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六年目(3)

 駅前までは歩いて向かった。
 寝不足の頭に七月の炎天がきつい。だが意識はぼうっとするどころか、駅に近づくごとにはっきりしていく。そして駅前の駐車場で見覚えのあるコンパクトカーと、その傍らに立つ細身の人影を見つけた時、現実的な緊張感が襲ってきた。
 清水がいる。約三ヶ月ぶりの彼女がそこにいる。

 深呼吸を一度。滲んだ汗を手の甲で拭い、それから歩み寄ると、俺が声を掛ける前に彼女が振り向いた。
 短い髪がふわっと揺れて、やがて静止した時にはにかんだ。今日の服装はノースリーブのブラウスとふくらはぎ丈のジーンズ。私服姿を見るのは二度目で、一度目と同様、地味なのにいやに色っぽく映った。
「あ、播上」
 照れを含んだ声の後、清水は可愛く小首を傾げた。
「久し振り。時間、ぴったりだね」
「ああ」
 俺は表情も言葉もどう返していいのかわからず、とりあえず顎を引く。それから早速尋ねた。
「疲れてないか、清水」
 何せ片道六時間の道程だ、彼女一人の運転では大変だったことだろう。
「ううん、ちっとも。眠くもないしね」
 清水はかぶりを振る。
 その言葉通り、浮かべた笑顔は夏の陽射しにも負けないくらいにいきいきしている。可愛い。
「だから心配しないで。せっかく会えたんだから、出来るだけ一緒にいようよ」
 そう言われて、俺は少し迷った。
 一緒にいたいというより、せっかく会えたんだから二人きりでいたいのもやまやまだ。だがうちの両親のあの浮かれよう、張り切りようをむげにするのも困る。
 しばらくためらい、考えてから切り出した。
「清水、もしよかったら、面倒でなければ頼みがある」
「え? どんなこと?」
 怪訝そうにする彼女。
「その、うちの両親が会いたがってるんだ。もし迷惑じゃなければ」
 俺がそこまで言うと、笑って語を継いでくれた。
「ご挨拶に行く?」
「いいのか? 無理はしなくていいんだからな、別に今日じゃなくても」
 自分で言い出しておきながらこの物言いもないと思う。彼女がどう返事をするかなんてわかりきっているくせに、つくづく勝手な奴だ。
「大丈夫だよ」
 清水は、そんな俺にも相変わらず優しい。
「そういう機会あるかもなって思ってたくらいだから」
「悪いな。それならそれで前もって言っておくべきだった」
「いいってば。難しい話をしに行くわけでもないんだし、平気」
 そう言った後で、彼女が冗談っぽく続けてみせる。
「言い方は悪いけど、播上のご両親も一度見てみたかったんだよね。お誕生日にカボチャをくれるなんて、さぞユニークな家庭なんだろうって思ってたから」
「見て面白いものでもないよ」
 俺はどう釘を刺しておくべきか、少し悩んだ。決してユニークなんて柔らかい形容の似合う家庭ではない。多分。

 彼女の車の助手席に乗り込み、家までの道案内をする。
 片田舎の道は混んでいる。駅前から海岸への通りは進みがゆっくりだった。さすがは三連休だ。
「海のある街っていいよね」
 運転しながら清水が呟く。
「海、好きなのか」
「うん。潮風の匂いがするから」
「よかった。清水に気に入ってもらえなかったら、どうしようかと思った」
 息をつき、俺は助手席側の窓から景色を見やる。どちらかと言えば寂れつつある駅前通りの風景。この街もよそと大差なく、郊外にショッピングセンターが建ち、人が中心部から流れていると聞いている。典型的な田舎町だ。
「ここは遊ぶ場所も、買い物をする店もあまりないけど、海と温泉はたっぷりあるんだ」
「わあ、いいな。どっちも大好き」
 彼女が声を弾ませる。俺も浮かれて、明るく続けた。
「あと、うちの店もある。大将は無口で女将はお喋りだから気をつけてくれ」
「楽しみにしてる。播上のお母さんがお喋りっていうのが、まず想像出来ないな」
「ものすごくテンション高いから、うざったくなったら無視していい」
「それは無理だよ!」
 清水が楽しそうに笑う。その笑い方は記憶と何ら変わっていなかった。
 彼女が俺の隣にいることを改めて自覚し、幸せに思う。
「清水に、気に入ってもらえるといいんだけどな」
 この街も、うちの親も、どちらとも。
 運転席の彼女は横顔で微笑む。
「播上、心配性だよね」
「ここで気に入ってもらえなかったら、と思えばな」
