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私の(カレーの)王子様

「私の白馬の王子様は、やっぱり播上かなあ」
 台所に並んで立ちながら、私は何気なく呟いた。
 みじん切りにした玉ねぎをフライパンで炒める播上が、こちらを向かずにちょっと笑う。
「何それ。何の話?」
「いや、よくあるでしょ。いつか白馬の王子様が現れて、っていうやつ」
「女の子の夢的な?」
 播上が浮かべる笑みが、そこではにかみ笑いに変わった。今、ようやく自分のことを言われてると気づいたみたいに、首を傾げながらフライパンの中身を掻き回す。
「あんまりそういうのは柄じゃないな。言われ慣れてもないし、くすぐったい」
「そう?」
 傍に立つ私がその顔を見上げると、どこか困ったようにこっちを見た。
「そうだよ。王子様っていうのはもっと、例えば渋澤みたいなさ」
「ああ、あの人は確かに王子様っぽいかも」
 まさにという名前が出た。
 渋澤くんは本当に王子様! って感じがするな。紳士的だし優しいし、前に一度、奥さんと一緒にお店に来た時もエスコートっぷりがすごかったもの。
 でも私としては、播上だって優しいし、そういう点で見劣りするってこともないと思うんだけど。
「と言うより、真琴がそういうこと言い出すのも意外だ」
 播上はゆっくりと木べらを動かしながらそう言った。
「それはそうかも。何か、思いついて言っちゃったけど」
 もっともだと私は頷く。
 こっちの方がそれこそ柄じゃない。私は王子様なんて待ってる方じゃないし、これまで夢見たこともあまりない。と言うか長らくの間、結婚できないならできないでいいか、なんて考えてたくらいだからなあ。
 播上を王子様と評したのだって、彼にそれらしく、例えば渋澤くんみたいに振る舞って欲しいと思ったからじゃない。播上が客観的に見て王子様然としてるわけじゃないことも、だからと言って格好悪いわけでもないし、まして幻滅なんてするはずないってことも言わずもがなだ。
「実は、お義母さんが言ってたんだよね」
 私はあっさりと事の真相を打ち明けた。
 播上がフライパンにひき肉を入れ、透き通った玉ねぎと一緒に炒め合わせるのを眺めながら、続ける。
「お義母さんにとっての白馬の王子様は、お義父さんだったんだって」
「……また母さんに変なこと吹き込まれて」
 そうぼやいた時、播上は非常に恥ずかしそうな顔をした。自分が王子様と呼ばれるよりも駄目みたいで、居た堪れないというように力なくかぶりを振る。
 すぐに眉を顰めて私に、
「真琴も、そういうの真面目に聞かなくていいから。次からはスルーでいいよ」
 と注意を促してきたけど、私としてはお義母さんの話を聞くのも結構、楽しかったりするからスルーなんてできっこない。
 何でも聞くところによれば、播上のご両親は随分とドラマチックな恋を経てきたのだそうだ。
「なかなかいい話だったよ。映画みたいに波瀾万丈な恋物語で」
「違うって。母さんは絶対話盛ってる、あの二人がそんな恋愛してるわけないだろ」
「そうかなあ。あの、思い出の公園に花束持って駆けつけたって話も?」
「ないない。父さんにそんな伊達男みたいな真似ができるはずない」
 播上は頑としてお義母さんの語った恋物語を否定する。実の息子としては気恥ずかしさもあるようだし、播上自身はお父さん似でシャイなところもあったりするから尚のことだろう。
 実際、思い出はいつでも美しいものだし、そこに多少の脚色があったって誰も責められやしない。お義父さんとお義母さんが恋愛映画さながらに乱闘騒ぎの後ハンカチを貸したり、花言葉を意識しながら花束を贈ったり、お見合いの場に乗り込んで横から掻っ攫ったりといった恋を本当にしてきたかどうか、私たちには知りようもない。
 けど、山あり谷ありの恋の末に今も仲睦まじい夫婦愛を保ち続けているのなら素晴らしいことだと思うし、逆に山も谷もなかったとしても、その愛を変わることなく保ち続けていられるのだって、やっぱり素晴らしいと思う。
