Tiny garden

主任とルーキー、七歳差(2)

「お誕生日って、いくつになってもおめでたいものだと思います」
 いい慰めの言葉が見つからない。
 そもそも今の主任に、慰めが必要なのかどうかもわからない。だから私はそんなことを口にして、また主任に傷ついた顔をされる。
「それはあれだ、お前が若いからそう思うんだ」
「そう、なんでしょうか……。私は主任のお誕生日も、うれしいことだって思いますけど」
 おめでたい日に違いない。入社してからこの方、ずっとお世話になっている主任のお誕生日だもの。受けたご恩はちっとも返せてない駄目ルーキーですけど、だからこそこういう時にはお祝いしたい。おめでたいに違いない今日のことを、ちゃんと主任自身に、おめでとうございますって言いたい。
「せめて一年前だったら、素直にそう思えたんだろうけどな」
 主任は苦笑して、私の手から台帳を取り上げた。目を通した後でそれを棚に戻し、代わりにコピー用紙を引っ張り出す。三冊はずしりと重たそうだ。
「あ、持ちます!」
 すかさず私は手を差し出し、主任から一冊分だけ渡された。じっと抗議の視線を返したら、笑いながら残りの二冊も手渡してくる。
「重いぞ、無理するなよ」
「平気ですっ」
 確かに重かったけど、今更そんなことは言えない。
 言えないことは他にもいくつか、ある。
「やっぱ、若いよな。小坂は」
 石田主任が笑っている。羨ましそうな響きは相変わらずで、でも私には石田主任の方が、よほど羨ましく思える。三十歳の主任は、私の目には格好よく見えるから。
 若くたっていいことなんて一つもない。小さなことで皆の足を引っ張って、お世話になってばかりで、日頃の恩返しと思って告げた言葉さえまともに受け取ってもらえない。主任に相手にしてもらえないんじゃ、若さなんてちっともプラスにならない。
「私は、三十歳も素敵だと思います」
 コピー用紙の重さを堪えつつ、私は呟くように言った。さすがにそれを、面と向かって本人に突きつける気にはならなかった。どうせ、笑われるだろうし。
 と思っていたら、呟きだけでも拾われて、笑われた。
「お世辞か? ま、ありがたく受け取っとくよ」
「そういうつもりでは……」
「わかってるって。小坂は気を遣い過ぎだろ、もっとふてぶてしいルーキーでいろよ、じゃないと持たないぞ」
 主任はそんな言葉で、私の内心をたしなめる。
 たしなめられるともっと意識してしまう。三十歳と二十三歳。七年の差でこんなにも違う。私は三十歳の方がいい。主任に迷惑を掛けず、笑われたりもしない、素敵な三十歳になりたい。
「でも、私――」
 更に反論しようとしたその時、息を吸い込んだせいで、私の身体はちょっとよろけた。
 重いものを持っていたからバランスが崩れた。背中がごんと音を立て、倉庫の棚にぶつかってしまう。
「いたっ……」
 思わず声が出た。直後、両肩がぐいと大きな手に掴まれる。
 主任の手だった。
「だから言ったろ。大丈夫か?」
 両手で肩を引き寄せられて、危うくコピー用紙を落っことしそうになった。

 だって顔が。顔が近くにある。主任の顔が。
 目つきのよくない、つり目がちの顔立ち。それでも今は呆れたように笑っている。他の人とは少しだけ形の違う、この人らしい優しい表情。
 間近で見たらどきどきした。鋭い視線を向けられた時とは違う意味で、息が詰まった。石田主任の顔を見ていたら、三十という数字が偉大に思えた。やっぱり三十歳って素敵だ。だって間近で見ているだけで、どきどきする。
 備品倉庫は蒸し暑い。顔が赤くなるのがわかった。
 しかもここに、主任と二人きりなんだと思ったら。

