Tiny garden

主任とルーキー、七歳差(1)

 主任が息をついた。
「あーあ」
 これで二十六回。本日、二十六回目の溜息だ。デスクに頬杖をついて契約書を睨みつけながら、何やら面白くなさそうにしている。機嫌が悪いのは間違いない。
 昼休み時を迎えたオフィスはがらんとしている。営業課はその業務内容上、昼休みに入る時間が一定していない。ここにいない人たちはお昼ご飯に行ったか、そうでなければまだ社外にいるはずだ。私と石田主任は外回りから戻ってきたばかりなので、書類を上げてからじゃないとお昼に入れそうにない。私はもうお腹がぺこぺこだった。
 だけど、石田主任が不機嫌なのは空腹のせいではないはずだ。朝からずっとこうだった。外回りに連れて行ってもらった時も、何度も何度も溜息をついていた。思わず数えたくなるほどに。

 不機嫌の理由はわからない。今日は今のところ何の失敗もしていないし――私が。
 主任を怒らせるような大失敗をしでかした、なんてことはない。そもそも滅多なことで怒る人ではなかった。だから私のせいではないと思う……思いたい。意識せずに失敗をしてしまっているという状況もこれまで多々あったので、私のせいだという可能性はなきにしもあらず。でも何も言わずに黙ってかりかりしてるような人とは思えない。
 主任が朝からずっと溜息をついているという状況自体、私にとって初めて遭遇するものだった。当然、気になる。

「はあ」
 二十七回。本日二十七回目の溜息が聞こえた。
 私は先程から自分の席で、主任の動向を観察していた。というのも主任に質問したいことがあったから――新入社員の私は情けないことに、右も左もわからないひよっこ。トラブルが起きるとすぐに誰かを頼らなくてはならない。ほんの些細な不明点でも自力で解決が出来ない。なのに、傍にいる質問出来そうな相手が、不機嫌そうな主任しかいない。困り果てていた。
 だけど、聞かないでうろうろしている時間も惜しい。ただでさえ仕事が遅いのだから、こういう時はせめて迅速に行動しなければ。私は意を決して、石田主任に近づいた。
「ん? どうした、小坂」
 私が声を掛けるより先に、主任が書類から顔を上げる。目が合う。視線が鋭い。この人は目つきがあまりよくない。いつもはつり目がちなところも気にならないのに、今日は眼差しを向けられただけで息が詰まってしまう。
「え、ええと」
 私は引き攣る声で言葉を継いだ。
「その、主任。今、ご機嫌斜めですか」
「はあ?」
 主任の眉がくいと上がって、私は呼吸により困難をきたす。
「ま、間違えました! 今、伺いたいことがあるのですが、お時間よろしいですかっ」
 うっかり本音を口にしてしまった。冷や汗をかきかき、私は主任の顔色をうかがっていた。主任は眉間に皺を寄せたけど、とりあえずはこう言ってくれた。
「いいぞ。何だ?」
「あの、コピー機の、コピー用紙がですね」
「コピー機がどうしたって?」
「用紙が、切れてしまって、コピー出来ない状況なんです」
 正直に打ち明けると、途端に主任は呆れた表情になる。呆れられる理由も身に染みてわかっているのが、居た堪れない。
「用紙の補充の仕方、こないだ教えたばかりだろ」
「はいあのっ、それは覚えてます! ばっちりです!」
 私は背中に定規を入れられたみたいに姿勢を正して、
「でもですね、肝心要の用紙がないんです、どこにも」
 と告げた。
 そこで主任は書類を置いて席を立ち、据え付けの古いコピー機の横、スチール戸棚に歩み寄る。下部の戸を開けて覗いた後、ああ、と声を上げた。
「空っぽだったのか。用紙の保管場所は? 教えてなかったっけ?」
「ま、まだでした」
「そっか。じゃあこの際だから、教えてやる」
 石田主任はそう言って、自分のデスクから鍵を取り出す。たったそれだけの動作がどこか気だるげで、私はつい謝りたくなる。
「すみません、お仕事中にご迷惑をお掛けして」
「ルーキーが変な遠慮するなよ」
 短く、主任は私の謝罪を撥ねつける。でも迷惑を掛けてるのは事実だ。それもこんな小さな用事で。主任もお昼休みがまだで、書類が途中で、その上朝から二十七回もの溜息をつくほど機嫌が悪いらしいのに。
「補充のやり方はばっちりなんだろ。そっちはお前に任せるからな」
 気遣いの言葉もどこか力ない。今日の主任はやっぱり、おかしい。どうしたんだろう。
「主任、ご機嫌は……あ、いえ、もしかして、ご体調が優れないのですか」
 お節介かなと思いつつ、私は恐る恐る尋ねてみる。
 間を置かず、石田主任が怪訝そうな顔になる。
「は? 何でだ?」
「ええと、今日は朝からずっと、溜息をついていらっしゃるから……」
「ついていらっしゃるってお前。ずっと見てたのか?」
 ちょっと笑われた。慌てて、弁明する。
「ごめんなさい! その、ずっとって訳ではないんですけどっ」
 嘘です。ずっと見てました。その上まさか、溜息の回数までカウントしていました、なんて言えない。
 主任は私の弁明に構わず、肩を竦めた。
「別に具合が悪い訳じゃない」
「そうなんですか……でも」
「今日、俺の誕生日なんだよ」
「……えっ」
 あっさり言われたので、危うく聞き逃すところだった。
 ――石田主任のお誕生日。今日が。そんなおめでたい日だったなんて! 全然知らなかった。
「おめでとうございます!」
 慌てて私が手を叩くと、苦笑いでかぶりを振られた。
「別にめでたくない。今更だろ」
「え……どうしてですか」
 叩く手を止めて尋ねる。
 途端に主任は深い溜息をついた。二十八回目。
「今日で二十代じゃなくなるからな」
 口にされた数字の意外さに、少し驚く。二十代じゃなくなる。ということは。
「三十歳、ですか」
 問い返したら、軽く睨まれた。
「文句あるか」
「いえっ、ないです! ちっともないです!」
 精一杯声を張り上げた私をどう思ったか、主任は憂鬱そうな顔で営業課オフィスを出て行く。私も当然、急いで後を追う。