「大丈夫だってば。それより、私がちゃんと挨拶出来るか心配してて」
「それは別に。お前なら大丈夫だ」
 俺が言い切ると清水は吹き出し、おかしそうに続ける。
「そこまで信じてるなら、全部信じ切ってくれないかな、私のこと」
 片道六時間の疲れを見せない、軽い口調だった。
 返す言葉もなくなる。俺はただ、素直な感謝を述べた。
「……ありがとう、清水」

 家の前に車が停まると、すぐに玄関のドアが開いた。
 どうやら待ち構えていたらしい。駆け出してくる年甲斐もない母さんの姿に、俺はこっそり息をつき、それからシートベルトを外す。
 エンジンを切った清水がそちらを見やり、小さく笑い声を立てた。
「もしかして、あの人が播上のお母さん?」
「……ああ」
 母さんは生垣の外まで出てくると、まずは清水に対してお辞儀をした。にこにこと上機嫌の様子だ。
「笑顔の素敵な人だね」
 清水はそう言ってから、まずうちの母さんに対して頭を下げた。それから車の外へ出た。
 母さんは真夏の気温をものともせず、ばたばたと清水の傍に駆け寄る。
「どうも初めまして! 正信の母でございます」
 表情も声も実ににこやかだった。しかし、俺に紹介もさせずさっさと挨拶を済ませるっていうのはどうなんだろう。紹介の台詞を考え始めていた俺は、いきなりの行動に口を閉ざすほかなかった。
「初めまして、清水と申します」
 緊張気味の笑顔で清水も応じる。
 それに気づいてか母さんは早速まくし立ててきた。
「清水さん、お話はいつも正信からしっかりばっちり聞いてます。遠いところからはるばるお越しくださって、ねえ。正信もすっかり舞い上がっちゃって、今朝なんて四時起きだったんですよ」
「四時起き?」
 清水が驚いたように俺を見たので、俺は慌てて母さんを咎めた。
「母さん、そういう話はばらさなくていいから」
「まあ正ちゃんったら照れちゃって。でもそうねえ、話に聞いていた以上にきれいなお嬢さんだもの、舞い上がっちゃうのも当然よね」
 母さんはしたり顔だった。
 うんざりする俺をよそに、清水は気恥ずかしげにしてみせる。
「そんな、それほどでも……」
 確かに清水はきれいだと思うし、もじもじする横顔もなかなか可愛い。しかし母さんのマシンガントークは危険だ。このままだとどんな暴露話を繰り出してくるかわかったものじゃない。
 そう思い、ひとまず二人を促す。
「炎天下で立ち話することもないよ、中に入ろう。清水も――」
「あらそうね。清水さん、どうぞお入りになって。何か冷たいものでもお出ししますから。ほら正ちゃんももたもたしないの」
 俺の誘いは母さんの勢いに遮られた。呆気に取られる俺を尻目に、母さんは羽でも生えてるみたいに素早く玄関へ駆け込んでいった。
 家の前には俺と清水だけが残された。
 この辺りは古い家屋の立ち並ぶ住宅街で、本来ならとても閑静な一帯だった。じりじりと照りつける夏の太陽の下、今頃思い出したように蝉が鳴き始めた。夏の蝉すらうちの母さんには敵わないようだ。さもありなん。
「ごめん、騒々しい母親で」
 俺は彼女にこっそり詫びた。
 舞い上がっているのはむしろあっちの方じゃないか。俺の四時起きなんてまだ可愛い。
「ううん。明るくて楽しそうなお母さんじゃない」
 清水は笑顔で言った後、意味ありげに声を落とす。
「でも知らなかったな。播上、『正ちゃん』って呼ばれてるんだ?」
 ぎくりとする。
 母さんも最初のうちは『正信』と呼んでくれていたようだったが、呆気なく普段通りの呼び方に戻っていた。清水が聞き逃していたらいいなと思っていたものの――普通に考えて、そんなはずもなかった。
 だからいつも言ってるのに、ちゃん付けはもう止めようって。
「止めてくれっていつも言ってるんだけど、全然聞いてくれなくて、その」
 俺は冷静に弁解しようとして、かえって醜態を晒した。清水にはにやっとされた。
「そんなに慌てなくてもいいのに。可愛いじゃない、正ちゃんって」
「可愛くない。恥ずかしいよ、二十八にもなって」
 このままだと一生そう呼ばれそうな気がして余計に悩ましい。にもかかわらず、清水は妙に楽しそうにしている。
「ね、私も正ちゃんって呼んでいい?」
「忘れてくれないか、清水」
「えー、どうしよっかなあ」
 こちらの懇願もどこ吹く風で、いたずらっ子みたいな顔をする。緊張はすっかり解けたようだ。