「小坂?」
 その顔の片眉だけが持ち上がり、私はようやく我に返る。
 今、ものすごくよからぬことを考えていた。どぎまぎしながら返事をした。
「はい、あの、平気ですっ!」
「……なら、いいけど」
 主任は怪訝そうに言って、結局私の手から、コピー用紙を全部攫っていってしまった。それから、まだ身動きの取れない私に微かな笑みを向けてくる。
「そろそろ戻るか。さっさと書類上げて、休憩入らないとな」
 くるりと背を向けられた時、無性に寂しく感じた。
 三十歳になったこの人は、まだ、今日をいい日だと思ってくれていないんだろうか。三十歳という年齢をいいものだと思ってくれていないんだろうか。私は、私だけかもしれないけど、そんな風にはちっとも思っていないのに。
 ――直後、広い背中を呼び止めていた。
「あのっ、主任!」
「ん?」
 主任が振り向く。振り向きざまの表情に、私は告げた。
「私は主任のお誕生日、やっぱりうれしいです。おめでとうございます!」
「は……いや、ああ、ありがとう」
 呆けたような顔つきで、主任は曖昧に頷いた。
「祝ってくれるのは小坂くらいのもんだよ。気を遣わせて悪いな」
 いい顔はさせられなかった。上手い言葉を見つけられずに、それでも私は続ける。
「あの、よかったら、お祝いをさせてください」
「お祝い?」
「はい、えっと、お昼休みに入ったら、私、ケーキを買ってきます」
 言いながら、自分でも馬鹿げた提案だと思った。主任がそんなことで喜んでくれるだろうか。主任は子どもじゃないのに。大人なのに。
 でも、大人だって、三十歳になったって、いくつになっても、お誕生日は祝福されるものだと信じたかった。
「クラッカーとか、プレゼントとか、そういうのは用意出来そうにないですけど、せめてケーキくらいはどうですか。いつもご迷惑をお掛けしているお詫びに買ってきます。それで、主任のお誕生日をお祝いしたいです!」
「……何で、そんなにむきになってんだ」
 主任がちらと苦笑した。私の発言をおかしいと思っているみたいだ。多分、その通りなんだろう。
 私だって、どうしてこんなにむきになりたいのか、わからない。でも少しだけ、わかる。
「若いから、なんだと思います」
 主任に告げた。
「私、主任のおっしゃる通り、若いんだと思います。だから主任のお誕生日をお祝いしたいんです。今日は主任には溜息をつかずに、いい気分でいていただきたいんです」

 言った後で、潮の引くように後悔した。
 恥ずかしかった。――すごく恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。私、どうかしてる。主任だってこんなこと急に言われて、戸惑ってるに違いないのに。
 本当の気持ちにも違いなかった。だけど目上の人に対して言っていい言葉ではなかったかもしれない。親しい相手ならともかく、相手は三十歳の上司で、私は二十三歳の新人。失礼にも程がある申し出だった。
 一度行った言葉を取り消すことなんて出来やしない。私は今更みたいに悔やんでいた。あの瞬間、今の思いを口にせずにいることも、きっと出来なかっただろうけど――。

 静まり返る倉庫の中で、主任は不意に、顔を顰めた。
「確かに若いな。眩しいくらいだ」
 ぐさっと来た。私は大急ぎで、お節介に過ぎる言葉を訂正しようとした。
「す、すみません、あの」
「――言っとくが、本当にお前くらいしかいないんだからな。祝ってくれる奴」
 石田主任は私を遮り、そう言った。
 すぐに表情を解く。ふっと控えめに笑った。大人の顔だ、と思った。
「そこまで言うなら今日は祝ってもらうかな」
「主任……!」
 感激した。うっかり泣きそうになるくらい、だった。
 なんて優しい人だろう。私の、出過ぎた振る舞いでしかない提案を受け入れてくれた。どうしよう。うれしい。これはいいケーキを買ってこなければならない。
「じゃあ、休憩に入ったら、駅前までひとっ走り行ってきます」
 威勢よく宣言した私を、石田主任は鋭い視線で押し留める。
「何言ってんだ、小坂。貴重な昼休みにそんなことさせられるか」
「平気ですよ。ダッシュで行けば間に合います」
「馬鹿。誕生祝いなんて夜やるに決まってるだろ」
 夜?
 ぽかんとする私に、主任は余裕の表情で続ける。
「今夜、空いてるか」
「え? 仕事の後ですか? い、一応は」
「じゃあそのまま空けとけ。酒は飲めたよな?」
「はい、えっと、ばっちりです」
「ならよし。奢ってやるから、くれぐれも気を遣うなよ」
 主任の提案は、私の考えとは大きくかけ離れていた。慌てて反論する。
「でも、今日は主任のお誕生日ですよね? それなら私が奢らせていただくのが筋で……」
「そういうところが若いって言ってんだよ」
 また、たしなめるような物言いをされた。大人の顔は私を見て、眩しそうにも、おかしそうにもしている。
「遠慮すんな。七つも年下の女とデートなんて、誕生祝いにしちゃ出来過ぎなくらいだ」
 デート。
 デートっていうのは、あの、つまり。
「しゅ、主任っ」
「どうした? 都合が悪いなら先に言え」
「悪くないです、でも、あの」
「決まりだな。ほら小坂、そろそろ戻らないと昼休みがなくなるぞ」
 のぼせ過ぎて卒倒しそうな私を放って、石田主任が倉庫のドアを開ける。私は既に酔っ払ったような足取りで、後に続いた。

 広い背中を追い駆けながら、思う。
 こんな夢見心地は、ルーキーには苦境だ。夜まで何の失敗もしでかさないようにしないと――主任のお誕生日、いい日にしなくちゃいけないんだから。そして出来たら、いいデートにしないといけない。
 いいデートってどうするのか全然わからないけど。
 私、やっぱり若いんだろうな、そういうところまで。
PREV← →NEXT 目次
▲top