 さておき、お義母さんは華々しい馴れ初めエピソードを私に語り聞かせてくれながら、こう言ったのだ。
『私にとってはお父さんこそが白馬の王子様に見えたのよね。今もそうだけど』
 長年連れ添ってもそう言い切れる夫婦愛ってすごい。私もかくありたいです。
 それで私も、私にとっての白馬の王子様って言ったら播上しかいないよね、と思ってみたわけなんだけど。
「そう言うけどさ、私たちも将来自分の子供とかに馴れ初め話す時は、何だかんだでちょっと盛っちゃうかもしれないじゃない」
 私のその言葉の後、播上は微妙な顔をしながらもフライパンに小麦粉とカレー粉をそれぞれ投入した。手際よく挽き肉、玉ねぎと混ぜ合わせながら炒めていく。じゅうじゅうと音の響く台所にはカレー粉のいい匂いが立ち上り、たちまちお腹が空いてくる。
「盛るようなところもないだろ……。そもそも馴れ初めなんて話すかな」
 播上が訝しそうにするから、私はうきうきと想像を巡らせてみる。
「例えばお弁当箱の蓋を私が落としちゃって、播上がそれを拾ったのがきっかけで、とかさ」
「何だよそれ。盛る方向性が間違ってる」
「この蓋にぴったり合うお弁当箱の持ち主こそシンデレラ、みたいな!」
「コントじゃないんだから。いいよそんな、波瀾万丈じゃなくたって」
 彼が言うように、私たちは至って穏やかで、特にドラマチックでもない恋をしてきた。
 その穏やかさは結婚した現在でも問題なく継続されていて、彼と二人で初めて迎えたお正月も、いつもと変わらぬ時間が淡々と過ぎているように思える。
 現在はこうして二人で台所に立ち、カレーを作っているところだ。

 結婚前――と言うか思い返してみるとかなり前だけど、入社三年目くらいの頃、私は播上からお正月用の昆布巻きの作り方を教わっていた。
 それはそれは大変美味しい昆布巻きで、昆布はしっとり柔らかく、中の鶏肉もほろっと崩れるのが堪らない。教わってからというもの私は毎年欠かさずおせちの一員としてそれを作ってきた。もちろん今年、結婚してから初めてのお正月に際しても、私は播上に教わった通りのレシピで彼に昆布巻きを披露した。その他のおせちはほとんど彼に用意してもらっていたけど、私の昆布巻きだって彼には好評だったし、おかげで楽しい、そして美味しいお正月を過ごすことができた。
 ただ、おせちだってそうそう何日も食べ続けるものじゃない。
 おせちが済んだらまずカレー、という図式は播上家においてもやはり共通のものらしく、三が日最終日のお夕飯はカレーにすることになった。
 カレーの中身はひき肉と玉ねぎだけ。それらと一緒に炒めたカレー粉を、あればトマト缶で、それもなければトマトジュースで伸ばして、味を調えたら後は軽く煮込むだけ、というシンプルなカレーだ。
 これは播上のおうちの賄い料理の一つで、短時間で作れる上に材料も少なくて済むからよく作ってもらっている。お義父さん直伝だけあってとても美味しいし、もちろん作る人の腕が抜群なのも言うまでもない。

「真琴、缶開けてくれる?」
 播上の言葉に私は頷き、買い置きのホールトマトの缶を開けた。蓋を完全に外してから彼に手渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 缶の中身をきれいにフライパンに移した播上は、木べらでトマトを潰しながら炒めたカレー粉を伸ばしていく。フライパンの音が一時静かになって、直にぐつぐつと煮込む時の音を立て始めた。
「もうすぐできるよ。ご飯も炊けてるから、あと少しで夕飯にできるけど」
 炊飯器のスイッチが保温に切り替わっているのを確かめてから、彼は私に尋ねてきた。
「どうする? すぐ食べる?」
「食べる! いい匂いしたらお腹空いてきちゃった」
 私は一も二もなく答える。
 カレーはちょっと置いておいた方が美味しいというのも紛れもない事実ではあるんだけど、でも播上の作った料理は置いとかなくても十分美味しいからすぐに食べたって問題はない。それに彼ならちゃんと明日の分も取っておいてくれるから、明日にでも更に更に美味しくなったカレーを楽しめばいいだけの話だ。
「わかった。じゃあ、一旦味を見て……」
