Tiny garden

三十歳と二十三歳(1)

 鏡に向かい、よっしゃ、と気合を入れる。
 退勤後、着替えを終えるとすぐに女子トイレへ駆け込んで、お化粧を直している。いつもならほったらかしのままで帰っていた。どうせ電車に乗って帰るだけだし、まあいいかななんて思って。飲み会のある日もちょこっと直しておくだけで、そもそもお化粧に気合を入れたことがなかった。
 だけど今日は、まあいいか、では済まない。ちょこっと直しておく程度ではいけない。最低限、失礼のないような顔でいなくては。どうせ着ている物はスーツだし、可愛らしくめかし込んで……とはいかないものの、せめて小ぎれいにはしておきたかった。
 何せ、石田主任のお誕生日を祝う日なんだから。

 いつもお世話になっている上司の、三十歳を祝うお誕生日のデート。つまり私は主任のお誕生日が素晴らしいものになるかどうか、その舵取りを任されたということになる。重責を感じるとはまさにこのこと。頑張らなくては。
 さっき、念入りにお化粧直ししているところを、同期の子たちに見つかった。デートでしょなんて突っ込まれて必死に弁明したけど、やっぱりばればれなんだろうか。まさか相手が営業課の、石田主任だとは思われてないだろうけど――でもデートって言っても、ただのデートじゃないもの。重責を担うデート。主任の為に、決して失敗は許されないデートだ。
 精一杯、お誕生日を祝ってあげられますように。失敗はしない。今夜ばかりはルーキー気分も返上だ。

 待ち合わせ場所は社のビル裏手口。
 外で待つようにと言われていたけど、私が辿り着いた頃には、主任は既にそこにいた。定時を過ぎて大分経ち、人気のなくなった通用口前、ぽつんと立っているのがすぐわかった。姿を認めた瞬間、二重の意味で緊張した。
 携帯電話の画面とにらめっこをしている石田主任。横顔がほんの少しだけ険しい。でも、素敵だ。仕事中と同じスーツを着ていらっしゃるのに、どうして素敵に見えるんだろう。いや、仕事中だってもちろん十分素敵だけど――。
「お、お待たせしました」
 慌てて駆け寄ると、主任は弄っていた携帯電話をスーツの胸ポケットにしまう。そして私に、呆れたような目を向けてきた。
「遅い」
「すみません、遅くなりました……」
 いきなりの大失態に思わず縮み上がる私。石田主任は溜息をついている。
「お前の方が先に上がったのに、何で俺より遅く出てくるんだよ」
 そういえばそうだった。今日の私は定時上がりで、営業課のオフィスを退出しようとした時、主任はまだデスクに向かっていた。私を手招きして、外で待ってるようにと小声で指示をくれた時、机上には書きかけの書類が乗っかっていた。きっと少し遅くなるだろうと踏んでいた。それで――待ち時間を有効活用しようとお化粧に気合を入れた結果、私の方がものの見事に遅刻した、という訳だ。自己嫌悪。
「どこで油売ってた」
 主任が眉を顰めたので、おずおずと答えた。
「それはその、いろいろと準備がありまして」
「準備?」
「は、はい。お化粧を直しておりました」
「化粧直すだけでこれだけ時間掛かったって?」
 そんな風にぼやくと、主任は私の顔をじっと見つめた。つぶさに観察するような視線だった。
 失礼ではないレベルに装ったはずの顔が、恥ずかしさのせいで熱くなる。どうしよう。粗がありそうな気がしてきた。
「言われてみればいつもと多少違うかもな」
 だから、観察後の主任がそう言ってくれた時は、心底ほっとした。
「本当ですか?」
 うれしい。跳び上がりそうになった私に、石田主任もようやく笑顔を向けてくれる。
「ああ。面接に来た就活中の学生さんって感じだ」
「……え」
 あれ。あんまり、誉められてる気がしないような。
 ほっとしていいのかがっかりした方がいいのか、私はちょっとの間迷った。迷っている内に、主任の関心は違うことに移ってしまったようだ。軽い調子で言ってきた。
「ところで、何が食いたい?」
「わ……私ですか?」
「お前以外に誰がいるんだよ。今はお前としか話してないだろ」
 吹き出すのを堪える主任の顔は、ちょっと素敵だ。でも笑われてるのは私な訳だけど。そこはちょっと、悔しい。
「え、ええと、今日は主任のお誕生日ですから」
「それで?」
「私の意見よりも、主任のご意見を優先すべきだと思います」
 勢い込んで言ったらまた笑われた。何が面白いんだろう。真面目に言ってるのに。
「お前の好みも聞いとかないと、好き嫌いがあったら困るだろ」
 でも、主任の言い分ももっともだった。
「好き嫌いはありません」
「そうか。何でも平気か?」
「はい!」
「酒も飲むよな?」
「はい!」
「腹減ってるだろ?」
「はいっ……いえその、そこそこです!」
 食いしん坊と思われないよう、その問いにだけは控えめに答えた。だけど遅かった。主任がまた笑う。
「そこそこか。じゃ、ちゃんと食えるところに行くぞ」
「は、はい。それと、あのですね、主任」
 歩き出そうとした主任を慌てて呼び止めた。怪訝そうな顔が振り向く。
「どうした?」
 その顔に、私はすかさず申し出た。
「やっぱり、思ったんですけど、主任に奢っていただくのは申し訳ないかなって……割り勘ではいけませんか?」
「却下。お前に金を出させるつもりはない」
 ばさっと切り捨てられ、二の句が継げなくなる。そこへ更に主任が、たしなめるような口調で言った。
「小坂、覚えとけ。こういう時に妙な遠慮をするのは、かえって失礼に当たるんだぞ」
「はい……」
「わかったら黙って奢られるように。こんな扱いしてもらえるのは、ルーキーのうちだけだからな」
 目つきのあまりよくない主任は、笑うとすごく愉快そうな顔つきになる。そういう顔も素敵だと思う。三十歳の男の人は、いろんな顔があるんだなあって思う。
 いや、見とれてる場合じゃない。
「じゃあっ」
 せめてもの気遣いとばかり、私は主任へ告げた。
「お願いですから、食べ飲み放題のお店にしてください!」
 人気のない裏手口。ぽかんとした顔の主任は、次の瞬間辺りの静寂を打ち破る笑い声を立てた。