 営業課の人たちは皆、優しい。私みたいなペーペーの新入社員にも優しく仕事を教えてくれる。
 その中でも石田主任の優しさは、ちょっと形が違っていた。主任は口が悪くて、冗談とも本気ともつかない言い方で、遠慮のない言葉を紡ぐ。最初のうちはそういう遠慮のなさにびくついてたこともあったけど、私もからかわれつつ、いじられつつあるうちに、主任のそういう物言いが苦手じゃなくなっていた。むしろ誰よりも優しいんじゃないかと思えてきた。こうして、自分の仕事よりも新人のお世話を優先してくれるところとか。
 だけど機嫌の悪い時には、まだどう接していいのかわからない。ましてその不機嫌さが誕生日のせいだっていうなら、余計に。

 狭い廊下を歩いていく主任の背中。カッターシャツの白さのせいかとても広く見える。その背を、私はしずしず追い駆けていく。
 三十歳、なんだ。知らなかった。年上だというのは当然知っていたけど、勝手に二十六、七くらいなのかと踏んでいた。主任、こう言ったらおかしいけどやんちゃなところがあるし、目下の私なんかにも随分と気さくだし……てっきり、私とそんなに離れてないのかと思っていた。
 三十歳、か。――七歳差かあ。こうして考えると結構大きい気がする。主任から見れば私なんて子どもにしか見えないだろうな。主任はやっぱり、大人だ。
 それにしても石田主任、浮かない様子だった。三十歳になるのがそんなに嫌なんだろうか。私にはまだ縁遠い数字だから、そういう気持ちはよくわからない。お誕生日なんて、いくつになってもうれしいものだと思っていた。クラッカー鳴らしてケーキを食べて、皆におめでとうって言ってもらえて、プレゼントも貰えて。一年の中で一番楽しい日だと思っていた。そんな日を溜息ばかりで過ごす主任が、少しかわいそうだ。

