていけるようにならなくては。主任のことを想う気持ちは、今は胸の奥深くに押し込めておこう。
 目指せ、脱ルーキー。


 営業課オフィスには一番乗りを果たした。
 さすがにちょっと張り切り過ぎたかもしれない。私は仕事への熱意を持て余しつつ、鍵の掛けられたままのドアの前に立つ。鍵を持っているのは課長だろうか。新人には鍵のありかすらわからない。開けられないので待っているより他なく、ほんのちょっと空しくなる。
 就業開始時刻の一時間半前、社内はさすがにがらんとしていた。廊下を通る人もいない。
 ぼんやりしながら誰かが来てくれるのを待つ。こういう時間も少し歯痒かった。何でも自分で出来るようになったらいいのに。わからない、出来ないなんて嫌だった。ただでさえ、今は皆の足を引っ張ってばかりなのに――。
 こつこつ言う足音が近づいてきたのはその時。私ははっとして、営業課のドアの前、姿勢を正した。階段を上がってくる足音の主に、ちゃんと挨拶が出来るようにと深呼吸をする。挨拶は社会人の基本中の基本だ。
 でも、階段を上がり切ったその人の、姿が見えた瞬間、
「あれ、小坂。随分早いな」
「ひいっ」
 声を掛けられて私の呼吸は引き攣った。代わりにその人が、ちらと笑った。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
 石田主任。
 スーツ姿の素敵な主任は、私の消え入りそうな挨拶にまず吹き出した。その後で言ってくる。
「どうした、元気ないな。二日酔いか?」
「いえっ、そんなことは全く! 元気ですとっても!」
 裏返った返答は一体どう思われただろう。主任は笑いながら鍵を開け、営業課のドアも開けてくれた。私は会釈をしながら室内に入る。心の中では激しくうろたえていた。
 よりによって朝から主任と二人きり。しかも昨日の今日でという状況。仕事すら一人前に出来ない私にとって、この苦境に太刀打ちする自信はなかった。既に心臓が早鐘を打っている。駄目過ぎる。
 石田主任は、今のところ普通にしている。自分の机に鞄を置き、椅子を引いて腰を下ろすと、早速数枚の書類を取り出した。眺める表情は毅然としている。二日酔いの気配はうかがえない。
 私も二日酔いではない。だけど主任が出したその単語に、昨晩の出来事を否応なく思い出してしまう。ばれているらしい例の件についても。
 ――ああもう、しっかりしないと。
 私は強くかぶりを振った。それから深く息を吸い込み、口を開く。
「あの、主任!」
 二人しかいないオフィスに、やけに大きく響いた。自分でも驚いた。
「ん?」
 主任が視線をこちらへ向ける。書類越しの眼差しが鋭い。内心を見透かされているようでどきっとした。
 そのせいか自然と、上滑りした口調になった。
「き、昨日は……ごちそうさまでした。ありがとうございますっ」
 一瞬きょとんとしてから、主任は表情を和らげた。
「ああ、こちらこそ楽しかったよ。お蔭でいい誕生日になった」
「本当ですかっ? よかったです」
 ほっとする。私は部下としての務めを果たせたらしい。本当によかった。
「しかし、小坂は元気だよな」
 石田主任は書類に目を戻しつつ、続ける。
「昨日あれだけ飲んでもぴんぴんしてるんだもんな。若さってやつか」
 そう言う主任も十分元気そうに見えたけど、言いたかったのは最後の一言だけなのかもしれない。三十歳になったことを気にしているんだろうか。こればかりは私にもわかりかねた。
 とにかく、私は若い。若いだけじゃなくて未熟だ。だから頑張らなくてはと張り切って語を継いだ。
「はい、元気です。今日もお仕事頑張ります。どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」
「ご指導ご鞭撻って」
 真面目に言ったつもりだったのに、主任はげらげら笑い出した。何かおかしかっただろうか。
 私がぽかんとしていれば、笑い声のままで言い返された。
「そんなに気負うことないだろ。頑張り過ぎると後でへばるぞ、ほどほどにしとけ」
「で、でも、早く一人前になりたいんです、私」
 そうだ。分不相応だとか公私混同だなんて思われたくない。仕事も恋愛も両立させられるような、そんな社会人になりたかった。一人前になったって、主任と釣り合うとは思ってもいないけど。
「主任や皆さんに迷惑の掛からないようになりたくて、それで、頑張ろうと」
「一人前になりたいってか」
 肩を竦めた主任が言った。
「そういうこと言ってるうちはまだまだだと思うがな」
「え……」
 今度は、違う意味でどきっとした。
 動じる私をよそに、主任はごく普段通りの調子で続ける。気安くて軽くて、それでいてまるで落ち着いた物言いだった。
「こっちも早く一人前になってくれた方がありがたいのは確かだ。でも、中途半端にものを教えて、外で失敗されても困る。ルーキーのうちは、お前の責任をお前一人が負うんじゃないんだからな」
 口調以上に、ずしりと重い言葉だった。
 考えもしなかった。私が失敗したら、主任を始めとする営業課の皆に迷惑が掛かる。それも新人のうちはどうしようもないこと、なんだろうか。私一人の責任には、どうしてもしてもらえないんだろうか。失敗しないようになれたら一番いいのだろうけど、その為には時間も掛かりそうだ。
 そもそも、そんなことすら思い至らないうちは、やっぱり……。
「すみません」
 気落ちしそうになりながら、私は主任に頭を下げた。主任の席の方向から、訝しそうな声が聞こえてくる。
「どうして謝る?」
「……浅はかなことを口走りました、私」
「別にいいんじゃないか。気概があるのはいいことだろ、空回りされても困るけど」
 空回り、してる。しょっちゅうしてる。身に覚えがありすぎて、私は更に俯く。
「焦る必要もない。じっくり学んでいけばいい」
 石田主任は大人だ。言葉は優しくて、そして落ち着いている。言葉を選ぶような間も感じられた。
 急いてばかりいる私とは、全然違う。
「わかったか?」
「……はい」
 問われて、私は深く頷く。すると主任もふっと笑って、書類を一枚差し出してきた。
「じゃあ就業時間前で悪いけど、これのコピーを頼む。まずは確実に出来る仕事からな」

 私はその務めを粛々とこなした。
 主任は私を労ってくれたけど、当然喜ぶ気にはなれなかった。
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