 播上が小皿にカレーを少しだけ掬い入れ、軽く傾けて味見をする。
 料理をしている時の播上は、とても真剣だ。
 と言っても常に気を張っているというわけではなくて、さっきみたいに雑談に応じてくれたりするし、私がくだらないことを言えば笑ってくれたりもする。料理を作り慣れている人らしく、賄い料理の場合は軽く手を抜く方法だってちゃんと心得ている。
 ただ作っている間は、常に料理のことを考えているのが見ていてもわかる。レシピは全部頭の中に入っていて、次に何をするのかをわかっているようだし、私の話を聞いている間も木べらを持つ手は休まず動いているし、味見をした後で一瞬だけ目を眇めて考え込む横顔は、思わずはっとさせられるほど素敵だ。
 王子様って呼んでも、差し支えないと思うんだけどなあ。
「……もう少し、甘くてもいいかな」
 味見の後で呟いた彼は、小皿にもう一度カレーを掬うと、今度は私に差し出した。私はそれを受け取り、同じように味を見てみる。
「確かに、もうちょっと甘みがあってもいいかも。お砂糖入れる?」
「そうだな……いや、ケチャップにしとこう。そっちの方が味が馴染む」
 彼がそう言うので、私は冷蔵庫からトマトケチャップを取り出し、彼に渡した。ほんの少しケチャップを足した後、彼はカレーを更に煮詰めて仕上げにかかる。
「もうご飯よそってもいい?」
「いいよ」
 私は炊飯器を開ける。炊き立てご飯の匂いが蒸気と共に広がって、一層お腹が空いてきた。
「カレーってさ、何かテンション上がるよね」
 真っ白いカレー皿にご飯をよそいつつ、私は言った。
「子供の頃から大好きだったんだ。あんまり嫌いな人もいないかもしれないけど」
「まあ、国民食って言われるくらいだからな」
 ご飯を盛ったお皿を手渡すと、播上がそこにカレーをよそってくれる。彼は盛りつけにもこだわる人で、山型に盛ったご飯の周りにカレーを流し込んだ後は、ご飯の上にパセリパウダーをかけたり、彩りよく葉物を――本日は水菜を散らしたりと、見栄えをよくすることに余念がない。
「播上、カレーの王子様って知ってる?」
 その真剣そのものの横顔を眺めつつ、私はふと切り出した。
 途端に彼の横顔がふっと和んだ。
「今度はそっちの王子? それなら知ってる、子供用のやつだろ」
「うん、何て言うか、王子繋がりで思い出したんだけど」
 私はコップに氷を入れ、冷たいお水を注ぎながら続ける。
「子供の頃はうちのカレーってずっとそれだったんだよね。私、そのカレーが辛くなくて好きだったけど、ちょっと気に入らなかったんだ」
「何で?」
「だって、『王子様』でしょ。男の子用って感じじゃない」
 私は女の子だから、『お姫様』がよかった。なのに我が家ではカレーと言えば『王子様』で、それが何だかちょっと気に入らなかった。カレー自体は美味しかったから文句も言わずに食べていたけど、子供ながらに内心、不満を抱えていたわけだ。
「うちは上に男ばかり三人もいたから、余計にね」
 当時の気持ちを思い出して、肩を竦めてみる。
「お兄ちゃんたちは王子様でも違和感なくてずるいって本気で思ってた。ちっちゃい頃から変に気が強かったんだよね、私」
「子供って妙なところにこだわり持ったりするからな」
 播上もどこか納得した様子で頷いていた。
 一人っ子の彼は、お義母さんの話によれば子供時代から家やお店の手伝いをする大変いい子だったらしい。私もそういう播上は想像がつくし、彼らしいと思う。彼の作る料理はどれも基礎がしっかりしていて、それはずっと昔からこつこつ築き上げてきた経験に裏打ちされたものなんだってわかる。
 私ももう少し昔からやっておくべきだったかな、とも思うんだけど――料理上手だったうちの母から習った技術はほんのわずかで、後はもう一人暮らしするようになってから、必要に駆られて料理するようになったようなものだから。当然、技術でも経験でも、播上に敵うはずがなかった。
 それでいて私は、肝心なことは習い忘れていたくせに、気の強さ、どうしようもない負けず嫌いな性格だけは子供時代からずっと引きずっていた。カレーの王子様なんて女の子向きじゃない、などと反発するようなすごくどうでもいい負けん気を、初めて播上のお弁当を見た時にも発揮してしまった。