 主任に連れてきてもらったのは、よくある居酒屋風レストラン。
 テーブルオーダーバイキングが売りというこのお店は、私の要望どおり九十分間の食べ飲み放題コースがあった。二人でそのコースを選んで、とりあえずの注文を終える。
 美味しそうな匂いと賑々しい話し声がぎゅっと詰め込まれたような店内。四角いテーブルで差し向かいに座った主任は、まだおかしそうな顔をしていた。
「しかし、色気のないデートだよな」
 面と向かってそう言われると、やっぱり失礼だったのかなと思ってしまう。
「すみません……」
 しょげそうになる頭を必死に持ち上げ、私は弁明した。
「でも、今日は主任のお誕生日ですから、あまり主任のご負担にならないようなお店がいいと思ったんです。それに食べ放題のお店だったら好き嫌いも全く不問でしょうし、あと――」
「わかったわかった。お前の気持ちはありがたいよ、全く」
 石田主任は不機嫌そうということもなく、余裕の態度で笑っている。大人だなあ、と思う。私が失礼なことをしでかしてもちっとも怒らないんだから。私も早く、ルーキー気分を脱したい。せめて学生に見られないようになりたい。
 中生のジョッキが二つ届いたところで、乾杯の音頭を取る。
「主任、お誕生日おめでとうございます!」
「声大きいよお前、恥ずかしいからそこは小声にしてくれ」
「そ、そうでした。すみません、これっぽっちも気が利かなくて」
「いや、謝るほどのことでもないけどな」
 いちいち笑いを噛み殺しながら、主任は私をたしなめてくれた。それからひょいと首を竦める。
「誕生日なんて祝ってもらうの、そもそも久し振りだ。こういうのって案外面食らう」
「そうなんですか……」
「小坂はそうでもなさそうだよな。誕生日ごとに大騒ぎしてそうだ」
 主任の指摘はなかなか鋭かった。私は騒々しくお祝いする方が好き。それは私だけじゃなくて、お父さんとかお母さんの誕生日でもそう。いつもケーキを買って、クラッカーを鳴らしてお祝いする。
 ここにはケーキもクラッカーもないのが寂しいけど、主任の希望には適うのかもしれない。私よりもぐっと大人の主任には、騒々しいだけの誕生日は多分、合わない。三十歳の人らしいお祝いの仕方があるはずだ。
 そう思って、
「じゃあ、あの、今更かもしれませんけど」
 私は早速居住まいを正した。
「今からは厳かに、真面目にお誕生日祝いをしたいと思います」
 ジョッキを呷っていた主任が、直後、盛大にむせた。
「だ、大丈夫ですか!」
 咳き込む姿が苦しそうで、私は慌ててしまう。そうかと思えば主任はこちらを睨んだ。
「大丈夫じゃない、誰のせいだ!」
「えっ、わ、私のせいでしょうか?」
「頼むから、飲んでる最中に笑わせないでくれ!」
「すみません、すみませんっ」
 とっさにハンカチを差し出したものの、主任はそれを手で断って、ご自分のハンカチで口元とテーブルを拭いた。
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