 備品倉庫は真新しい紙の匂いがする。社内のどこよりも静かで、心なしか蒸し暑い。お昼休みの時間帯のせいか、私たち以外は誰もいなかった。
「消耗品の持ち出し時には必ず台帳に記入すること」
「わかりました」
「忘れるなよ、総務の連中のチェックは厳しいぞ。後であれこれ言われるからな」
「は、はいっ」
 石田主任の指示通り、私は倉庫備え付けの台帳に記入を始める。コピー用紙、三冊。営業課、小坂……と。
 記入を終えてから顔を上げると、主任は倉庫の棚に寄りかかって、まだ不機嫌そうな面持ちでいた。腕組みをしながら宙を睨んでいる。居並ぶ棚の作る影の中、薄暗い表情が溜息をつく。
「ふう」
 あ、二十九回目。
 主任、あと一回で三十回です。主任の年齢と同じ回数になってしまいます。素敵な偶然ですね――とは、実際口に出しては言えなかった。
「お誕生日、憂鬱ですか」
 私は小声で問いかけた。
 すると主任は私を見て、両目を余計に吊り上げた。
「記入終わったのか、小阪」
「はい、もももちろんです!」
「捺印してないだろ。最後の欄には判子押しとけ」
「た、ただいま!」
 狭い上に物の押し込まれた倉庫では、自分の声も普段と違って聞こえる。私がポケットから印鑑を取り出すと、石田主任の声も、いつもとは違うトーンで聞こえてきた。
「お前、若いよなあ」
 どことなく羨むように。
 私は台帳に息を吹きかけ、ついでに主任の顔色をうかがう。こちらを見る目がなぜだか羨ましそうに見えた。不思議な感じ。
 その表情で主任が言う。
「仕事、慣れたか?」
「え?」
「え、じゃないよ。お前に聞いてんだ」
「あ、はい、ええと、幾分かは……」
 急に予想外の質問をぶつけられて、私は大いにまごついた。主任が吹き出す。
「幾分かって何だよ」
 何って言われても。――そりゃあこっちだって模範解答しておきたかった。優しい上司とやりがいのある業務内容のお蔭で、私の社会人生活一年目は大変充実しております、とか何とか。そんなこと、とっさに言えるような器じゃないんです。まして相手が石田主任なら。
「小坂っていくつだ。二十三か?」
 石田主任の次なる問い。
 私は、今度は慌てずに答えた。
「はい。誕生日、来ましたから」
「そっか。若いよなあ」
 姿勢を正した私を見て、主任は首を竦める。やっぱり相当憂鬱みたいだ。
「三十歳になるの、そんなにお嫌ですか」
 率直過ぎたかなと思った質問は、案の定傷ついた顔つきで返された。
「なってみろよ、三十に」
 さすがにそれは無理な相談だった。もちろん、いつかは私も三十歳になるんだろうけど、七年先のことなんて今からじゃ想像もつかない。石田主任の気持ちはわからない。
「お前の若さが欲しいくらいだ」
「え……」
「いいよな、ぴちぴちの新入社員は」
 心底恨めしげな主任。じろじろと無遠慮な視線を向けられると、妙に落ち着かなくなった。若さが欲しい、だって。主任だって十分若いと思うけどなあ。
「で、でも、三十代からが脂の乗る時期だって、よく聞きませんか」
 フォローのつもりで言ったことが上手くフォローにならないのが、私の欠点だと思う。相変わらず主任にいい顔をさせられない。
「そりゃ三十になって、しばらく経ってから行き着く境地だろ」
 主任はぼやくように続ける。
「ずっと二十代で来たからな。三十って数字がやけに重く感じるんだよ。身体的にも精神的にも大して変わった気がしないのに、歳だけ食ってんだからな。柄にもなく、このままでいいのかとか考えたくなって」
 そして遂に、三十回目の溜息をついた。
「この歳で嫁どころか彼女だっていないしな。親だって祝ってくれる歳じゃない。友達を集めようにもほとんどが所帯持ち。となると祝う気も起こらないっての」
 愚痴めいた言葉を聞きながらも、私の頭の中は一瞬、場違いな安堵に乗っ取られた。――主任、お付き合いしてる人、いないんだ。それだけで訳もなくほっとする。
 私一人ほっとしたところで、主任が笑ってくれる訳じゃないけど。三十歳の男の人からしたら、二十三歳なんててんで子どもに違いない。
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