 播上の、完璧に近いきれいなお弁当を見た時、悔しかった。
 この人には絶対負けたくないって、思った。
 でもその気持ちは播上と過ごすうち、あっという間に消え去ってしまって、すぐに別の感情が芽生えた。彼に敵わなくてもいい、せめて後を追い駆けられるように、置いていかれないように頑張りたい。そしていつか、彼に認められたい――そう思うように、いつしか、なっていた。
 私がその気持ちの本当の意味に気づくまで、随分と長い時間がかかってしまったけど。
 今でも、時々思い出す。認められたい、と思った時の何とも言えないごちゃ混ぜの気持ち。播上が羨ましくて、こうなりたいって強く願って、そしてそう願うことに対して不思議なくらい明るい希望を抱いていた。
 そう願っている限り、私はどこまでも走れそうな気がしていたんだ。
「用意できたよ。向こう、持ってくから」
 播上がカレーのお皿を二枚とも手に取り、食卓へと運んでいく。
 私も冷たいお水やスプーンを用意して並べて、それから二人で向き合って座り、手を合わせる。
「いただきまーす」
「いただきます」
 ご挨拶の後で、一緒にカレーを食べ始める。
 その味は言うまでもなく、とびきり美味しかった。トマトベースのシンプルなカレーは、程よい辛さと酸味が引き立っていて、ご飯にもよく合う。おせち料理に慣れた舌にもいい刺激になった。
「うん、すごく美味しい!」
 私が一口目から誉めると、播上は照れ笑いを浮かべつつも当然という顔をする。
「美味しく作ったからな」
 本当、料理に関しては堂々としてて自信も持ってて、すごく格好いいのにな。
 それ以外のことでも自信持っていいのに。少なくとも私の人生と、負けず嫌いなだけだったどうしようもなく子供っぽい性格を変えてくれたことは、確かなんだから。
「播上は、私のカレーの王子様かな」
 食べながら私はそう言った。
 途端、播上にはきょとんとされてしまった。当たり前だろうけど。
「カレーの……? 何かそれも微妙なような」
「私はすごくしっくり来たんだけどな。ようやく私も、私用の、カレーの王子様を見つけたのかなって」
 女の子なのに『カレーの王子様』を食べていて、密かに不満を募らせていた子供時代。
 でも大人になった私は、そういうつまらない気持ちすら晴らしてくれる、素敵な王子様を見つけたわけだ。しかも、とっても美味しいカレーと一緒に。
 だったら播上はカレーの王子様、でもいいと思う。
 ところが本人は少々不満顔だった。ちょっと苦笑しながら言われた。
「俺は、カレー以外も美味しく作れるよ」
「あ、そういうの、不満なんだ……」
 それはまあ、そうですけど。播上はカレーだけじゃなく、普通の料理のみならずお菓子まで美味しく作ってしまう、魔法の手の持ち主だけど。
 だからこそ、私としては、王子様枠に推薦したいって思うのに。
「じゃあもう、普通に白馬の王子様でいいじゃん。播上にはその資格があるよ」
 私がそう言えば言ったで、播上はかぶりを振る。
「だから、それは柄じゃないって。そこまで格好よくもないしさ」
「格好いいよ! 全然おかしくないよ王子様でも!」
「いや……そう思ってくれてるの、真琴だけだから」
 シャイな播上は全く頑なだ。逆に宥めようとしてくるから、私は思わずむっとして言い返した。
「いいじゃない私だけで。こんなにいい女にそう言ってもらってるんだよ!」
 すると播上は一度目を丸くした後、頬を赤くして、やっぱり照れながらこう言った。
「……うん。嬉しいよ、ありがとう」
 素直になられると、今度はこっちが照れてくるから困る。
 私だって、ここまで言いたくなるほど好きな人ができるなんて、思ってもみなかったな。

 彼はカレーだけじゃなくどんな料理も美味しく作れる、私の王子様です。
 そんな彼と、結婚してからもうすぐ、一年になります。
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