 払った犠牲は、俺にとってはとても大きなものだったが。

 彼女を家に上げ、風通しのいい居間まで通した。
 そこにはいそいそと麦茶の用意をする母さんがいて、床の上で正座をしている父さんもいた。俺達が入っていくと、すかさず父さんが強張った顔を上げた。
「いらっしゃい。運転、お疲れでしょう」
 挨拶の言葉も硬く、普段よりもずっとぎこちない。この場にいる誰よりも父さんが緊張しているようだ。
 見かねたらしい母さんが口を挟んできた。
「清水さん、うちのお父さんったら若くてきれいなお嬢さんが相手だと照れちゃうのよ。機嫌が悪いわけではないから安心してね」
 それに対しても父さんは無言だ。ただ居心地悪そうに座り直していた。
「初めまして、清水です」
 清水が笑んで挨拶をすれば、ぎこちなく笑い返してみせる。
「どうも」
 あとは母さんが、父さんの分まで語を継いだ。
「さ、清水さんも正ちゃんもこっちに座って。お外は暑かったでしょう、まずは冷たいお茶をどうぞ。あ、正座なんてしないで、遠慮なく足を崩してくださいね。ところで、清水さんは麦茶でよかったかしら?」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
 愛想よく応じた彼女が床に腰を下ろし、俺も落ち着かない気分でその後に続く。卓上に四人分のコップを並べた母さんが最後に座る。すると室内には柔らかい沈黙が落ちた。
 俺と清水と、俺の両親が、うちの居間で一つのテーブルを囲んでいる。
 何だか非現実的な光景だと思うのは、やはり緊張のせいだろうか。
「それにしてもねえ」
 沈黙を破ったのは、例によってうちの母さんだった。
「正ちゃんが女の子を連れてくる日が来るなんて、何だか感慨深いわあ。清水さんもご存知でしょうけど、うちの子と来たら昔からそういうことには疎くてね」
「存じてます」
 清水が否定もせずに頷いたので、事実とは言え俺は苦笑するしかなかった。
「でもよかったわ、こうして清水さんみたいな、きれいで優しいお嬢さんに出会えて。正ちゃんもこれからうんと頑張らないとね、清水さんを幸せにしないと駄目よ、罰が当たるわよ」
 母さんは相変わらずお節介焼きだ。
「もちろん、そうするよ」
 そんなの言うまでもない、当たり前のことだと思っていた。努力もしている。まだ始めたばかりで、これから先どうなるかは見通せていないが。いつまで彼女を待たせているのか、そのことだってはっきりしていないのだが――。
 その時、隣の清水がふっと笑った。
「大丈夫です。必ず幸せにしてくれるって、そのことも存じてますから」
 彼女がちらと俺を見る。照れ笑いが滲むように浮かんだ。
「播上……正信さんには、同じ会社で働いていた頃からずっと、支えてもらっていました」
 名前を呼ばれたのは初めてだった。
 そんな場合じゃないとわかっていても、心拍数が上がった。
「正信さんはいつでも穏やかで、優しくて、滅多なことでは怒らない人です。一緒にいたらそれだけで幸せになれる人です。だから私は、この先のことはちっとも心配していません」
 買い被るようなことを言われたのは初めてじゃなかった。
 清水はやけにきっぱりと言い切ってから、思い出したようにはにかむ。
「あの、ですから、大丈夫です。正信さんが夢の為に努力しているのも存じてますし、私はその後を追い駆けていけたら、それだけで十分幸せです」
 俺はその言葉の間、ずっと彼女の表情を見つめていた。
 照れているくせに頼もしげな横顔に、改めて思う。必ず彼女を幸せにしよう。彼女の気持ちに見合うくらいに――いや、それ以上に。
 父さんと母さんも、清水を黙って見つめていた。やはり先に動いたのは母さんの方で、ゆっくりと、口元をほころばせた。
「まあ……」
 溜息の後、嬉しそうな声が続く。
「清水さん、ありがとうございます。私達の息子を好きになってくださって」
「そんな、こちらこそです。こうしてお招きいただいて嬉しいです」
 かぶりを振った清水の表情は至って明るく、迷いがなかった。
 なのに俺は胸が詰まってしまって、この場では何も言えそうになかった。彼女の決意と気持ちの強さが眩しいくらいだ。先月の電話で『面と向かっては言えない』と話していた彼女は、でもこれだけの言葉を重ねてくれた。俺なんて面と向かってどころか、何一つとして言葉が出てこない。せっかく彼女が隣にいるのに。この家に、ここにいるのに。
 だから、せめて手を重ねた。
 隣に座る清水の、膝の横で握られた手に自分の手を重ねてみる。小さなほっそりした手はすぐに軽く開かれて、俺と繋がった。彼女の手は心地良くて、柔らかくて、温かかった。
 彼女の手も、きっと魔法の手だ。俺を幸せにしてくれている。
 そのまま俺達はしばらく手を繋いでいた。父さんと母さんもそのことに気づいているはずなのに、何も言わなかった。認めてもらえたのだとわかって、そのこともまた幸せだった。
「清水さん、お昼ご飯はどうします」
 やがて、父さんが口を開くなりそう言った。
 俺と清水と、それから母さんが一斉に面を上げる。あまりに脈絡のない言葉に、驚いたのは恐らく俺だけではなかっただろう。
「え? ええと……」
 さしもの清水も答えに窮したようだ。当たり前だ。
 でも父さんは父さんで、さも当然のように俺に尋ねてきた。
「正信。清水さんのご飯をどうするかは考えてたのか」
「いや、特には。外に出るなら、外で食べてこようとは思ってたくらいで」
 せいぜい、時間があればこの街の案内でもしようかと思っていた程度だ。細かく予定を立てていたわけじゃない。
 父さんは満足げに顎を引いた。
「なら、いい機会だ。お前が作って差し上げろ」
「俺が? 構わないけど」
 まあ、それはそれで別にいい。俺が答えると、清水は気遣わしげにこちらを見る。彼女の為なら昼飯の用意くらいどうってことはない。そう思った。
 だがそこで、父さんがもう一言続けた。
「店にお通しするんだ。今なら、貸し切りだ」
 確かに貸し切りには違いない。
 店が開くのは夕方だし、今は正午少し前。彼女一人に食事を振る舞うならいいタイミングなのかもしれない。
 ただ、まるで図ったような提案だったように思えてならない。

「むちゃくちゃ用意がいいよな、父さんも母さんも」
 仕事着に着替えながら俺はぼやく。
 ぱりっと糊を効かせた甚平がクローゼットに用意されていた。俺がアイロンを掛けたものよりもずっと仕上がりがよかった。
「最初から、清水を店に招く気つもりだったの?」
 俺は同じ部屋で着替えをしている父さんに尋ねた。父さんはにこりともせずに答える。
「ああ」
「何で前もって教えてくれなかったんだよ」
「お前が気負うといけないからな」
 父さんまでもが全てお見通しみたいな言い方をする。
 かえってプレッシャーだと応じかけて、俺は口を噤む。
 本物のお客さん相手なら、プレッシャーも何もあったものじゃない。むしろあれこれと気負わずに挑める方がいいのかもしれない。心の準備は全く出来ていなかったが、清水に日頃の成果を披露すること自体は異存なし。むしろいい機会だ。
「彼女、いい子だな」
 洗面台で手を洗い始めた俺の耳に、父さんの言葉が続いて聞こえた。
「大切にしろよ、正信」
 やっぱり、父さんに言われると妙な感じがする。母さんならともかく、うちの父さんが女の子を、それも俺の彼女について評価をするなんて今までは想像つかなかった。
「もちろんそうするよ」
 肘まで洗いながら答えると、水音に紛れて微かな笑い声が聞こえた、ような気がした。
「相手がいい子だからと言って、それに甘えていては駄目だ」
 釘を刺されて、俺も少し笑う。
「わかってるよ」
「父さんはそれで、危うく逃げられるところだった」
 蛇口を閉めると水音が消える。視線を上げれば、鏡には父さんの後ろ姿が映り込んでいた。こちらを向かない背中。
 その背中におずおずと尋ねてみる。
「逃げられたのか?」
 父さんは答える。
「何とか、間に合った」
 なるほど。
 腑に落ちた俺はそれでも気になって、もう一つだけ聞いた。
「間に合ってよかったって思ってる?」
「当たり前だ」
 子供の頃から時々思っていた。うちの父さんと母さんはどうして結婚したんだろう。性格も言動もまるで正反対なのに、どうして喧嘩もせずに仲良くやっているんだろう。つくづく不思議だった。
 俺と清水も、いつかそう思われるようになるんだろうか。俺達は正反対と言うほどではないものの、どうして結婚したのかって、誰かに不思議がられる日が来るんだろうか。
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